一人の暗殺者を殺しても、王妃は第二の暗殺者を送り込んでくるだけだろう。
シュンが王子でなければ命を奪わなくてもいいと言った王妃の言葉が事実なのであれば、男を王妃の許に生きたまま帰し、シュンが王女だったと報告させる方が利口なやり方ではある。
そうすることで、少くとも王妃が男の報告に安堵し、シュンの抹殺を不要のものと考える可能性が生じるのだ。
シュンの命を狙った曲者など、本当は生かしておきたくはなかったのだが、シュンの身の安全を考えれば、ヒョウガは男を解放するしかなかったのである。

「いいのか? 母君の大切な形見だったんだろう? それらしく見える偽の指輪でも作って渡すこともできたんだぞ」
未だ自分が生きて解放されることを信じ切れていないのか、しきりに背後を気にしながらサン・ルーの城を立ち去る男の後ろ姿を無言で見詰めているシュンに、しばし 逡巡してから、ヒョウガは声をかけた。
シュンが、顔を伏せ、首を横に振る。
「あまり高価な品を渡すと、彼は それを持って逐電し、王妃様の許に戻らないかもしれないから」
「ああ、そういうことか」

自分の命が狙われるという非常事態にあって そんなことにまで考えの及ぶシュンが、もし正妃を母として生まれた男子であったなら、彼はどれほど将来を嘱望される賢明な王子に、そして英邁な国王になっていたことか。
あの王妃は、そんな我が子をどれほど誇りにし、どれほど愛しんだことか。
それを思うと、ヒョウガは、運命の皮肉を感じないわけにはいかなかった。
だが、シュンが王妃の子であったなら、ヒョウガは こうしてシュンと親しく言葉を交わすことも、ましてや夫婦として同じ城に暮らすこともできなかったのである。
シュンにとっては つらく皮肉な運命が、ヒョウガにとっては必ずしも そうではなかった。
そうではないことに、ヒョウガは罪悪感のようなものを覚えたのである。
尋常の事態ではなかったが、ヒョウガは自分が今こうしてシュンと共にいられることを、天に与えられた幸運幸福と思っていた。

「僕は……」
「ん?」
「僕はなぜ憎まれるの。僕の母は、そんなにひどいことをしたの。母に逆らうことなどできるわけがない。相手は国王陛下で、この国でいちばん偉い人だったんだよ。母は何も知らない、田舎から出てきたばかりの世間知らずの少女だったのに……!」
「シュン……」
自分の幸運を喜んでいる場合ではない。
命を狙われるほど人に憎まれて、シュンは傷付いている。
ヒョウガは、自分の緩んだ心に活を入れた。
シュンの瞳は涙で潤んでいる。
今は、そんな時ではないのだ。

「僕は死んでしまった方がいいのかもしれない。僕は王妃様に憎まれ、お父様にはお荷物で、ヒョウガにも迷惑をかけて――」
「そんなことはない。おまえが死んだら、俺は悲しむ。俺は、おまえに会えてよかったと思っているぞ」
そんな言葉だけで、シュンの瞳から涙が一粒 零れ落ちる。
ヒョウガは、シュンを思い切り抱きしめてやりたい衝動にかられた。

「そんなこと言ってくれるのはヒョウガだけです。ごめんなさい。ヒョウガだって、僕なんかを押しつけられなかったら、好きな人と結婚できたのに」
「俺は独身主義者だ。女性はマーマだけでいい」
「え?」
「いや、おまえはどんな女より綺麗だし、剣の相手もしてくれるし、遠乗りにも付き合ってくれる。気持ちも優しいし、知性も教養も備えていて、会話も楽しい。普通の貴族の女は、セネカを読む時間があったら、新しいドレスの色だの、その日の髪型だののことばかり考えるものだろう。そんな奴らに付き合っていられるか。おまえに比べたら、他の女なんてカボチャだ、カボチャ」
ヒョウガは完全に本気で、本心からそう言ったのだが、シュンは それを、妻としての役目を果たせない妻を押しつけられた不運な男が、不幸な王子のために作った慰めの言葉だと思ったらしい。
「ヒョウガは……とても優しい……」
シュンが、溜め息のように小さな声で、ヒョウガにそう言ってくる。
シュンの不幸な運命を憎んでばかりもいなかったヒョウガは、好意的にすぎるシュンの誤解を解かなければならなくなった。

「俺は特段 優しい男なわけじゃない。おまえのように、美しく優しく聡明な人間が こんな不遇の中にいたら、誰だって優しく悲しい気持ちになる」
「でも、王妃様も父上も……」
誰からも愛され優しくされて当然のものを身に備えているシュンが――愛され優しくされるような資質しか身に備えていないシュンが――実父とは会うこともままならず、義理の母とも言える女性には命を狙われる。
シュンは優しくされたいと願った人から、優しくされた経験がないのだ。
その事実があまりに悲しく、途方に暮れた迷子のように頼りない瞳に涙を浮かべているシュンの様子があまりに切なくて――見詰めているのが苦しいほど切なくて――ヒョウガは、シュンの身体を強く抱きしめた――シュンを抱きしめずにいることに、ヒョウガはそれ以上耐えられなかったのだ。

