氷河は、堂々と日中に山に入った。
氷河が神殿に辿り着くことができたのは、もちろん彼自身が身軽で敏捷で、敵手に見付かるような 失敗を犯さなかったからだったが、それ以前に、聖なる山の麓に集まっていた者たちが誰も 氷河のことを気にとめなかったからだったろう。
様子見を兼ねた物見遊山の気分で山に分け入った氷河は、野心家たちの意識に引っかかるほどの緊張感や緊迫感を その身にまとっていなかった。
そして、山は素直に氷河の前に道を開いてくれた。
聖なる山の頂にそびえる神殿の前に立った時には、氷河自身が そこに辿り着けてしまったことに驚いたほど、道行きは たやすかった。

つまり、神々は その道に どんな罠も試練も仕掛けてはいなかったのである。
神殿にいる少年の力を希求している者たちが なかなか神殿に辿り着くことができなかったのは、彼等が 神ではなく 彼等と同じ人間たちに邪魔されていたから。
最初から皆で語らって代表者を選んで送り込んでいれば、詰まらぬ小競り合いで命を落とす者もいなかったのではないかと、氷河は神殿の前で思うことになったのである。
彼は、人間と言うものは本当に愚かな生き物だと思わないわけにはいかなかった。
彼等がそういう話し合いを始めたら、今度は誰が代表者になるかで、愚かな者たちの間に別の争いが起きていたのかもしれなかったが。

それはさておき、氷河の前にそびえ立つ神殿は巨大だった。
彼が自国で仲間たちと暮らしている館が4、50は簡単に収まってしまいそうなほど。
問題の少年が こんなところにいるというのであれば、神殿に辿り着くことよりも、この神殿の中で一人の子供を探し出すことの方が余程困難な作業なのではないかと思えるほど。
幸い、氷河は、広い神殿の中を走りまわって 問題の少年を探し回らずに済んだのだが。
少年は、氷河の来訪に気付いて、向こうから姿を現わしてくれた。

「あなたは ここに何をしにきたの」
地上で最も清らかな魂を持つ人物は、あまり機嫌がよさそうではなかった。
ギリシャで最も高い山――健康な成人男子でも登頂が困難な場所に わざわざやってきた客人に対して、自分の名を名乗りもせず、客人の名を訊くこともせず、来訪の目的を問うてくる。
そして、問われたことに氷河が答える前に、
「最初にお断りしておきますが、この神殿に辿り着いたのは あなたが最初ではありません。既に6人の方々が辿り着いています」
「なに?」

少年にそう言われて、氷河は一応その事実に驚いた。
驚いてから、それは驚くべきことではないことに気付く。
オリュンポス山の麓がギリシャ中の王や その兵士たちで埋め尽くされているといっても、山の裾野は四方に広い。
抜け駆けを図る経路はいくらでもあるだろうし、そもそも この山の麓に神託直後に到着した者たちには、彼等の登頂を妨げようとする輩はいなかっただろう。
比較的オリュンポス山に近い場所から、軍も兵も率いず数人の仲間たち(だけ)と やってきた氷河でさえ、この山の麓に到着したのは神託の日から7日が過ぎてからのことだった。

「で、その6人のカタガタはどうしたんだ」
「お引き取り願いました」
「素直に帰ったのか」
「ご想像にお任せします。あなたは何をしに ここにいらしたんですか」
想像に任せると言われて、氷河は想像してみたのである。
最悪の想像は、その6人の命が 彼の(つまりは神々の)怒りに触れて、既に この世にない――というもの。
最善の想像は、彼を(つまりは神々の力を)手に入れ損ねたことを恥じて、自ら いずこかに姿をくらました――というもの。
できれば後者であることが望ましい。
そうであることを、氷河は祈った。

「俺は、地上で最も清らかな魂を持つといわれている者がどんなものなのか見てみたくて――」
「僕が、その“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”です。ご感想は」
「ご感想は、と言われても――」
そう尋ねられて初めて、氷河は正面から まじまじと、“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”を見てみたのである。

