ヒョウガの叔父がセネガルにやってきたのは、ヒョウガが幾度もシュンと同じ夜を過ごして、シュンと身体を交えることの歓喜や その歓喜を生むシュンの身体の素晴らしさを、比較的気安くシュンに語れるようになった頃。
そんな話題を出されても、シュンがヒョウガの腕や唇から逃げ出そうとしなくなった頃だった。
突然 前触れもなく――しかも、フランス議会は彼の提案した法案のせいで紛糾しているらしいのに――叔父の来訪を知らされたヒョウガは、慌てて客間に飛んでいったのである。
いつものようにシュンを従えて。

「アフリカの暑さに ばてているかと思っていたのに、随分と元気そうではないか」
外務省の副大臣の不意打ちのような来訪に、ヒョウガはかなり緊張していたのだが、彼はどうやらヒョウガの叔父として この地にやってきたものらしい。
唯一の身内である甥に対しても 滅多に謹厳な態度を崩すことのなかった叔父の、珍しく のんびりと やわらかな、そして 珍しく機嫌がよさそうな その挨拶に、ヒョウガは少々 気が抜けてしまったのだった。

「なぜ突然――」
「可愛い甥の顔を見たくなったのだ」
彼は本当に――珍しいことに――ひどく機嫌がいいらしい。
本国にいた頃なら口が裂けても言わなかったような戯れ言を、彼は口にした。
だが、あいにく、ヒョウガが訊きたかったのは、なぜ彼が突然アフリカくんだりまで やってきたのかということではなかったのだ。
「なぜ突然、あんな手紙――あんな法案を提出したんです」
とにかく、その訳が知りたい。
叔父の上機嫌に水を差すように険しい声で、ヒョウガは叔父に尋ねた。

「会うなり、その話か。久し振りに会った叔父に対して、会えて嬉しいくらい言えないのか」
「そんなことは後で言う。それより、質問に答えていただきたい。俺は、あなたが植民地の現状に関心を持っていることさえ知らされていなかった。今、パリを離れて大丈夫なんですか」
「今しか離れられそうになかったから やってきたのだ。あっさりと否決されるだろうと踏んでいた法案が、真面目に議論され出して、どうやら長期戦になりそうな気配を呈し始めたのでな」
いつまで経ってもヒョウガが椅子を勧めないので、彼は勝手に客間の肘掛け椅子に腰をおろした。
「長期戦?」
ヒョウガが、テーブルを間に置いた向かいの椅子に少々乱暴な所作で腰をおろす。

「植民地の者たちを今のまま奴隷の境遇に置くより、対等な同胞として共存共栄を図った方が両国の利益になるだろうと演説をぶって、私が あの法案を提出した翌日に、イギリス領のマラヤで反乱が起こったんだ。インド大反乱の例もある。私の法案を安易に否決するのは早計、一考の価値ありと考える議員が多く出てきたのだ。百年以上も続いてきた植民地経営を そう簡単に変えることはできないだろうとは思うが、本腰を入れて議論するとなれば植民地の現状調査も必要になるし――。ともかく半年は結論が出そうにない状況になったんだ。まあ、調査報告を聞けば、現状維持の危険や不利益、そもそも そんなことは不可能なのだということに、よほどの馬鹿でない限り気付くはずなのだが――」
「それはそうでしょうが、しかし、なぜ叔父上が。そして、なぜ今だったのか――」
「なぜ今なのかということなら――それは、おまえの怒髪天を衝いた手紙を読んで、もし、私の提出した法案が廃案になっても、おまえが私の意志を継いでくれるだろうと思ったからだ、もちろん」
「俺が?」
「そう、おまえが」

そう言って頷いてから、彼は、ヒョウガの背後に控えているシュンの方に視線を巡らせた。
何事かを探るように シュンの瞳を見詰め、やがて ごく薄く微笑する。
「そして、なぜ私なのかということなら、それは、私が おまえと同じ憤りを抱いているから――抱き続けていたからだ」
ヒョウガの叔父がまた、彼の甥ではなくシュンを見詰める。
シュンの上に何か懐かしいものでも見付けたような目をして、彼は静かに語り出した。

「私は、おまえと同じ歳の頃、仏領インドシナに領事として渡った。そこにも ここと同じ慣習があった。眠れる辞書――彼女は美しく、生気と希望にあふれ、優しく、強く、素晴らしい女性だった。私は彼女を愛し、彼女を悲惨な境遇から救い出したいと願い、決意し、その決意を彼女に告げた。だが、彼女は私の決意を喜んではくれなかった。彼女の望みは、彼女一人だけが救われることではなかったから」
「叔父上……」
ヒョウガには、叔父のスリーピング・ディクショナリーの考えが理解できた。
他でもない、シュンがそういう考えの持ち主だったから。
そして、せめて自分の恋人だけでも救いたいと願った叔父の気持ちも、痛いほどわかった。
他の誰でもない、今のヒョウガが 叔父と同じ思いを抱いていたから。

「もちろん、私は、彼女を私の実質的な妻にすることはできた。形式的にも――彼女を本国に連れていき、正式な妻にすることもできただろう。周囲から反対はされただろうが、それは不可能なことではなかった。しかし、彼女は自分一人だけが奴隷の境遇から救い出されることを拒んだ。だから、私は、必ず彼女と彼女の同胞の権利を取り戻すと彼女に約束し、それまで待ってほしいと言って、本国に帰ったんだ」
「それきり忘れてしまったのか」
「いや……。私の帰国から半年後に、彼女はインドシナで病で亡くなったんだ。悪質な熱病が流行って――国は 数ヶ月間 フランス人のインドシナへの渡航を禁じ、私は苦しむ彼女の許に駆けつけることさえできなかった」
「それは――」

