kingdom

- I -







「ヒョウガ。おまえは独身主義者だな?」
アヴリーヌ伯爵にして王室侍従長、国王ルイ13世の篤い信頼を受けているヒョウガの叔父が、前触れもなく甥の部屋にやってきて、そんなことを言い出したのは 夏のある日の午前中のことだった。
読んでいたエセーのページを閉じてから、ヒョウガはおもむろに渋面を作ったのである。
『さっさと妻をめとれ。裕福な貴族の令嬢を』は叔父の口癖で、ヒョウガは その手の話題に今更 焦る必要はなかった。
しかし、『おまえは独身主義者だな』は新しい切り口である。
いつもであれば その手の話は適当に聞き流すのだが、今日に限ってヒョウガが読んでいた書物のページを閉じたのは、その新しい切り口に多少の興味を抱いたからだった。
城も領地も持たず、衣食住の世話をすべてしてもらっている居候の身としては、大恩ある叔父に すげない態度ばかりとってもいられないと考えたせいもある。
切り口がいつもと違うからといって、その手の話に本気で乗るつもりはなかった。

「何ですか。藪から棒に。言っておきますが、俺は別に独身主義者なわけじゃありませんよ。マーマより素晴らしい女性がいたら、喜んで その女性を妻にするつもりでいます」
叔父の新しい切り口に対して、ヒョウガはいつもの逃げ口上を口にした。
さすがに聞き飽きているのか、アヴリーヌ伯爵が甥の芸のなさを鼻で笑う。
「重度のマザコン男が母親より素晴らしい女性になど巡り会えるものか。そんな女性が目の前にいても、ああだこうだと難癖をつけて、やはりマーマ以上の女性はいないのだと自分を納得させて終わりだ」
「……」
アヴリーヌ伯爵は、伊達にマザコンの甥の面倒を10数年間に渡って見てきたわけではなかったらしい。
ヒョウガは返す言葉を思いつけず、結局沈黙することになった。
早速 アヴリーヌ伯爵が その沈黙の埋め立て作業にかかる。

「そういうわけで、独身主義の貧乏貴族であるおまえに耳寄りな話を持ってきた」
ヒョウガはバラデュール侯爵位を持っていたが、持っているのは爵位だけ。
叔父の言う通り、紛う方なき貧乏貴族だった。
先代のバラデュール侯爵だった父親が詐欺まがいの金鉱話に乗せられ、その経営に失敗して、借金まみれで亡くなったのが、今から12年前。
夫に先立たれたヒョウガの母は、バラデュール侯爵領と その城館を処分し、それでも返済額に足りずに、持参金として持ってきた彼女自身の領地を売り払って、すべての借財を清算した。
父の失意の死から2年後、ヒョウガの母が亡くなった時、バラデュール侯爵家には何も残っていなかった。
借金も、領地も、住む城も。
文字通りの無一物だったヒョウガが野垂れ死にせずに済んだのは、ひとえに叔父の援助があったればこそ。
ヒョウガは、決して 叔父に対して偉そうな口をきける立場にはなかったのである。

ヒョウガの叔父であるアヴリーヌ伯爵は、ヒョウガの父の4歳年下の弟である。
バラデュール侯爵家はヒョウガの父が継いで 見事に没落させてくれたのだが、その弟である叔父は宮廷に入り、その才覚と恵まれた容姿で王の気に入りになり、新しい爵位――アヴリーヌ伯爵位――と領地を授けられ、今では飛ぶ鳥を落とす勢いの有力貴族の一人となっている。
彼の仕事は、国王のプライベート全般の管理監督。
王の信頼なくしては務まらない仕事である。
叔父が持ってきた“耳寄りな話”というのも、その務めに就いている者だからこそ知り得た、国家機密レベルの重大事に関わる話だった。
ヒョウガの叔父は、声をひそめて、
「実は国王陛下には隠し子がいるんだ」
と、ヒョウガに告げてきたのである。

「なに?」
「今年16になったばかりの王女だ」
「まさか! そんな話は聞いたことがない!」
地位や財の儚さを身をもって知っており、それゆえ俗事には関心のないヒョウガにも、それは『くだらない』の一言で退けてしまえるような話ではなかった。
ヒョウガは驚愕し、だが すぐに、その驚愕を否定したのである。
そんなことがあるはずはない――と。

ヒョウガの驚きと その否定は、決して根拠のないものではなかった。
フランスの現国王ルイ13世には、22年前14歳でスペインから嫁いできた王妃アンヌ・ドートリッシュがいるが、二人の間に子供はなかった。
妻との間だけではなく、他の誰との間にも子供はないとされている。
そもそも、フランスの現国王は愛人の一人も持たず、それゆえ『純潔ルイ』とあだ名されている人物なのだ。
もっとも、純潔ルイが本当に純潔なのかどうかということは、実に疑わしいことだったが。

王が寵妃を作らないのは、彼が潔癖だからではなく、正妻に気を遣っているからでもない。
そして、彼に子がないのは、彼に愛人がいないからではなく、彼に子を作る能力がないからでもない。
それは王の特殊な性癖にる――というのが、ごく一般的な見方だった。
その特殊な性癖というのは、国王は女性より男性が好きなのだ――ということ。
嘘か真かはヒョウガも知らなかったが、それはフランス宮廷の――否、欧州全土の、公然の秘密とされていた。

