「瞬、離れろっ!」 アルビオレ先生の温かさに俺がうっとりし始めた途端、キグナスの険しい声が辺りの空気を震わせる。 キグナスは、ご丁寧に、声で瞬を制するだけじゃなく、俺の背にまわっていた瞬の腕を その手で引きはがし、そうしてから、俺の肩を勢いをつけて突き飛ばした。 正直なところを言えば、俺はキグナスの その振舞いに感動した。 自分にとって不愉快なことを『不愉快だ』とはっきり言ってしまえる人間は キグナス以外にも いくらでもいるだろうが、その不愉快なものを排除するために ここまで明確な行動を起こせる人間は少ないんじゃないだろうか。 キグナスの振舞いを見た星矢とドラゴンが、キグナスに向かって胸中で『空気を読めよ』とぼやいている声が、俺にははっきり聞こえた。 残念ながら、キグナスは突発性難聴に罹っているようだったが。 呆れるほど自分の心に正直な その難聴男は、目の前から不愉快な状況が消え去ると、実に堂々とした態度で 彼の意見を発表した。 「こいつに必要なのは、甘やかしたり、抱きしめてやったりすることじゃない。新しい生きる目的だ。瞬、おまえは対応を間違えている」 と。 この男は、己れの心に正直すぎる自分を恥じたり、照れたりする感性を持ち合わせていないのか? だいいち、“新しい生きる目的”なんて、そんなものがどこにあるんだ。 誰が俺に与えられるというんだ。 アルビオレ先生が生き返ってくれない限り、俺はそれを手にすることはできない。 そう、俺は思っていたんだ。 だから、俺は、その残酷な現実が悲しくて、奥歯を噛みしめ、顔を伏せたのに。 本当に、このキグナスって野郎は何を考えているんだ? それとも、何も考えていないのか? 生きる目的も夢も希望も失って 打ちひしがれている俺に、この馬鹿は突然、 「おい、瞬は俺の恋人だ」 と、脈絡のないことを言い出した。 あんまり脈絡がないんで、俺は、自分が4、5分の間、立ったまま気を失っていたのかと思ったくらいだ。 こいつは何を言い出したんだと 呆れている俺の前で、大馬鹿野郎が また、自分の言いたいことを――自分の言いたいことだけを――言い募る。 「以前、俺が貴様に会いにいったのは、瞬に興味を持っている身の程知らずの馬鹿野郎がいると星矢に聞いたからだ。そして、瞬を大したことがないと言ったのは、おまえを牽制するため。おまえから 瞬に近付こうという気を失せさせるため、ライバルを減らすためだ。何といっても瞬は俺の恋人だからな。俺は毎晩、瞬を抱いて寝ている」 あの時――キグナスが突然 俺の許を訪ねてきた時、俺は初めて聞く賞賛でない瞬の評価を喜び、安堵したものだった。 その言葉の裏にそんな意図があったことを今になって白状することは、百歩譲って キグナスなりの懺悔だと思うことにしよう。 だが、そんな小狡いことを考えるような男が、毎夜 瞬を汚しているというのは! それは懺悔ではないし、実際 キグナスは 自分がしていることを とんでもない悪事だとは思っていないようだった。 なぜ そんなことを、よりにもよって今、この俺に向かってキグナスは言うんだ。 脈絡もなければ、必然性もない、俺を怒らせるだけの――なんで、こんな馬鹿が この綺麗な瞬にそんなことができるんだ! 俺は、頭に血がのぼった。 「氷河! な……何を言い出したの……!」 瞬が、キグナスの意味不明で突拍子のない告白に 真っ赤になって氷河を黙らせようとしたが、キグナスは平然と、奴の言いたいことを言い続けた。 「貴様みたいな、聖衣も持たない雑兵はお呼びじゃないんだ。せめて、聖闘士くらいになってから、出直してこい。それくらいできないのでは、瞬には不釣り合いだ。不釣り合いどころか、瞬に近付く権利もない。まあ、いつまでも死んだ者に こだわったあげく、人を逆恨みするような男が聖闘士なんて無理な話だろうがな。アルビオレとやらも、馬鹿な野郎と関わりを持ったもんだ。見る目がなかったんだな。今頃、さぞかし あの世で己れの不明を恥じていることだろう」 俺は、俺の愚かさを認めていた。 