「やはり学校を作りたい。フランス語か英語の読み書きをできるようにして、最初は子供向けの生活関連の本や植物図鑑を読ませる程度でいい。それだけでも、彼等の生活や農作業の効率は 飛躍的に向上するだろう。彼等はあまりにも知識から遠ざけられすぎている」
ヒョウガが本気でそう考えるようになったのは、至極 当然のことだったろう。
ヒョウガの提案に対する総領事の答えは、取りつく島もないようなものだったが。

「奴等に知恵をつけると、ろくなことになりません。本国に不利益をもたらす可能性もある。そうなれば、あなたの帰国後の出世の妨げにもなりかねません。馬鹿な考えを抱くのは やめた方がいい」
「不利益とは――。彼等がフランス語の読み書きができるようになることは、我々にも利益にしかならないことだろう。それは、彼等に 彼等がフランス人に近しい者たちだという自覚を持たせることになる。そうすれば本国への忠誠心も深まるだろうし、我々も彼等に指示を出しやすくなる」
スリーピング・ディクショナリーの慣習もなくすことができる――とは、さすがに言えなかったが、語学教育推奨のヒョウガの第一の目的は それだった。
が、風采のあがらない総領事は、首を横に振った。
まるで、幼い子供の他愛ない思いつきを笑ってやり過ごそうとする大人のように。

「それがいちばんの問題です。欧州で発行された本が読めるようになると、奴等は、民主主義だの人権だのと騒ぎ出す。奴等に そういう知恵をつけることが危険だということは、あなたにもわかるでしょう。我々は、ルソーやモンテスキュー等の啓蒙思想の書物によって 自由と平等の精神に目覚め、王制を倒した者たちの子孫なのですから」
「……偉大なる父祖たちの子孫であるあなたは、この地の農民たちの人権を認めないのか」
「奴等は家畜のようなものです。ですから、奴等の栄養状態を良くして健康を維持し、作業効率を上げるために環境改善を図るのは悪いことではない。だが、奴等に知恵をつけるという馬鹿な考えは捨てた方がいい。我々の真の仕事は、それですよ。奴等を知恵のない従順な家畜のままにしておくこと。なにしろ、奴等は数だけはありますからね。かのリアンクール公爵の真似をするわけではありませんが、暴動ならまだしも革命でも起こされたら、それこそ大変だ」
「……」

まともに仕事をしていない総領事。
彼が本国に呼び戻されないのは当然のこと。
ヒョウガはそう思っていたのだが、実は彼は 彼の職務に実に熱心に務めていたのだったらしい。
確かに人間である者たちを 家畜と言い切る彼に、ヒョウガは吐き気を催しそうになるほど不愉快になった。
今日も、ヒョウガの後ろにはシュンが控えている。
シュンのいるところで、ためらいもなく『おまえたちは家畜だ』と言い切る彼の神経が、ヒョウガには理解できなかった。
もっとも、彼のその発言こそが、彼がこの地の者を――シュンを含めた この国の者たちを――家畜と信じていることの証左なのかもしれなかったが。

ともかく、シュンとシュンの同胞のために反論しなければならない。
そう考えて口を開きかけたヒョウガを、勤勉な総領事が遮ってくる。
「しかし、意外ですな」
と、彼は、ヒョウガの顔をまじまじと見詰めて言ってきた。
「何がだ」
「何が、とは。あなたも人権を無視しているではありませんか。与えられた辞書が随分と お気に召したようで、片時も離さないと聞いています。新しく来た領事様は 彼の辞書が手許にないと途端に機嫌が悪くなると、召使いたちが噂していましたよ。あなたは、それは家畜扱いではないと考えておいでかな。それこそが、最も卑劣で残酷な家畜扱いだと――いや、失礼」

