その朝、いつも通りの時刻に目覚めた俺は騒ぎの中心にいた。 もちろん、それは俺が望んだことじゃない。 俺が望むものは、あくまでも どこまでも平和と静けさ。 喧騒と争いは、いつだって俺の意思を無視して、向こうから飛び込んでくるんだ。 だが、俺が望まない喧騒を運んでくるのは、これまでは大抵、星矢か氷河だった。 まさか、瞬が 俺を そんな騒ぎの中に引きずり込むことがあるなんて、俺は考えたこともなかったんだ。 問題のその朝。 俺は――どう言ったらいいか――何か ひどく甘く危険な空気の中で目覚めた。 何かがいつもと違うと感じて、目だけで周囲を見回し、その“違う何か”を作っている犯人に気付く。 気付いた途端、俺の身体と心は凍りついた。 あろうことか なかろうことか、俺の隣りに瞬が寝ていたんだ。 つまり、俺のベッドの中に瞬がいた――。 (なにーっ !? ) 恐るべき その事実に気付いた俺は、声もなく恐慌状態に陥った。 そのパニックの ただ中で俺が最初に思ったのは、もし このことが氷河に知れたら、俺は確実に氷河に殺される――ということ。 否、もしかしたら『このことが氷河に知れたら、俺は確実に氷河に殺される』と思ったからこそ、俺はパニックに陥ったのかもしれなかった。 それが瞬でなかったら――瞬以外の誰かでさえあったなら――俺は俺のベッドに無断で潜り込んだ不届き者を 極めて冷静に部屋の外につまみ出していただろう。 そこにいたのが あの氷河の片思いの相手であるところの瞬だったからこそ、俺は恐慌状態に陥ったんだ。 白鳥座の聖闘士であるところの氷河という男は 基本的にとんでもないズボラな奴で、自分の面倒もろくに見ないような男だ。 そんな氷河とは対照的に、瞬は極端な世話好き。 本当は兄である一輝の世話を焼きたいところなんだろうが、その一輝が城戸邸に寄りつかないもんだから、瞬の“世話”の主なターゲットは 一輝並に自分のことに無頓着な氷河になっていた。 へたな女の子では太刀打ちできないような可愛い顔をした瞬に 毎日 甲斐甲斐しく“世話”をされて、氷河は もともと瞬を憎からず思っていたに違いない。 それが、十二宮で、命を賭して命を救われるという“世話”を焼かれてから、氷河はすっかり瞬にイカれてしまった。 しかし、氷河は男で、瞬も男。 氷河は社会の慣習や価値観に全くといっていいほど囚われていない男だが、瞬はそうじゃない。 瞬は、礼儀を重んじ、社会のルールを重んじ、道徳的価値を重んじ、『お年寄りには親切にしよう』だの『外から帰ったら手洗い・うがいをしよう』だのという、小学校の今月の目標的なことを きっちり守ろうとするような子だ。 それで氷河は、いまだに瞬に『好きだ』と言うこともできないまま、瞬のお友だちの立場に甘んじている。 にもかかわらず――いや、『だからこそ』なのかもしれないが――瞬に対する氷河の執着心は尋常のものではなく、妬心や独占欲も並大抵のものじゃない。 一輝はもちろん、俺や星矢が瞬に近付くだけでも、噛みつかんばかりに凶暴な顔をして 俺たちを睨みつけてくるほどだ。 そんな氷河が この事実を知ったら、俺は奴にどんな目に合わされるか。 必ず殺されると、俺は冗談ではなく、99パーセント本気で思った。 だが、俺は死ぬには早過ぎるだろう。 確かに俺は、常人の一生分の争乱や混乱や冒険を経験済みだ。 だが、常人の一生分の平和や静けさや穏やかさまで経験済みなわけじゃない。 俺は、もちろん、まだ死にたくはなかった。 俺の命を守るため、これから俺が経験できるはずの平和や静けさや穏やかさを守るため、俺は このとんでもない状況から 何としても脱しなければならなかったんだ。 