俺の 瞬への憎しみが逆恨みだってことも、嫉妬のせいだってことも認めていた。 確かに俺は愚かだった。 それは認める。 だが、そのことでアルビオレ先生を貶められるのは我慢ならない。 俺が愚かなこととアルビオレ先生との間には何の関係もない。 俺が馬鹿なら、キグナスは卑劣。 瞬を汚していることを罪とも思わず、それを当然のことのように自慢し吹聴し――こんな卑劣で汚らわしい男が聖闘士になれるのなら、俺だって聖闘士にくらいなれるはずだ。 俺は確かに愚かな男だが、キグナスみたいな卑劣漢じゃない。 「無理かどうか! 聖闘士くらい、すぐにでもなってやる!」 「無理だ。今、聖域に青銅の聖衣はない。それとも、貴様、まさか白銀聖闘士か黄金聖闘士にでもなるつもりか」 「なってやるさ! 貴様みたいな恥知らずの我儘な野郎でも聖闘士になれたんだ。俺が聖闘士になれないはずがないだろう! 俺には 瞬に近付く権利もないだと !? 黄金聖闘士にでも何にでもなってやるさ。そして、今のその言葉、貴様にそっくり返してやる!」 売り言葉に買い言葉というのは、こういう やりとりのことを言うんだろう。 言うに事欠いて、『黄金聖闘士になってやる』とは、我ながら無謀にも程がある。 だが、こんな嘘つきの卑劣漢が瞬を自由にしてるんだと思うと、俺は言わずにはいられなかったんだ。 『黄金聖闘士になる』と宣言して、俺はキグナスを睨みつけた。 星矢が、でかい図体をした二人の男の子供じみた喧嘩に 呆れたような声を割り込ませてくる。 「あのさ、何度も しつこく言って申し訳ないけど、瞬は男だから」 「だが、キグナスは瞬を自分の恋人だと言っている」 「いや、だから、氷河はヘンタイなの」 「ならば、俺もヘンタイになる!」 「おいおい、黄金聖闘士の次はヘンタイかよ……」 真顔で断言した俺に、星矢は、ひどく情けなさそう顔を向けてきた。 星矢は もしかしたら、キグナスだけでなく この俺のことも仲間の一人として認めていてくれたのかもしれない。 だから、仲間の暴言を星矢は情けなく思ってくれたのかもしれなかった。 そんな星矢を見て、ドラゴンが苦笑する。 「この聖域に、氷河のようなヘンタイが二人も出現するわけか。空前にして絶後の事態だな」 ドラゴンは、俺とキグナスのガキの喧嘩を面白がっているようだった。 仲間のヘンタイ呼ばわりに腹を立てたのか、俺の黄金聖闘士宣言に呆れたのか、キグナスが仲間たちに背を向ける。 「ふん、馬鹿の相手などしていられるか」 そのままキグナスは踵を返してアテナ神殿の方へ歩き出した。 「おい、日本に帰るんじゃなかったのかよ。そっちは 方向が逆だぞ」 星矢に方向違いと指摘されると、キグナスは その足をとめた。 だが、奴は、進む方向を間違えたわけじゃなかったようだった。 「しばらく聖域にいる。日本に帰るのは、この馬鹿に身の程を教えてやってからだ。瞬、おまえも残れ。しばらく聖域にいて、俺とおまえの親密振りを この馬鹿に見せつけてやろう。それが この男のためだ」 俺は、ついさっきまで もう二度と あの天使には会えないのだと諦め、落胆し、自暴自棄になりかけていた。 だから、こんな暴挙に及ぶことになったんだ。 その理由はどうあれ、瞬が聖域に留まってくれるのなら、その姿をこれからも見ていられるのなら、こんなに嬉しいことはない。 キグナスの言い草には腹が立ったが、奴の言葉は俺を喜ばせた。 多分、俺はそういう顔をしたんだろう。 キグナスの高慢な言い草を喜ぶ顔。 そんな俺をちらりと一瞥し、すぐに俺に背中を向けて、キグナスは不愉快そうな足取りで 再びアテナ神殿に向かって歩き出した。 星矢とドラゴンが慌てて、帰国の予定を翻したキグナスのあとを追いかける。 「おまえさ、日本に帰るのをやめるなんて、そんな、敵に塩を送るような真似、おまえらしくないぞ。いいのか」 「なにも自分から憎まれ役を買って出ることはあるまい」 「うるさい。仕方がないだろう。