どうやらヒョウガが暮らす領事館には、総領事に通じたスパイがいるらしい。
あるいは、その意識もない無思慮な お喋りスズメが。
ヒョウガはむっとして、風采の上がらない、だが海千山千の総領事を睨みつけた。
だが、ここで 自分はシュンを家畜扱いなどしていないと告げるようなことをすると、シュンの立場が危うくなる。
結局ヒョウガは、反駁の言葉を喉の奥に押し戻すしかなかったのだった。
そんなヒョウガに、総領事が いかにも作りものめいて下卑た笑みを向けてくる。
「いえ、それが悪いと言っているわけではない。あなたの大切な辞書は、本国でもお目にかかれないくらいの美形ですし、美しいものを愛する気持ちは よくわかりますよ。私はこれでも若い頃には画家を目指していたくらいなので。ただ、我々は同じ穴の狢だということを、あなたが忘れないでいてくればいいのです」

言い返せないのは悔しいが、今は 自分のプライドよりシュンを守らなければならない――シュンを守ることしかできない――シュンの仲間までは救えない。
ヒョウガは唇を噛みしめて、不愉快な気持ちのまま、総領事館をあとにすることになったのだった。
馬車に乗り込み、他の誰の目も耳も気にせずに済むようになると、シュンが気遣わしげな目をしてヒョウガを見詰めてきた。

「ありがとうございます。ヒョウガのように高潔な精神をお持ちの方には、ああいう誤解を受けることは ひどい屈辱だったでしょうに」
「俺は高潔な男なんかじゃないと、何度言えばわかるんだ」
たとえ本当に高潔な人間だったとしても、その高潔に力が伴っていないのでは何にもならない。
シュンを家畜呼ばわりされても庇ってやれないほど、シュンの高潔の士は無力なのだ。
ヒョウガは、それが悔しくてならなかった。


領事館に戻ると、パリの叔父から手紙が届いていた。
両親を失い、革命で故国を失い、それ以降 すっかり人生に対して冷めた目を向けるようになってしまった甥が、異邦の地で、ますます無気力に、ますます自堕落に、ますます生に対して冷淡になっているのでしないかと、彼は案じているらしい。
叔父からの手紙には、『そちらの暮らしが退屈なのであれば旅行に出てみるのもいいかもしれない。モロッコあたりはどうか』などという、のんき極まりない提案が記されていた。

この叔父も、20代の頃に植民地での領事経験がある。
その際、彼は植民地での暮らしを退屈と感じるほど何もせず、彼の辞書と共に旅行を楽しんでいたのかもしれない。
そう思うほどに苛立ちが募り、その怒りに任せて、ヒョウガは 植民地の現状と宗主国の人間の傲慢への憤懣を書きなぐった返書をしたため、叔父に送りつけたのだった。

そうして少し落ち着いてから、ヒョウガは 自身のこれからを考え始めたのである。
故国、両親、財産――それらすべてを失ったヒョウガを引き取り養ってくれた叔父。
自分の人生の目的というものをすべて失った自棄もあって、自分は 自身の夢や希望など持たず 叔父の望む通りの道を歩んでやろうと、これまでヒョウガは考えていた。
植民地での領事職、帰国後の官僚職、いずれは政界に出て大臣職――。
もし今、そんな叔父の期待を裏切って、植民地の解放運動に身を投じたいと言い出したら、あの堅物の叔父は何と言うだろうか。
烈火のごとく怒るのか、それとも、甥の決意の無意味無益を こんこんと諭してくるのか――。

そんなことを 鬱々と考えながら半月あまりが経った ある日の夕刻。
パリにいる叔父から再びヒョウガの許に手紙が届けられた。
書かれているのは憤怒か悲嘆か。
そんなことを思い巡らしながら封を切った手紙に記されていたのは、ただ一文。
『植民地改善法案を 7月9日に議会に提出する』
パリで出された手紙がセネガルに届くまでには1週間以上の時間がかかる。
叔父からの手紙がヒョウガの手許に届いた その日が、7月9日だった。






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