今も瞬が好きだと言いながら、再び出会えるかどうかわからない幻の恋人に執着する氷河が、星矢は大いに気に入らなかった。
その時の記憶を失ってしまったからといって、言い交わした(?)相手を自分には関わりのない人にしてしまう行為は、確かに無情で誠意のない対応だろう。
だが、憶えていない“大切な人”を探し出して、氷河はいったいどうするつもりなのか。
情を交わした責任をとって、彼女との生活を始め、瞬を忘れるつもりでいるのか。
そんなことが可能なのか。
ドルバルに洗脳される以前の氷河――本来の氷河は、瞬を好きでいたのだ。
星矢が知る限り、氷河は その思いを瞬に告げたことはなかったが、本来の氷河は確かに瞬を好きだった。
その思いは、責任感で殺せるようなものなのか。
もし、氷河が そうすることが可能と考えているのなら、それは、本来の氷河が瞬に対して抱いていた好意より、他人に操られていた氷河が“彼女”に対して抱いた気持ちの方が強いものだったということになる。
そう、氷河が考えているということになる。

星矢は、それが全く気に入らなかったのである。
たとえ誠意に欠ける振舞いと言われようと、責任を放棄する卑劣な振舞いと なじられようと、忘れたものは忘れたものとして、忘れたことは忘れたこととして元の氷河に戻る以外、氷河が自分に対して正直に偽りなく生きる術はない。
それが、星矢の考えだった。

「だって、忘れちまったもんは仕方ないだろーよ!」
うんともすんとも言わなくなった氷河を残してラウンジを出た星矢が、自分が閉じたドアに向かって大きな声で毒づく。
「星矢!」
紫龍に低く鋭い声で名を呼ばれて初めて、星矢は気付くことになったのである。
つまり、本来の氷河が、アテナの聖闘士という立場も 道徳的宗教的タブーも無視して 恋焦がれていた相手が、その場にいることに。

瞬の頬は僅かに青ざめていた。
どう考えても瞬は、たった今の仲間たちのやりとりの内容を聞いていた。
ドルバルに洗脳されていた氷河に“大切な人”がいたこと、氷河がその人と“寝た”かもしれないということ。
瞬が同席していないことに油断して、声もひそめずに氷河を問い詰めていた自分を、星矢は問答無用で殴り倒してやりたくなったのである。

「あー……」
氷河を責める言葉は 立て板に水を流すように あふれ出てくるのに、瞬に言うべき言葉が思いつかない。
本来の氷河は確かに瞬に好意を抱いていたが、氷河はその好意を瞬に知らせてはいなかったのだ。
公的には(?)二人の関係は 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間同士ということになっていて、それ以上でもそれ以下でもない。
そんな瞬に向かって『気を落とすな』と慰めの言葉をかけるのも おかしな話だし、『あんな阿呆とは さっさと別れろ』と助言するのは 更におかしい。
二人は別れる以前に、そもそも くっついていなかったのだ。
こういう場合、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間は、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間のことについて、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に何を言うべきなのか。
それは、星矢には あまりに難しい、まさに難問だった。

「単刀直入に訊くが、おまえ、氷河が好きか? そういう意味で」
言葉に詰まった星矢の隣りから、ふいに紫龍が、星矢とは対照的に落ち着き払った様子で、言葉通り単刀直入に 瞬に尋ねてくる。
こういう場合は、直感ではなく理屈を 自らの行動指針に採用している人間の方が、問題解決能力を発揮しやすいのかもしれない。
彼は、事態を打開するために、まず状況確認に取りかかった。

紫龍に問われたことに、瞬は答えなかった。
同性を『好きか』と問われて否定しないということは、それが瞬の答えということになるだろう。
だとすれば、具体的に約束を交わしたことはなかったにしても、以前は瞬ばかり見ていた氷河が、最近は全く瞬を視界に映そうとしなくなったことは、瞬にとっても愉快なことであるはずがない。
実際、瞬の瞳は笑っていなかった。
星矢と違って、そのことに腹を立てているようでもなかったが。

「ならば、無理にでも氷河を引きとめて、金輪際 ワルハラには行くなと奴に言ってやれ。おまえにそう言われれば、氷河も考えを変えるかもしれん。あの異様な執着も消えるかもしれん。今の氷河は……何というか、よろしくない」
「でもね、紫龍……」
「そして、覚悟を決めて、氷河の前で脚を開いてやれ。それで氷河は また おまえしか見なくなるだろう」
「……」
紫龍らしくない露骨な物言いに、瞬が僅かに瞳を見開く。
この 愉快でない事態を愉快な事態に修正・・したいのなら、それが最も手っ取り早い方法だと、紫龍は瞬のために あえて言葉を飾らずに直截的に忠告していた。
それが わからなかったわけではないだろうが、しかし、瞬は 紫龍の忠告に首を横に振った。

「それはどうか……。僕だって、氷河がワルハラに行くのは、氷河にとっていいことじゃないと思ってるよ。氷河は、氷河がミッドガルドでいた時のことは忘れるべきだって。でも、氷河は―― 一度 やると決めたことは、何があったって、人に何と言われようと やり遂げようとするから――止めても無駄でしょう……」
「氷河がやり遂げようとしていることが間違ったことだったとしても?」
「氷河がそうしたいと言ってるんだ。止める権利は僕にはない」
「止める権利なんか、腐るほどあるだろ! 俺たちは氷河の仲間なんだ。仲間が間違った道に進もうとしてたら、それを止めてやるのは、俺たちの権利どころか義務だぜ!」

いつも通りといえば いつも通りなのだが、こんな時にまで いつも通りに でしゃばろうとしない瞬に、星矢はもどかしさを感じていた。
氷河を止める権利は、氷河の仲間になら誰にでもある。
だが、実際に氷河を止める力を持っているのは瞬だけなのだ。
氷河の前で脚を開くことまではしなくても、瞬に『僕のために やめて』と言われれば、氷河は自身の言動を改めるはずだった。
紫龍同様 星矢も、今の氷河は実に“よろしくない”と思っていたのである。

探せるところはすべて探したと、氷河は言っていた。
つまり、今の氷河は、既に探す当てもなく、ワルハラ城があった周辺を ただ ふらふらしてるだけなのだ。
星矢が嫌なのは、氷河の心の中に、そうまでしても思い切れない相手が住みついているということだった。
氷河は本当に本気で、瞬に対する以上に、その“女の子”を好きになったのではないかと疑わなければならないことだった。
星矢にとって、瞬は身内であり、正体不明の女の子は見知らぬ他人である。
身内より見知らぬ他人の方がいいと言っているような今の氷河の振舞いは、星矢には 楽しいものではなかったし、氷河のその振舞いは また、“一度 やると決めたことは、何があっても やり遂げようとする”氷河が、瞬との恋の成就を諦め、瞬から目を逸らしているようなもので、実に全く氷河らしくない。
星矢を苛立たせている最大の理由は、もしかしたら、氷河が氷河らしくないことだったのかもしれなかった。






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