ヒュペルボレイオスの王子夫妻の寝室が連夜稼働し始め、二つの国の和平はともかく、ヒュペルボレイオスの王子の幸福は揺るぎないものと、城の者たちが確信するようになった頃。
ヒョウガがエティオピアに秘密裏に派遣していた密偵が、彼の雇い主の許に、実に微妙な――良い知らせなのか悪い知らせなのかの判断が難しい調査報告を届けてきた。
その微妙な報告を受けたヒョウガは、微妙な調査報告にふさわしい微妙な表情を その顔に浮かべることになったのである。

『経過報告はいらない。結果だけを知らせろ』と命じてエティオピアに送り込んだ捜索の者が帰ってきたというのだから、その報告は 当然、兄が見付かったというもの以外ではあり得ない。
そう考えて、期待に胸を膨らませていたシュンは、ヒョウガの その微妙な表情に不安を覚えることになったのである。
「ヒョウガ……兄さんの身に何か――」
「まず、あまり楽しくない知らせを先に済ませる」
おそらくはシュンの不安を和らげるために 短い笑みを作って、ヒョウガがシュンの言葉を遮ってくる。
それで、その調査結果が最悪のものではないこと――ヒョウガが笑みを浮かべて語ることができる程度のものであること――を察し、シュンは小さく安堵の息を洩らした。

「楽しくない知らせ?」
「そうだ。エティオピアの王は、おまえの兄を捜し出し、その罪をなかったことにすると、おまえに約束していたにもかかわらず、その約束を果たしていなかった」
「え……? でも、王様は確かに――」
確かに そう約束してくれたのだ。
都から追放になった兄を捜して、許してやると。
のみならず、シュンが首尾よく 与えられた務めを果たし終えた暁には、兄は英雄として都に迎え入れられることになるだろうとまで、彼は言った。

「それどころではなかったんだろう。別の人間を捜すのに手一杯で」
「別の人間……って」
訳がわからず ヒョウガの次の言葉を待つシュンの前で、ヒョウガが大仰に肩をすくめる。
それから彼は、呆れたような嘆息を洩らした。
「そもそも、アンドロメダ姫が病気というのが嘘だったんだ。姫は見知らぬ男と結婚するのが嫌で、好いた男と駆け落ちしたんだ。その駆け落ち相手というのが、なんと おまえの兄」
「に……兄さんと?」

寝耳に水とは このことである。
いったい何がどうなって そんなことになったのか、シュンには皆目見当がつかなかった。
瞳を見開いたシュンに、ヒョウガがゆっくりと頷いてくる。
「アンドロメダ姫の駆け落ち相手が おまえの兄だということを、エティオピア国王は知らなかったようだがな」
エティオピア王家の深窓の姫君と 貧しい漁師たちの頭目だった兄が、いつ どうやって知り合うことができたのか。
シュンには それは想像もできないことだった。
もっとも、それをいうなら、大国ヒュペルボレイオスの王子と エティオピアのしがない真珠採りだった自分が出会い、恋に落ちたことも、余人には想像を絶する珍妙な出来事であるに違いないとも、シュンは思ったのだが。

「それで、兄さんとアンドロメダ姫は――」
「ああ。二人はエティオピアの都の下町でひっそりと隠れて暮らしていた。頃合を見て、国外に脱出するつもりだったらしい」
「そんな……都に戻ってきていたのなら、なぜ 兄さんは僕に何も――」
「おまえに迷惑がかかることを避けたかったんだろう。エティオピア国王に見付かってしまった時、おまえまでが連累者として罰せられることがないように用心したんだろうな」
「あ……」
兄ならそう考えるだろう。
そして、兄なら、万一 二人がエティオピア国王に見付かってしまった時にも、アンドロメダ姫のために、これは駆け落ちではなく誘拐だったと言い張るに違いなかった。
「うん……兄さんなら、きっとそうする……」


シュンが小さく頷くのを見て、ヒョウガは ほっと安堵の胸を撫でおろした。
ヒョウガは、為政者として不誠実極まりないエティオピア国王の嘘がシュンの心を傷付けるのではないかと、それを案じていたのである。
シュンがエティオピア国王の不誠実に傷付きさえしないのであれば、密偵がもたらした調査報告は 微妙なものでも何でもなく――むしろヒョウガにとっては 諸手を挙げて歓迎したい知らせだった。
「俺は、おまえの兄とアンドロメダ姫――いや、エスメラルダ夫人を、この国に迎えようと思う。エティオピアにはエスメラルダ夫人の叔父やら従兄弟やらが幾人もいるそうだから、王位継承者に困ることはないだろう」
「あ……」