「しゅ……しゅ……瞬……!」 気持ちよさそうに眠っている瞬を起こすのは忍びなかったが、今は緊急事態だ。 俺は心を鬼にして瞬の名を呼び、掛け布の上から瞬の肩を揺さぶった。 瞬が、これはさすがに聖闘士というべきか、寝ぼけた様子も見せずに 即座に覚醒する。 瞬時に周囲に危険がないことを確認した瞬は、暫時その身にまとった緊張を すぐに消し去った。 そして、ひどく のんびりした声で、 「あれ、紫龍。どうしてここにいるの」 と尋ねてくる。 だが、それは俺のセリフだ。 「ここは俺の部屋、俺のベッドの中だ」 瞬のいる場所がどこなのかを教えてやると、瞬はあまり緊迫感のない ゆっくりした仕草でベッドの上に上体を起こし、周囲を見まわした。 幸いなことに、瞬は裸ではなかった。 ともかく、その事実に俺は心から安堵した。 それだけでも少し俺の生存の可能性が出てくるからな。 瞬は、自分のいる場所がどこなのかを把握すると、質問を変えてきた。 『どうして紫龍がここにいるの?』を、 「どうして僕がここにいるの?」 に。 しかし、どちらかといえば、それも俺のセリフだろう。 さすがに ここで、俺のセリフを取るなと瞬を責めることはできなかったが。 というか、俺はそれどころじゃなかったんだ。 のんびりした様子の瞬とは対照的に、俺は手足が緊張のせいで小刻みに震えるほど、この緊急事態に焦慮を感じていたから。 「原因究明はあとだ。とにかく、自分の部屋に戻れ」 「え……? あ、うん」 俺にはその趣味はない。 瞬は可愛いとは思うが、氷河と違って、瞬に対して それ以上の気持ちは抱いていない。 当然、俺は瞬に何もしていないはずだ。 瞬が俺のベッドで一晩を過ごした(らしい)ことを、氷河に知られさえしなければ、俺は生き延びることができるはず。 そう、氷河に知られさえしなければいいんだ。 俺に促された瞬がベッドを出る。 幸いなことに瞬は裸ではなかったが、夏場のこととて、パジャマの代わりに ピンクのタンクトップ、白いショートパンツ――いや、ホットパンツといっていいくらい短い丈のパンツを身につけていた。 いっそ裸の方が潔いんじゃないかと思えるほどの露出度に、正直 俺は目眩いを覚えたんだ。 どう考えても瞬は、『おなかを冷やさないこと』だけを目的として、自分の夜着をチョイスしている。 つまり、ちゃんと布で覆われているのは腹部と臀部のみ。 こんな格好の瞬を見たら、氷河は、その 「しゅ……瞬、何をのんびりしているんだ。頼むから、一刻も早く自分の部屋に――」 俺が心底から焦っているというのに、短パンの瞬は一向に俺の焦りに同調してくれない。 俺のベッドを出てくれたのはよかったが、何を思ったのか瞬は 俺の望む方向とは逆の方向に――つまり、ドアではなくベランダの方に小走りに移動していった。 「瞬、おまえ、寝ぼけているのか? ドアはそっちの方じゃない。そっちはベランダ――」 「星矢ー! こんな朝早くから何してるのー?」 (うわあぁぁ〜っ !! ) 悲鳴をあげずに済んだのは奇蹟だった。 いや、俺は多分、あまりに大きな声で悲鳴をあげすぎたんだ。 あまりに大きすぎて、それは可聴域を超えた超音波の悲鳴になってしまったに違いない。 だから、それは、人の耳に聞こえずに済んだ。 それだけのことだ。 それにしても――星矢が こんな朝早くから起き出して、庭にいる? いつも どちらが遅くまで寝ていられるかを氷河と争っているような星矢が? なぜ星矢は よりにもよって今日、そんな酔狂を起こしたんだ。 こんなに晴れているのに、今日は これから嵐でもやってくるのか !? 俺は、瞬が夏の早朝の庭に 星矢の幻を見たのだと思った。 そう思いたかった。 思いたかったのに。 