朝顔の精なるものの存在を否定するためにラウンジに戻った氷河を その場で出迎えたのは、昨日 氷河に心無い仕打ちをしてくれた瞬その人だった。 瞬は、氷河がラウンジのいつもの席に着席するまでの時間も待っていられないといった様子で、掛けていた椅子から立ち上がり、氷河の許に駆けてきた。 だが、だから何をするというわけでもなく、ただ熱っぽい眼差しで氷河を見詰めるばかり。 瞬のその態度に戸惑って(嫌な予感と嬉しい予感を同時に感じつつ)、氷河は瞬に尋ねてみたのである。 「瞬、どうしたんだ? 何かあったのか?」 と。 その質問に対する瞬の答えは、 「氷河と一緒にいたくなったの。ううん。ただ氷河の側にいたいの。ずっと氷河を見ていたい。今は氷河しか見たくない」 というもの。 瞬は、これを真剣と言わずして何を真剣と言うのかというような目で氷河を見上げ、見詰め、その目許に 微かな笑みさえ浮かべずに――つまりは完全な真顔で――そう答えてきた。 「……」 これは まさか、本当に、あの自称朝顔の精の力によって引き起こされた奇蹟なのか。 あれは存在しないものではなく、存在するものなのか――? にわかには信じ難い この展開に、氷河は声と言葉を失ったのである。 何も言わず(何も言えず)、その場に棒立ちになっている氷河の前で、瞬は初めて 視線を氷河から逸らし、そのまま瞼を伏せた。 「あの……迷惑なら、そう言って。遠くから見ているだけにするから。でも、氷河を見てることだけは許してね」 いったい この健気なセリフは何なのだろう。 昨日は氷河をひとり城戸邸に置いてきぼりにして、朝顔市などというくだらないイベントに(紫龍と二人で)出掛けていった無情な瞬が、たった一夜で この豹変。 あまりの急展開に目眩いを覚えつつ、しかし 氷河は懸命に自らに活を入れ、何とか瞬の前で卒倒する事態だけは回避したのである。 「あ、いや、見られて減るものではないし、それは構わないが……」 「嬉しい。ありがとう! 氷河、大好き!」 正直、氷河は 泡を吹いてぶっ倒れてしまいたかったのである。 朝顔の精が起こした奇跡、あるいは彼女の力をもってすれば自然かつ当然の この事態。 氷河は、あの小さな花の精の存在を信じないわけにはいかなくなった。 瞬は、それからずっと氷河から視線を逸らそうとはせず、星矢が出掛けようと誘いにきても、 「僕は氷河を見ていたいの」 の一言で、その誘いを断ってしまった。 『氷河、大好き』を繰り返す瞬に見詰められている快感と ときめき。 それは氷河を天国にいる気分にさせたのだが、瞬は、 「氷河を見ていたいから」 と言って、氷河の向かいの席から決して移動せず、ゆえに氷河は、瞬と見詰め合う以上のことはできなかった。 見詰め合っているだけの状態が息苦しくなり、どうすれば瞬とスキンシップを図ることができるのかと 氷河が考えを巡らせ始めたのが、およそ11時頃。 優に4時間になんなんとする見詰め合いのあと、この千載一遇の機会を逃すことなく 瞬を抱きしめてしまおうと、氷河が意を決した時だった。 「あれ、僕、今日、星矢と一緒に星の子学園に行くはずだったのに、どうして こんなとこで氷河と睨めっこなんかしてるの」 まるで夢から覚めたような顔になった瞬が そう言って、きょろきょろ周囲を見まわし始めたのは。 「わ! もう、こんな時間! 今日は、商店街の七夕祭りに出す七夕飾りをみんなで作ろうって言ってたのに。やだ、星矢、一人で行っちゃったのかな」 「いや、星矢は、おまえに俺の側にいたいと言われて――」 「星矢に任せちゃうと、星矢は七夕の飾りにサンタクロースだの雪だるまだのをぶらさげて、とんでもない七夕飾りにしちゃうのに……!」 「いや、あの、だから、瞬……」 引きとめる隙もあらばこそ。 瞬の態度の(二度目の)豹変に氷河が混乱しているうちに、瞬は慌てた様子でぱたぱたとラウンジを出ていってしまったのだった。 氷河の姿など視界にも入っていない様子で。 君子も真っ青な瞬の豹変ぶりに あっけにとられている氷河を、ひとり その場に残して。 |