王位継承者――。
シュンを傷付けたのは、エティオピア国王の約束不履行ではなく、ヒョウガが口にした その言葉の方だった。
エティオピアは王位継承者に困ることはないかもしれないが、ヒュペルボレイオスは そうはいかない。
ヒュペルボレイオス王家の血を受け継ぐ者は、現時点では現国王とヒョウガの二人のみ。
ヒョウガが彼の恋人だけを愛している限り、ヒュペルボレイオスは次代の王を得ることはないのだ。
不安で眉を曇らせたシュンに、ヒョウガがふいに、
「エティオピアとヒュペルボレイオスが戦争を始めた訳を知っているか」
と尋ねてくる。
シュンが首を横に振ると、ヒョウガは、
「あれは、まるでトロイ戦争をなぞったような馬鹿げた戦だったんだぞ」
と前置きをして、エティオピアとヒュペルボレイオスの長い戦争の原因をシュンに語り始めた。

「今から4代前のエティオピアの王が、ヒュペルボレイオスの王妃に恋をして、略奪したんだ。もともと王女の夫として王位に就いていた当時のヒュペルボレイオス王は、自分の妻であり、自分の息子の母親でもある王妃を取り戻そうとして、エティオピアに戦を仕掛けた。結局、ヒュペルボレイオス王の目的は達せられなかったんだがな。略奪された王妃は どう思っていたのか――彼女が、ヒュペルボレイオスに残してきた夫と、自分を略奪し妻にした男のどちらを愛していたのかは知らないが、ともかく彼女は当時のエティオピア王との間にも世継ぎの王子を成し、やがてエティオピアで没した。つまり、エスメラルダ夫人にはヒュペルボレイオス王家の血が流れているんだ」

「それは……ヒュペルボレイオス王家の一人の女性の子孫が長い争いを続けていたということ?」
「ああ。なんて馬鹿げた戦なんだと、俺はずっと思っていたんだが、おまえの兄とエスメラルダ夫人の駆け落ちの事実を知って、俺にはやっとあの戦の意味と意義がわかった。あの馬鹿げた戦は、俺とおまえのための戦だったんだ。俺とおまえが出会うため、俺とおまえを幸せにするための戦――。俺は、おまえの兄に頑張ってもらって、エスメラルダ夫人との間にできた子供を一人もらうつもりだ。それで、ヒュペルボレイオス王家は安泰――ということになる」
「ヒョウガ……」

戦が 誰かを幸せにするために起こるはずがない。
そんなことは わかっているはずなのに、ヒョウガは、無理なこじつけを考えてまで、役立たずの恋人の心を慰めようとしてくれている。
自分が幸せなのか不幸なのかがわからなくて、シュンは泣きたくなってしまった。
「ヒョウガ……ごめんなさい」
「何を謝る。これで大団円――」
「ごめんなさい。僕のために……。でも、僕、もうヒョウガから離れられない……!」
「ああ。おどかすな。やはり俺とは暮らせないと言い出すのかと思った」
「そんなこと、僕が言うはずが――」
言うはずがないと知っていることを わざと口にしてヒョウガが苦笑してみせるのも、彼の役立たずの恋人のため。
それがわかるから、シュンは幸せで、そして不幸でもあった。

「ああ、もちろん、おまえは そんなことは言わない。なにしろ、俺とおまえは 身体の相性が抜群にいいからな。俺も、死ぬまで おまえから離れられそうにない」
「ぼ……僕はそういう意味で言ったんじゃないの!」
「なんだ、違うのか」
シュンの力強い否定の言葉に、ヒョウガが がっかりしたように両の肩を落とす。
もちろん、それも役立たずの恋人のための冗談。
――のはずなのだが、本気で落胆しているようなヒョウガの様子を見ていると、シュンは、『これは役立たずの恋人のために、ヒョウガがあえて口にした馬鹿げた冗談なのだ』と確信してしまうことができなかった。
案外ヒョウガは本当に本気なのかもしれないから、シュンは不幸で、そして幸福だった。

自分が幸せなのか不幸なのか わからない。
幸せと不幸の区別がつかない――。
幸せな人間というものは、案外、誰も そういうものなのかもしれなかった。






Fin.






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