「俺が守ってやる。大丈夫だ。たとえ 国中のすべての人間を敵にまわしても、俺がおまえを守ってやる。おまえが男だろうと女だろうと、たとえ国中のすべての人間が おまえを見捨て おまえを顧みなくても、俺がおまえを愛してやるから」
「ヒョウガ……」
おそらくシュンは、ヒョウガが抱きしめていいような相手ではない。
仮にも一国の王子、シュンは 本来ならヒョウガには触れることも許されない相手だった。
しかし、シュンは、ヒョウガの振舞いを咎めもせず、逃げもせず、それどころか、逆に自分の方からヒョウガの胸に頬をすり寄せてきた。

実母を失ってから、シュンは誰かに抱きしめてもらったことがなかったのだろう。
実父には そもそも会うことが叶わず、まさか あの厳格な叔父が そんな不敬を働くはずもない。
心優しく かわいそうな王子は、人の体温に飢えていたのかもしれなかった。
でなければ、仮にも このフランスの王子が、懐かしい母に再会できた幼な子のように、ヒョウガの背に腕をまわし しがみついてきたりするはずがない。
実際、シュンは、頼りない子供のように小さく華奢だった。
やわらかい髪、細い肩。
必死にヒョウガに しがみついてくる腕にだけ、加減を知らない子供のように強い力がこもっている。
ヒョウガ自身、シュンを小さな子供のように感じていたのだ。
唇を押し当てたシュンの髪に、暖かい陽光と 甘い花の香りを感じるまで。
だが。

(なにっ !? )
かわいそうな小さな その子供に、ヒョウガの身体が反応する。
それは、ヒョウガには思いがけない事態だった。
そんなことがあるはずがない、そんなことはあってはならないと思う。
だが、現に その変化は起こっており、そして、その瞬間に ヒョウガが咄嗟に考えたことは、シュンにこのことを知られてはならないということだった。
偽りの夫に しがみついているシュンの身体を、ヒョウガは力を込めて自分から引き離した。
ヒョウガに ほとんど体重を預けていたシュンの身体が、突き飛ばされるようにヒョウガから引き離されたせいで重心を見失い、ぐらりと揺れる。
倒れそうになったシュンの腕を慌てて掴み、間一髪でヒョウガは、自分のせいでシュンの身体を転倒させる事態だけは回避することができたのだった。

自分が誰からも愛されていないことに傷付いていたシュン。
初めて自分を抱きしめてくれる人に出会い、離れるものかと言わんばかりに強く その人にしがみついていたシュン。
その人に、突然 乱暴に身体を突き離されてしまったのである。
シュンは、自分の身に何が起こったのかが理解できていないような目で、ヒョウガを見詰めてきた。
やがて その瞳が、傷付き涙する小動物のそれになる。

「ご……ごめんなさい。僕、図々しく……」
悲しそうなシュンの瞳。
ヒョウガがそれを“ありえないこと”と思ったのは、シュンが傷付き悲しんでいる時に、それはあってはならないことだと思っただけで、実はそれは大いにありえることだったのだと、ヒョウガは シュンのその瞳に出会って思ったのである。
これが初めてではなかったような気もする。
シュンはいつも健気で可愛らしかった。

「違う……違うんだ」
自分を抱きしめてくれる人に出会い、その人に拒絶されて、シュンは傷付いている。
王妃が自分の死を願っていることを知らされた時よりも傷付いている。
だが、ヒョウガは、彼がシュンを突き放すことになった理由をシュンに告げることはできなかった。
できるはずがないではないか。
フランス王国の王子が涙ぐんでいる様に 自分は浅ましく欲情したのだなどと、そんなことを正直にシュンに打ち明けることができるはずがない。

「ごめんなさい……。僕はヒョウガに迷惑をかけるつもりはないの。ごめんなさい……僕、生まれてこなければよかったの……」
シュンは、自分が悪いのだと思っている。
自分の存在がヒョウガに迷惑をかけているのだと、自分が生きて存在することが罪なのだと思っている。
必死にこらえている涙が、努力の甲斐なく 幾粒もシュンの頬に零れ、涙を隠し切れないと悟ったらしいシュンは、ヒョウガの視界からその宝石を隠すために、ヒョウガに背を向け その場から逃げ出そうとした。

「待て、シュン、違うんだ!」
本当は――その手を掴むべきではなかったのだろう。
それはわかっていたのだが、ヒョウガはこのまま――シュンに誤解され シュンを傷付けたまま、シュンとの間に距離を置くわけにはいかなかった。
「違うんだ……! 俺はおまえを迷惑だと思ったことなどない。むしろ好きだ。好きすぎて困っているんだ」
「す……好きすぎて?」
シュンは、ヒョウガの言葉の意味がわからなかったらしい。
わかるはずがない。
わかってもらえないことに、ヒョウガは微かな苛立ちを覚えた。
だが、そんな苛立ちより はるかに強く、シュンをこれ以上傷付け悲しませるくらいなら、シュンに憎まれ軽蔑された方がましだという思いが、今のヒョウガの心と身体を支配していた。