このまま帰国したら、瞬はあの馬鹿のことを気に病み続けることになる」 キグナスの不機嫌な足取りの理由は、そういうことらしかった。 不本意な帰国取りやめ。 ふん。 そんなことだろうと思った。 ああ、そうなんだろう。 瞬がキグナスに自分の恋人として振舞うことを許しているのなら、狡猾で卑劣なヘンタイでも――キグナスは いい奴なんだろう。 だが、それを認めるのが癪で――本当に悔しくて――俺はキグナスの挑発に乗せられた身の程知らずの男を装い続けた――身の程知らずの男を装って、俺は瞬に夢のようなことを尋ねた。 「俺が本当に聖闘士になれたら、褒めてくれるか。アルビオレ先生の代わりに」 「あ……」 それは夢物語――叶わない夢物語のつもりで、俺は瞬にそう尋ねたのに、驚いたことに 瞬はそれを叶わぬ夢だとは思っていないようだった。 叶わぬ夢じゃなく 実現可能な未来を語るような目をして、瞬は俺の戯れ言に頷いた。 「僕は、アルビオレ先生の代わりができるような大層な人間じゃないけど、一緒に喜ぶことはできると思うよ。僕たちは、共にアルビオレ先生に学んだ仲間だもの。そうでしょう? アルビオレ先生の心と願いを、僕たちは受け継いでいるの」 瞬は俺を責めもせずに、そう言ってくれた。 そして、キグナスの暴言を弁護してきた。 瞬がキグナスを好きでいること、キグナスを信じていることが、いやでもわかる優しい響きの声で。 「氷河の言うことは気にしないで。氷河は氷河なりに――あなたに生きる目的を見付けてほしくて、わざとあんな物言いをしただけなの。氷河も、大切な人を何人も亡くしてるんだ。何度も打ちのめされて――でも、氷河は そのたび新しい希望を見付けて立ち直った。氷河は、希望を持つことの大切さを、誰よりよく知っているの」 わかってる。 キグナスは俺を怒らせて、奮起させるために、わざとあんな馬鹿げた挑発をしてきたんた。 でも、それは俺のためじゃない。 嫉妬で逆恨みするなんて見苦しいことをした俺を案じてる瞬のため、瞬の心が俺のせいで暗く沈み込むような事態を避けるため。 瞬の周囲にいる人間は、誰もが誰かのために生きているんだ。 あの憎たらしいキグナスも、卑劣で狡猾で おまけにヘンタイのくせに、本当は いい奴なんだろう。 そして、そんな卑劣で狡猾でヘンタイで いい奴の厚意に 俺が報いるには、意地でも聖闘士になって奴を見返してやることしかない。 あんな卑劣で狡猾なヘンタイでも聖闘士になれたんだ。 それは絶対に不可能なことじゃないだろう。 それでも――たとえ俺が黄金聖闘士になれたって、奴から瞬を奪うことは俺にはできないのかもしれないが。 奴は奴なりに瞬を愛し、瞬も その愛を受け入れているようだから。 この世界では、誰もが誰かを愛し、誰もが誰かのために生きている――。 アルビオレ先生――アルビオレ先生。 先生が理想としていた、誰もが誰かのために生きている世界、誰もが誰かを思い遣っている世界っていうのは――いい奴しかいない世界っていうのは、なんて切ない世界なんだろう。 瞬は、優しい心配顔で俺を見詰めている。 だから、俺は、俺よりアルビオレ先生に愛された瞬を憎むことはできない。 キグナスも――俺から俺の天使を奪った奴なのに、俺は奴を憎みきれない。 憎めたら楽なのに。 憎めたら、きっと楽になれるのに。 人を憎めない、憎む人のいない世界で生きていくためには、人は強くならなければならないんだ。 それが先生の理想だったんですか。 アルビオレ先生。 懐かしい人。 あなたの弟子たちが、あなたの夢見た世界を実現する。 多分、それがあなたの望んだこと、あなたの夢、あなたの希望だったんでしょう? その望みが叶うことを信じて、あなたはあなたの信じる正義に殉じていったんだ。 ならば、あなたの夢を叶えるために、俺は俺にできる限りのことをします。 もし俺が本当に聖闘士になれたなら、その時は、瞬と一緒に俺を褒めてください。 Fin.
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