エントランスホールには 既に瞬が下りてきていた。
城戸邸の庭に威勢のいい声を響かせた客人は アポイントメントをとっていない訪問者だったらしい。
瞬は、玄関先で あたふたと取り乱しているメイドを落ち着かせようとしていた。
「アポのない人が この時刻に この家を訪ねてくるなんて、何か連絡ミスでもあったんでしょう。客間にお通しして。僕が事情を伺うから」
「はい。ですが、お嬢様が承知されているのかどうか わからない方を邸内に入れたりしたら、お嬢様から お叱りを受けることにはなりませんでしょうか」
「でも、沙織さんが帰るまで、庭先で待ってもらうわけにもいかないし――。大丈夫、僕が責任を持つよ。若い女性のようだし、まさか邸内に入った途端 強盗やテロリストに豹変することもないでしょうから」

一見したところでは 大人しそうな女の子としか言いようのない風情をした瞬が、その姿からは想像もできない力の持ち主だということを承知しているメイドは、瞬にそう言われて意を決したらしい。
彼女は、玄関のドアを開け、客人をエントランスホールに招き入れた。
「いらっしゃいませ。当家の主は まだ帰宅しておりませんので、大変 申し訳ありませんが、しばらく客間の方で お待ちいただけますでしょうか」
「すみません。何か手違いがあったようで……。客間へは僕が ご案内いたしま――」

エントランスホールに入ってきた女性に向けられた瞬の声が途中で途切れたのは、瞬がその女性の姿に驚いたから――のようだった。
鮮やかな緋色のマニッシュなスーツに金色の長い髪。
おそらく瞳は、晴れ渡った青空の色だろう。
星矢は、2階からエントランスホールに続く階段の下り口にいて、瞬のように間近で彼女の顔を見たわけではなかったのだが、瞬の当惑の理由は わざわざ客人の側までいかなくても すぐにわかった。
その客人の顔を見るなり、瞬は、かすれた声で、
「マーマ……」
と呟いたのだ。

「え? 私、あなたのお母様に似ているのかしら? だとしたら、とても光栄だわ。あなたのお母様なら、さぞかし美しい人でしょう」
客人は気後れとか遠慮といった 奥ゆかしい性質を持ち合わせている人間ではないようだった。
物怖じの全くない軽快な口調で そう言い、彼女は明るい笑顔を見せた。
「あ、いえ、僕の母ではなく、友人の――」
彼女が氷河の母であるはずはなかった。
氷河の母が亡くなってから、既に10年近い年月が経っている。
彼女がその時20代半ばだったとして、生きていたら今は30代半ば
しかし、今 城戸邸にやってきた客人の女性は、まさに氷河の母が亡くなった時の年齢の女性だった。

星矢も、あとからやってきた紫龍も、その客人に近付くほどに、彼女が氷河の母親に似てくることに驚き、息を呑むことになったのである。
「瞬、誰だよ、これ」
「星矢……紫龍……こちらの方、もしかして、氷河の親類の方か何かかな」
「氷河の親類? それにしちゃ、似すぎだろ。幽霊としか思えないぞ」
「何といっても、俺たちは写真でしか氷河の母親を知らない。氷河が来ればわかるのではないか」
「あ……うん……。いえ、とにかく客間の方へ……こちらへどうぞ」
そう言って、瞬が客間に向かう方向を手で示した時、ホールに続く階段の上に、やっと氷河が姿を現わす。
これで謎は解けるだろうと、瞬が安堵の息を洩らした ちょうどその時、この家の主が、威勢のいい金髪の客人の5倍の勢いとスピードで彼女の家のエントランスホールに飛び込んできた。