氷河の目の前にいる“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”は、すべての神々の祝福を受けているというだけあって、確かに美しかった。
清楚で可憐。
ギリシャで理想とされる男性美の要素は皆無だったが、ギリシャの大抵の少女が希求し羨むような姿をしていた。
身につけているものは、丈の短い純白のキトン。
のびやかな手足は、まだ子供のそれ。
姿形だけなら、彼よりもっと美しい者も、探せばギリシャのどこかに一人二人はいるのかもしれない。
しかし、彼ほど澄んだ瞳の持ち主はギリシャ中を探しても見付け出せないだろうと、氷河は疑いもなく信じることができた。
その瞳が、憤りとしか言いようのない光をたたえている。

「地上で最も清らかな魂を持つ者でも怒ることがあるんだな。安心した」
「安心? どうして?」
「いや、地上で最も清らかな魂を持つ者というのが、汚れを知らない ただの無知な人間と同義だったら、その力を利用しようとして甘言を吐く者に簡単に騙されてしまうかもしれないじゃないか。清らかなことが白痴と同じでないなら、これほど安心できることはない。おまえがおまえの力を与える者の選択を誤りさえしなければ、ギリシャから争いが一掃される日がやってくることも夢ではなくなる」
「その 誤らない選択で選ばれるのが あなただとでも言いたいの?」
「あ?」

“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”の言葉に、氷河は つい間の抜けた声を洩らしてしまった。
本当に我ながら見事なまでに間が抜けていると心底から思い、既に遅きに失した感はあったが、慌てて威儀を繕う。
「そうだった。ああ、もちろん そうだ。おまえが俺を選んでくれたら、俺は俺にできるだけのことをする。だが本音を言えば――」
「本音を言えば?」
「俺は ごく小さな国の領主にすぎない。より迅速に このギリシャに平和をもたらそうと思ったら、おまえは もう少し大きな国の王を選んだ方がいいと思う。アテナイ、スパルタ、ミュケーナイあたりだな。その方が、納得して臣従する者も多く出るだろう」
「あなたはどこの国の王がいいと思うの」
「アテナイだな。あの国は強大な軍事力を有しているのに、他国の侵略に積極的ではない。きっとアテナイの王は、争いより平和を望んでいるのだと思う」
「アテナイ?」

“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”は、氷河の推奨する国の名を聞くと、その唇に なぜか薄く、皮肉げな笑みを浮かべた。
すぐに その笑みを消し去り、氷河を正面から見詰め返してくる。
「あなたより先に この神殿に辿り着いた方々はどなたも、共に この世界の支配者になろうと、僕を誘ってきました。逆らう者は 神の力を頼んで滅ぼしてしまえばいいと。神の力があれば、アテナイもスパルタも一瞬で滅ぼしてしまえるだろうと おっしゃる方もいましたよ。もちろん僕は丁重に お断りして、彼等には速やかに お帰り願いましたが」
「アテナイもスパルタも一瞬で? 本当にそんなことを言う奴がいたのか? そんなことをして手に入れることができるのは平和じゃないだろう。おまえの判断は賢明だ。ますます安心した」
「彼等は平和など望んでいないようでしたよ。彼等が望んでいたのは、自分がギリシャで最も強い王になり、すべての敵を打ち負かすことのようでした。あなたは違うの」

「ああ、それで――」
それで、“地上で最も清らかな魂を持つといわれている者”は 遠来の客の前で、その憤りを隠そうともせず不機嫌な様子をしていたらしい。
喜ばしいことに、“地上で最も清らかな魂を持つ者”の望みは、ギリシャ世界に君臨する大王になることではなく、ギリシャに平和の時が訪れることなのだ。