噂の真偽はさておき、彼が その周囲に常に美しい寵臣をはべらせているのは事実だった。
国王がそれらの寵臣たちと肉体の関係にまで及んでいるのかどうかは定かではないが、国王が寵臣等と深い友情を育んでいることは、宮廷の誰もが認める事実。
ヒョウガの叔父が国王に取り立てられたのも、その才覚や巧みな弁舌の他に 容姿の力が大きかったと、これは叔父自身も認めていた。
もっとも、ヒョウガの叔父は、それこそ潔癖症の気があって、少なくとも王と叔父の間に そういった関係は成立していないと、ヒョウガは確信していたが。

独身主義というのなら、ヒョウガの叔父こそが その主義の信奉者だった。
とはいえ、彼に恋人がいないわけではない。
彼の恋人は仕事なのだ。
だからといって、それは彼の権勢欲が強いということではない。
彼は、与えられた任務を完璧にこなし、その結果として 自身の地位があがっていくのが楽しくてならない男なのである。
完璧主義者にして、勤勉の権化。
それがヒョウガの叔父であるアヴリーヌ伯爵だった。

「聞いたことがないのは当然だ。そんなことを公にできるわけがない。何といっても、王妃の実家のスペインとの関係が危うくなることは避けなければならないからな。無論、成婚から22年が経っても王に嗣子を与えることのできない王妃となれば、スペインも そう強くは出られないだろうが、あちらは、その責任はフランス国王にあると主張することもできる。表立った争い事にできない事情が双方にあるんだ」
「……」
とんでもない秘密を知らされてしまったヒョウガは、叔父の言に顔を引きつらせることしかできなかった。
こんな国家の重大事に関して、没落した貧乏貴族の小せがれに何が言えるというのか。
当然、ヒョウガは沈黙を守った。

「王女の母親というのは、既に10年前に病で亡くなっているんだが、王妃の侍女の一人だったんだ。王の愛人となり、娘を産んだあとも、ごく短期間 侍女として王妃に仕えていた。彼女の死後、王妃は事実を知ることになって――まあ、彼女は、信頼していた侍女と夫にずっと裏切られていたわけで、誇り高いスペイン・ハプスブルク家の王女としては とても冷静ではいられなかったんだろう。王の関心が男に向いているのなら、戦いのフィールドが違うと考えて 仕方のないことと自分を納得させることもできるが、自分と同じ女性が王に愛され 子まで成していたとなれば、それは王妃の女としての敗北を意味する。しかし、王妃をみじめな敗者にした侍女は既に この世になく、王妃の憎しみは母親そっくりの王女自身に向かうことになってしまったんだ」
「それは気の毒に……。その王女だって、別に自分から望んで庶子になったわけでもないだろうに」
王妃とて、夫以外の男性と浮名を流していた時代があったのである。
有名どころでは、イングランドのバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ。
今現在も、宰相マザランとの仲が取り沙汰されている。

「そう、気の毒な王女様なんだ。王女自身には何の罪もないというのに、幾度か殺されかけたこともある。暴漢に襲われかけたり、お住まいの館に毒蛇が放たれたり、届けられた衣類に毒が仕込まれていたこともあった」
「……」
なにやら物騒な話になってきた。
この叔父の館に盗み聞きを働く者などいるはずもないのに、ヒョウガは我知らず声をひそめることになったのである。
「王妃が?」
「誰とは言わないが、高貴な方の手の者が」
「……」
「庶子とはいえ、間違いなく国王陛下の御子だ。本来なら、しかるべき王家の王子にでも嫁がせて まあ、有効活用したいところなのだが、その高貴なお方が、憎い愛人の娘が どこぞの国の王妃になる可能性のあるようなことは絶対に阻止する構えでいるんだ。高貴なお方は、憎い女の産んだ娘の栄達が我慢できないらしい」
「……」

叔父が、王女の もう一つの有効利用に わざと言及していないことに、ヒョウガは気付いていた。
14世紀のフィリップ5世以来、フランスの王位継承権は男子のみに限られている。
しかし、王女が結婚した夫をフランス王位に就けることは可能なのだ。
その可能性に叔父が言及しないのは、万一 そういう事態が現出した時、王妃が死に物狂いで憎い王女がフランス王妃の地位に就くことを阻止することがわかっているからなのだろう。
最悪の場合、実家のスペイン王家の武力を頼んで。
そうなれば、フランスは戦場になる。
王の血筋を守るためでも、それだけは避けたいというのが、国王 並びにアヴリーヌ伯爵の考えのようだった。

「王妃も気の毒といえば気の毒な お方なのだ。事の発端は、国王陛下が王妃を愛せなかったことにあるのだから。王妃の冷酷な振舞いも、夫に愛されない妻の愛憎半ばした――ある意味では、夫を愛するがゆえのことだ。なにしろ、激情的なスペイン女だからな。陛下としても、スペインとの間に波風を立てるわけにはいかないから、王女暗殺の黒幕を罰することはできない。幸い、今のところ、すべて未遂に終わってるし――」
「王妃も気の毒かもしれないが、だからといって、何の罪もない王女が殺されていいということにはならないだろう。国王の血を引きながら、王女として公に認められず、その上、暗殺? ひどい話だ。王女が哀れすぎる」

「ああ、ひどい話だ」
眉を曇らせて、低く 一人ごちるように そう言ってから、ヒョウガの叔父は、もう一度同じ言葉を繰り返した。
今度は力強く明瞭に、おそらくはヒョウガに聞かせるために、
「実にひどい話だ!」
と。
そして、含み笑いを隠し切れていない目で、彼の館の居候を見詰めてくる。
いよいよ本題かと、ヒョウガは僅かに緊張した。






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