「表の金のマセラティの持ち主はどこ !? 」
沙織の声がラウンジに木霊を作る前に、沙織の捜し人が軽く右手を挙げて、その所在を示す。
沙織は少々長い吐息を洩らしてから、客人の前に急ぎ足で歩み寄ってきた。
「ごめんなさい、マイヤ。19時と9時を間違えて連絡してしまったような気がすると、秘書室の女の子から ついさっき電話が来て――私の方が先に帰ってきているはずだったから、私、家の者に連絡を入れていなかったの。家の者が何か失礼なことをしなかったかしら」
「心配ご無用。到着するなり素敵なものを見せてもらえて、私の機嫌はすこぶる いいわ。こちらは沙織のご家族? とても綺麗な子ね」
晴れやかな声でそう言ってから、彼女は ふいに その声をひそめた。
沙織の耳許に、小さな声で、
「男の子? 女の子?」
と囁いた彼女の声が、聖闘士である瞬に聞き取れないわけがない。
それがわかっている沙織が、ごく普通の音量で、
「オトコノコ」
と答える。
沙織の返事を聞き、その顔に満面の笑みを浮かべた金髪の客人は、もはや声の音量を落とすこともしなかった。
「すごいわね! ロシアにも綺麗な男の子はいるけど、ここまで性別不肖な子は滅多にいないわよ!」
「……」

そんなことで“すこぶる機嫌よく”なられても、今ひとつ素直に喜ぶことができない。
だが、そういった誤認や、賞賛とも思えない賞賛に慣れてしまっていた瞬は、あえて その空しさを言葉にすることはしなかった。
代わりに、客人の正体を沙織に尋ねる。
「沙織さん、こちらは」
「あ、彼女はマイヤ・グリンベルクさん。ロシアの方よ。ロシアのガスエネルギー供給契約のコンサルタントとして知り合ったのだけど、ちょっと気が合って友人になったの。ホテルを引き払わせて、しばらく我が家に滞在してもらうことにしたから、瞬、お世話をしてあげて。契約は滞りなく締結されたし、彼女はこれまでに何度も来日していて、今更日本観光でもないのだけど、来週 明治神宮で催される薪能を見てからロシアに帰国したいそうなの」
「あ、はい、それはもちろん。ですが、あの……」
「彼女、ちょっと素敵なお顔でしょ。私もびっくりしたのだけど、氷河とはどんな血縁もないようなのよ」
「そう……なんですか」
いつのまにか自分の横に来ていた氷河に、瞬はさりげなく視線を投げた。
対照的に、沙織は、見るからに興味津々といったていで、白鳥座の聖闘士の顔を真正面から見据えてのける。

二人の視線を受けて、氷河は――氷河は無反応だった。
彼の母親に生き写しの面差しをした女性――つまり、彼の理想の人――が目の前にいるというのに。
沙織は氷河に派手なリアクションを期待していたらしい。
氷河の無反応に、沙織は大いに不満そうだった。
女神アテナの“すこぶる ご機嫌斜め”な様子を見て、瞬が困ったように幾度か瞬きを繰り返す。
「氷河が大仰に驚くことを 沙織さんが期待していることがわかっているから、氷河は わざと動じていない振りをしているんだと思いますよ。氷河が冷静でいられるわけがないでしょう。こんなに――マーマそっくりの人を見て」
「無反応が反応というわけね。それはそうだわ。マイヤを見て氷河が無反応なんて、不自然極まりないことだもの。マイヤ。このオトコノコは瞬というの。隣りにいるのが氷河。その後ろにいるのが星矢と紫龍。私の家族のようなものよ。氷河は日露のハーフで、8歳まではロシアにいたの。その後、しばらく日本で過ごして、また6年ほどロシアに戻っているわ。もっとも、氷河がいたのは東シベリアの僻地だけど」

「まあ、私の同胞なの。よろしく、マイヤ・グリンベルクよ。ウラル出身で、現在はペスルスブルク在住。昨今のロシアの地下資源開発は西シベリアから東シベリアに移りつつあるわ。ロシアは今、東シベリアと太平洋岸を結ぶ大規模石油パイプラインを建設中で、そのうち東シベリアは僻地どころか、ロシア経済の中心地の一つになるわよ」
おそらく彼女は氷河へのサービス精神を発揮して、あえてロシア語で そう告げた。
「そうか」
そんな彼女に、氷河が ぶっきらぼうな日本語で短い返事を返す。
全く愛想のない同胞に、マイヤは瞳を見開き、そして大袈裟な身振りで肩をすくめたのだった。






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