「俺は、戦うことに飽きたんだ。戦いでどれほど勝ち続けても、敵をどれだけ攻め滅ぼしても、敵は次から次へと生まれてくる。今のままだと、俺は一生戦い続けなければならない。そして、戦いの犠牲者は女子供だ。おまえが誰か相応の力を持つ王のものになれば、他のギリシャの王や領主たちは皆、その男に臣従するだろう。なにしろ、神々を敵にまわすのは――」
「誰か相応の力を持つ王のものになるのが僕の務めだと、あなたは言うの? ギリシャを統一して、平和を実現するために、あなたは 僕に僕の心を殺せと言うの? 平和のために、僕に犠牲になれというの? 僕が誰かのものになるということがどういうことか、あなたは わかっているの?」

このギリシャで――もしかしたら どんな国ででも――ある人間がある人間のものになるということは、一方が一方に殺されるか、犯されるか、その二つの方法しかなかった。
対峙する人間に命を奪われて死ぬか、対峙する人間の生きている欲望を受け入れるか。
その二つのどちらかで、二人の人間の間に 決して破られることのない約束が成立する。
平和な時代、平和な世界でなら、他の方法もあり得るのかもしれないが、今のギリシャに第三の道はない。
神々に愛され、その清らかさを失うことなく生きることが許されてきた者には、それは屈辱的なことなのかもしれないが、この聖なる山の麓に集結している者たちは誰もが(地上で最も清らかな魂を持つ者の命を奪うわけにはいかないので)、性的に支配することで 地上で最も清らかな魂を持つ者の力を自分のものにすることを考えているはずだった。

「無論、わかっている。それが、とりたてて騒ぐほど稀有なことではないということもな。おまえのように特別な力を持つわけでもない普通の国の王女たちも同じことをする。自国の平和のため、人質同様の待遇で敵国に嫁ぐ。美しい王子がいたら、国の存続のために、それを強大な敵国に捧げる王もいる。そんな王子や王女たちより特別な力を持つおまえは なおさら、平和のために その身を犠牲にすべきだろう。それが力を持つ者、多くの人間を支配する立場にある者の義務だ」
ひどいことを言っていると、氷河は自分でも思っていたのである。
地上で最も清らかな魂を持つ者は、氷河の言葉に戸惑い怯えているようだった。

その澄んだ瞳を神々に愛されてきた者。
彼は、たとえ平和のためにでも、己れの心を殺し、我が身を犠牲にすることなど 考えたこともなかったに違いない。
『なぜ自分(だけ)が』と、彼は憤っているかもしれない。
自らの心を殺し、己れを犠牲にしているのはおまえだけではないと、氷河は言ってしまいたかったのである。
何が嬉しくて、これほど魅惑的な者に 他の男のものになることを勧めなければならないのか。
たった今、俺も俺の心を殺していると、氷河は彼に言ってしまいたかった。
今の氷河に、それは許されるはずのないことだったが。

「おまえが そこいらの なよなよと優しい男のものになっても何にもならない。その男はおまえを有効に活用できない。やはり、現時点で相当力を持つ者と組むのが 平和へのいちばんの近道だ。そうすれば、大抵の者は おまえたちに臣従する。その男の持つ地上の力とおまえの力――おまえの背後にある神々の力に恐れをなして。それで、このギリシャから戦いがなくなる。ギリシャは平和になり、戦いに巻き込まれて命を落とす者もいなくなる」
『それで、このギリシャから戦いがなくなる(かもしれない)』
『ギリシャは平和になり、戦いに巻き込まれて命を落とす者もいなくなる(かもしれない)』
氷河は、あえて自らの言葉を仮定形にしなかった。
ギリシャは既に『かもしれない』に賭けるしかない状況に陥っている。
ギリシャの人口は、百年前に比べても およそ3分の2ほどに減っていた。
一国の王を名乗る者の数は増えているというのに――ギリシャの分裂は加速度的に進み、対立の数は加速度的に増えているというのに。






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