それは、『気の毒に』の一言で済ませられるようなことではない。
もし自分が その時の叔父と同じ立場に立たされたなら――と考えるだけで、ヒョウガは胸が詰まった。
ヒョウガは 叔父の心を慰撫する言葉を見付けることができなかったのだが、彼は そんな甥を責めるようなことはしなかった。
代わりに彼は、強い口調で彼の甥に宣言した。
「私は、もちろん彼女との約束を果たす。彼女はもういないが、どれほど時間がかかっても、必ず約束を果たす。教育だ! 教育が大事なんだ!」
「……」
フランス人にあるまじき堅物の朴念仁と思っていた叔父が、実は 途轍もないロマンチストだったことを知らされて、ヒョウガは しばし呆けてしまったのである。
20年近くも昔の恋、その恋を守り、亡くなった恋人との約束を果たそうとしている叔父。
叔父を健気だと思うのは、ヒョウガは これが初めてのことだった。

「おまえという賛同者、後継者もできたことだし、私は、これからは表立った活動を始めるつもりだ。私は彼女との約束を果たす。だが、その実現がいつになるかはわからない。おまえは 私のような後悔をしないように――本国に彼女を連れていき、そこで二人で活動するのも一つの手だ。もし、彼女をこちらに残すのなら、医者と衛生面の改善だけは確実にやり遂げてからにすることだ」
「へ」
叔父の言う『彼女』が誰を指しているのか、ヒョウガは すぐにはわからなかったのである。
それが誰なのかを理解した途端、一瞬 ひやりと背筋が冷える。
「おまえの恋人を紹介してくれ。さっきから褒めたくてうずうずしている」

自分の甥が自分と同じ恋に落ちたことを、彼は喜んでいるらしい。
彼は、彼の甥の恋に運命的なものを感じているのかもしれなかった。
そんな叔父に、ヒョウガは本当のことは言えなかった。
少なくとも、今は言えないと思った。
「あ、ああ。シュンです」
叔父の誤解を解かずにいることに 少々罪悪感を感じつつ、シュンを叔父に紹介する。
叔父は にこやかに――というより、嬉しそうに深く頷いた。
「少々若すぎるような気もするが……実に可愛らしい。天使のようではないか。しかも、素晴らしく澄んで聡明そうな目をしている」

ヒョウガが解こうとしない誤解を、シュンは――“聡明な”シュンも――解こうとはしなかった。
宗主国の政治の中枢にいる大物に、ごく自然に やわらかな笑みを浮かべてみせる。
「僕たちの環境改善のための法案を提出してくださったと伺いました。どうもありがとうございます」
美しいフランス語。
ヒョウガの叔父は、それでシュンの知性を確信し、大いに満足したらしい。
目を細め、そして、微かに首を横に振る。
「君が礼を言う必要はない。むしろ、我々が君たちに謝罪すべきなんだ」
「そんな……。叔父上様は、ヒョウガのように 広い お心をお持ちの、お優しい方なのだと思います」
「優しい? ヒョウガが?」

わざとらしくシュンの言葉を反復し、“お優しい叔父上様”が、可愛い甥に皮肉げな目を向ける。
若気の至りで 冷めたニヒリストを気取っていた頃の話など持ち出されては たまらないと、ヒョウガは口許を引きつらせることになった。
幸い、ヒョウガの“お優しい叔父上様”は別のやり方で甥をいじめることにしたらしく、本国にいた頃のヒョウガの“優しくなさ”に言及することはしなかった。
「そう。心優しく、思い遣りにあふれ、聡明で、その上、情熱的。自慢の甥だ」
「きっと そうなのだと思っていました。ヒョウガが、叔父上様の お心を受け継いで、偏見や驕りのない優しい心を育むことになったのであれば、僕こそが叔父上様にお礼を申し上げなければなりません」
実に わざとらしく、可愛い甥に一瞥をくれてから、お優しい叔父上様は 笑いながらシュンに頷いた。
「確かに、私は、君に百万回くらい 礼を言われてもいいかもしれないな」
「ありがとうございます」

叔父の皮肉を皮肉と気付かず 素直に礼を言うシュンにも 軽い目眩いを覚えたが、そんなシュンに微笑んでみせながら、
「あとで口止め料をよこせ」
と可愛い甥を小声で脅してくる叔父に、ヒョウガは、顔のすべての部品を痙攣させることになったのだった。


ヒョウガの お優しい叔父上様は、10日ほどセネガルに滞在し、まだ手をつけたばかりのヒョウガの植民地改善の成果と現実を視察してから、『では戦闘再開だ』と言って、本国に帰っていった。
その間、ずっとヒョウガと――つまり、いつもヒョウガの傍らにいるシュンと一緒にいたにもかかわらず、シュンが少女でないことに気付かないまま。
叔父の誤解が、だが、ヒョウガは徐々に気にならなくなっていったのである。
叔父のかつての恋を知り、若い青年のような目をして夢を語る叔父を見ているうちに。
彼は シュンを大いに気に入ったようだったし、若い頃の恋のために独身を通している叔父が、たとえ真実を知っても、甥の恋を妨げるようなことはすまいと確信できるようになっていったから。

道は はるかかもしれない。
叔父と叔父の恋した人の夢、シュンの願いが実現するまでには、長い時間が必要なのかもしれない。
だが、希望はあるのだ。
力強い後見人がいて、そして、シュンがいる。
未来を悲観する要素が、ヒョウガの人生には何一つ存在しなかった。
希望と愛を手にしている人間の目には、幸福な未来しか映らないものだから。


1960年12月14日、国際連合総会において植民地独立付与宣言が決議される。
これによって、世界中の植民地には それぞれの自決権が認められ、植民地と呼ばれる地域は 地球上から消滅した。






Fin.






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