パリからサン・ルーの領地まで、馬車で半日ほど。
狭い馬車の中で二人きり、ヒョウガが不機嫌に何も言わずにいると、王女は萎縮して、それこそ呼吸するのも遠慮しかねない様子だった。
沈黙も気詰まりではあるし、ヒョウガは、王女が――シュンが――これまでどんな暮らしをしていたのかを尋ねてみたのである。
シュンは、王女らしい尊大さの全くない、遠慮がちな口調で彼女の身の上を語ってくれた。

シュンの母親は、プロヴァンスの田舎から宮廷にあがった小貴族の娘だったらしい。
宮廷の作法を学ぶためにパリにやってきて、王妃に侍女として仕えることになり、そこで王に見初められ、子を成した。
王が用意したパリの館でシュンを産んだあと、一時は王妃の許に戻ったが、やがて病を得て宮廷を去ったということだった。
シュンの母親が亡くなったのは、シュンが6歳の時。
母を失ってからは、王女として公に認められることもなく、パリの館でシュンの乳母だった女性や数人の召使いと暮らしていた。
父王とは、もう3年以上会っていないと、シュンは寂しげな様子で言った。

「父がパリの館を訪れるのは無理なことですから――。代わりにアヴリーヌ伯爵が、時々 様子を見に訪ねてきてくれました。伯爵は、父が私をいつも気にかけていてくれると言っていましたけど、多分それは伯爵の優しい嘘で――今回のことを計画したのも、父ではなくアヴリーヌ伯爵だったのだと思います。暗殺未遂の件もあって、宮廷やパリから離れた方が安全だと考えてくださったんでしょう。こうでもしないと、僕は我が身を守るために館の外にも出られず、ずっと部屋の中に閉じこもったままでいなければならない。それは僕の年頃の者には つらいことだろうと――。アヴリーヌ伯爵には本当に感謝しています」
「そうか……」

叔父が、人に言われているほど計算高く冷徹な男でないことは、ヒョウガも知っていた。
でなければ、いくら血のつながった甥でも、いくら初恋の人の忘れ形見でも、一文無しの穀つぶしを引き取り、育て、教育まで与えてくれるはずがない。
王女に対する叔父の親切や情愛も 真実のものであることを、ヒョウガは疑わなかった。
ただ、アヴリーヌ伯爵は頑迷なほどに潔癖で、節を曲げることが嫌いなのだ。
その一徹振りが他者の中に信頼を生み、いつも最終的に成功を収める。
アヴリーヌ伯爵を深く知らない者の目には、それが冷徹な権力志向に映るようだった。
幸い、シュンは、ヒョウガの叔父の優しさに気付き、信じてくれているようだったが。

「バラデュール侯爵にも ご迷惑をおかけして、本当に申し訳なく思っています」
必要以上に、シュンは自身を日陰の身と思っているようだった。
王女の身でありながら 驕ったところが全くなく、むしろ へりくだりが過ぎる。
王女の身分をかさにきて威張り散らされても気分が悪いが、いきすぎた謙譲を示されるのも、居心地の良いものではない。
シュンの謝辞を、ヒョウガは素っ気なく遮った。
「どうせ、俺は引きこもりのぐうたらだ。迷惑などかけられていない。それから、俺を爵位で呼ぶな。名前で呼べ」
「はい。あの、ヒョウガ様は――」
「敬称はいらない。形ばかりとはいえ、俺は君の夫なんだし、本来なら俺は君に近寄ることもできない貧乏貴族の息子だ」
「貧乏貴族だなんて。アヴリーヌ伯爵の甥御さんが、そんな」

ヒョウガの叔父は、彼の甥の境涯をシュンに全く知らせていないようだった。
シュンは、何不自由のない有力貴族の青年が、義侠心から この役目を買って出たのだと思い込み、恐縮している。
そう思われている方が都合がいいことはわかっていたのだが、それは卑怯なことでもある。
ヒョウガは、シュンの認識を正さないわけにはいかなかった。
「叔父から聞いていないのか。俺の父である先代のバラデュール侯爵は、上手くいくはずのない鉱山開発に全財産を投資して、あっというまに侯爵家を没落させた大馬鹿者だ。父の死後、母が公爵家の領地や城館、自分の領地までを売り払って、なんとか借金を返済した。その母が亡くなった時、俺に残されたのはバラデュール侯爵位だけだった。俺たちがこれから行くサン・ルーの領地は、その時に俺の母が処分した母の領地で……俺が今回の話に協力することを決めたのは、母が生まれ育ったところ、母が愛した土地を取り戻してやると言われたからだ。俺は、親切心だけで この役目を引き受けたわけではない。君も、俺に負い目を感じる必要はない」
「お母様の……」

自分がマザコンだということを自分からばらしてどうするのだと、自身の境涯を一気に語り終えてから、ヒョウガは臍を噛んだのである。
シュンは、だが、それを感心できない悪癖とは思わずにいてくれたようだった。
もちろん、それはシュン自身が幼い頃に母を失っていたせいもあったろうが。
「お母様が亡くなられた時は おつらかったでしょう」
自分の つらさを語るように、シュンがヒョウガに尋ねてくる。
今日 初めて知り合ったばかりの相手と傷を舐め合うような真似をするつもりのなかったヒョウガは、素っ気なく、意識して無感動を装い、
「それなりに」
とだけ答えた。
本当は、とても つらかった。
今でもつらい。
彼女は幼い息子を守るために すべてを失ったようなもの。
息子を守って疲れ果て、命を削ったようなもの。
だというのに、幼い自分は、母の本当の愛情を正しく理解することもできず、ただ自分を守ってくれる人を失うのが恐いと、そんな気持ちで母の命が消えていく様を凝視していたのだ――。

無言になったヒョウガを、シュンが無言で見詰めてくる。
やがて、シュンは、囁くように小さな声で切なげに呟いた。
「小さな悲しみは口に出せるが、大きな悲しみは口をつぐむ」
「なに?」
その言葉が真実を突いた言葉だということよりも、そんな言葉が年若い王女の口から自然に出てきたことに、ヒョウガは驚いたのである。
それは、紀元1世紀、ローマのストア派の哲学者が 著作に記した警句だった。

「おまえ、セネカなんか読むのか」
「え? あ、はい。僕、時間だけはいくらでもありましたから」
「……なるほど」
それにしても、それは年若い少女の読むような本ではない。
不幸な王女の無聊を慰めてやれと言われても、では自分は何をすればいいのかと、実はヒョウガは案じていたのである。
そもそも薄幸の王女と自分の間に共通の話題など存在するのだろうかと。
しかし、その心配は無用のものだったらしい。
シュンは十分に夫の話し相手になる妻のようだった。






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