「夏場に早起きするったら、ラジオ体操するためか、朝顔の観察日記つけるために決まってるだろ」 庭から、確かに星矢の声が聞こえてくる。 瞬の見たものが幻覚で、俺の聞いたものが幻聴だったなら、どんなによかったか。 だが、『いったいどこの小学生だ?』と言いたくなるような その答えを庭から返してよこしたのは、間違いようもなく天馬座の聖闘士で、それだけならまだしも、星矢は 気付いてはならないことにまで気付いてしまった。 「おまえこそ、こんな朝早くから なんで紫龍の部屋にいるんだ?」 なぜ気付くんだ! 迂闊で粗忽で注意力散漫、B型無頓着を売りにしている星矢が、今日に限って、そんな小さな大問題に! 俺は、今日という日の巡り会わせの悪さに、思わず運命の女神を呪いたくなった。 だが、俺は、そこで運命の女神の相手などしているべきではなかったんだ。 そんなことをしている暇があったら、星矢に不審者と思われることも 瞬に暴漢と思われることも恐れず、まず瞬の口をふさぐべきだった。 それをしなかったばっかりに、俺は黄泉比良坂への(何度目かの)最初の一歩を踏み出すことになってしまったんだ。 「僕、夕べ、紫龍の部屋に泊まったの」 瞬が、言ってはならないことを、実に明るい声で言ってしまう。 俺は目の前が真っ暗になった。 が、ここで優雅にブラックアウトしている場合じゃない。 すぐに善後策を講じなければ。 要するに、その事実が氷河の耳に入らなければいいんだ。 そう、それだけのことだ。 落ち着け、落ち着くんだ、ドラゴン紫龍! 「えーっ、それって まずくないかー」 星矢が、少し声のボリュームを落として そう言い、 「どうして?」 瞬の声の明るさは、相変わらず。 「どーしてって、そりゃあ――」 とにかく、星矢に口止めを。 そう考えて、俺は、うまく動いてくれない足を懸命に説得しながらベランダに出た。 そうして俺は初めて気付いたんだ。 どうして瞬が俺の部屋にいてはまずいのか、その理由を星矢が言いよどんだ訳に。 ラジオ体操をするためなのか 朝顔の観察日記をつけるためなのかは知らないが、なぜか朝寝坊が得意技の星矢が早朝の庭にいる。 それだけなら、俺はまだ希望を持ち続けていられただろう。 だというのに。 ああ、今日は厄日だ。天中殺だ。 13日の金曜日にして、仏滅の三隣亡。 1999年7の月の2012年12月21日。 ありとあらゆる不吉の日だ。 なぜか早朝の庭にいる寝ぼすけの星矢。 そして、その星矢の右横5メートルの場所に、どういうわけか氷河の姿までがあった――。 なぜだ。 なぜ、氷河が こんな朝早くから起き出して庭にいるんだ。 いつも どちらが遅くまで寝ていられるかを星矢と争っているような氷河が。 なぜ氷河は よりにもよって今日、そんな酔狂を起こしたんだ。 こんなに晴れているのに、今日は これから雪でも降ってくるのか !? 俺は、自分が夏の早朝の庭に 氷河の幻を見たのだと思った。 そう思いたかった。 思いたかったのに。 突如としてベランダの手擦りに生じた冷たい霜が、今 俺の視界に映っているものが幻覚でもなければ幻像でもないことを 冷酷に主張してくる。 氷河の顔は能面のように冷たく凍りついていたが、俺は 顔だけでなく全身が凍りついた。 それだけで、もう十二分に最悪な事態だったのに。 今まで瞬の露出度ばかり気にしていた俺は、自分自身が瞬以上に肌を露出していることに その段になって気付いた。 つまり、俺は上半身 裸だったんだ。 いつもの通りに。 その時、俺の背中の龍は おそらく顔面蒼白、今こそ天に昇って俺の背中から逃げ出そうと、無駄な足掻きを始めていたに違いない。 万事休す。 竹林の七賢に |