シュンの腕を捕らえ、その身体を引き寄せ、うなじを右手で掴みあげるようにしてシュンの顔を上向かせ、その唇を奪う。
「ん……っ」
せめてもっと優しくと思いはしたのだが、シュンの唇のやわらかさと甘さが、ヒョウガに それを許してくれない。
手応えのなさが もどかしく、ヒョウガのキスは力のこもったものになっていった。
舌を差し入れ、シュンの口中をまさぐり、舐め、あげく強く吸い上げる。
それが肉親の情愛や友情を示すためのキスでないことをヒョウガはシュンに知らせなければならなかった――知ってもらわなければならなかったのだ。
シュンは嫌でも気付いただろう。
ほとんどシュンの唇を食い尽くす勢いで その唾液の味まで覚えてから、ヒョウガはやっとシュンの唇を解放した。

「だから、こういうことだ」
「あ……」
誤解は解けただろうが、やはりシュンは彼の夫の前から逃げ出すだろう。
ヒョウガは そうなることを覚悟していたのに、シュンは ヒョウガの前で恥ずかしそうに瞼を伏せただけだった。
そして、小さな声で、
「僕、ヒョウガに嫌われてないの……?」
と尋ねてくる。
馬鹿なことを訊いてくるシュンを、ヒョウガは もう一度 強く抱きしめた。

「おまえの望みは何だ。男として生きることか。王子として公に認められることか。そして、この国の王になることか」
それがシュンの望みなら、命をかけても叶える。
ヒョウガはそう決意していた。
シュンが望むことは、すべて必ず どんな手を使っても叶えてやるのだと。
シュンの望みは、だが、ヒョウガが思っていた通り、そんな世俗的で野心的なものではなかった。

「僕は、誰も傷付けず、誰からも憎まれず、そして誰も憎まずに生きていたいの。それだけなの」
ささやかで慎ましいシュンの望み。
難しい望みではあるが、誰にでも――王の血など引かない平凡な農民の子でも叶えようと思えば叶えられる小さな望み。
それがフランス王国の ただ一人の王子の望みなのである。
シュンの望みが あまりにささやかで、そんな ささやかな望みを一心に願うシュンの心があまりに哀れで、そして、そんな望みを望むシュンが あまりに可愛らしくて、美しくて、ヒョウガは抑えがきかなくなった。

身分の違いも、立場の難しさも、厳格な叔父も、フランスの未来も、神の教えすら、ヒョウガの心を押しとどめることはできなかった。
小さな可愛い小姓にしか見えないシュンの身体を抱き上げて、ヒョウガが ためらいのない足取りで城の中に向かう。
「ヒョウガ……?」
シュンは、ヒョウガの腕の中で 困惑したように 一度だけ彼の名を口にしたが、ヒョウガが無言を通していると、それきり静かになってしまった。

静かでいられなかったのは、むしろ、険しい顔をした ご領主様が奥方様を抱いて城中に入ってきたことに驚き集まってきた家令や小間使いたちだった。
だが、彼等は、いったい何があったのかとヒョウガに尋ねることはできなかったのである。
へたなことを訊いて、奥方様の中に余計な考えを生じさせ、そのせいでご領主様の幸福を邪魔することになったら、ご領主様にどれほど恨まれることになるか わかったものではない。
彼は新妻を抱きかかえた夫が夫婦の寝室に入っていくのを、固唾を呑んで見守っていた。

寝台に身体を横たえられても、シュンは何も言わなかった。
ヒョウガが身に着けていた上着を脱ぎ捨てるのを見ても、少し 肩を震わせただけだった。
「シュン、俺が嫌いなら、俺を突き飛ばしていいんだ」
言葉を忘れているようなシュンの肩の横に手をついて、シュンの視線を正面から受け止めたまま、ヒョウガはシュンに告げた――忠告した。
「僕、ヒョウガが大好き」
ヒョウガの重みから逃げようともせず、シュンが答えてくる。
「恐かったら、逃げてもいいんだぞ」
「ヒョウガのすることが恐いなんて、そんなことあるはずない」
「できる限り、優しくする」

空約束になることは わかっていたのだが、言わずにいることもならず、ヒョウガは嘘になるとわかっている嘘をシュンに告げた。
白い胸を外気にさらされて、シュンの心臓が大きく波打ち始める。
唇に重ねた唇を喉に移動させると、それだけで 心臓を掴みあげられでもしたかのように、シュンは びくりと大きく身体を震わせた。
シュンは恐がっていないわけではない。
本当に恐くないはずがない。
だが、シュンのその怯えた様子が かえってヒョウガの身体に火をつけることになってしまったのである。
シュンを自分のものにしたいと願う心と身体を、ヒョウガ自身は もはや止めることができなかった。






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