自分がお膳立てしたパーティが 結局どんな成果もあげられなかったことに、財界の元大物が機嫌を損ねてしまったのではないかと、パーティ会場を辞してからずっと 瞬は案じていたのだが、それは杞憂だったらしい。 財界の元大物は、翌日には、グラード財団総帥の夫にふさわしくない小粒な豆を彼女の前に並べたことを、沙織に詫びてきたのだそうだった。 「あなたの撃退方法が気に入ったらしくて、ご老公は楽しそうだったわ。気が向いたら、また訪ねてほしいとも言っていたわね。ご老公は、あなたの目が気に入ったのですって」 「それはとても光栄ですけど、僕はもう――」 「でしょうね。まあ、あなたや私に太刀打ちできるほどの大粒のダイヤを、ご老公が揃えることができる時は、少なくとも これから10年くらいはこないでしょうから、心配することはないわ」 沙織に笑って そう言われ、瞬は安堵の胸を撫でおろしたのである。 そして、瞬は、そのパーティで味わった屈辱を忘れることにした。 実際 瞬はすっかり忘れることができていたのである。 悪夢の婚活パーティから数日が経った ある日、星矢にとんでもない頼み事をされるまでは。 「瞬、頼むよー。瞬なら 絶対ばれないって」 「ばれるとか ばれないとか、そういうことを言ってるんじゃないの。僕は、僕が男だっていう事実を言ってるの」 両手を合わせて拝まれても、瞬は星矢の頼み事をきいてやるわけにはいかなかったのである。 星矢の頼み事は、道義的にも公共的にも許されることではなく、瞬の感情的にも受け入れ難いものだったから。 「朝っぱらから、星矢は何を騒いでいるんだ」 いつも通り最後に氷河がラウンジにやってきた氷河が、朝から 城戸邸の防音設備に挑戦するような大声を響かせている星矢に、渋面を向ける。 氷河の渋面に星矢もまた渋面で答えたのは、事情を話す前から 氷河が自分の味方にはならないことが 星矢には わかっていたから――氷河の登場によって、自分ではなく瞬の味方が増えたことを彼が悟ったからだったろう。 瞬も、もちろん それはわかっている。 「氷河も星矢に何か言ってやって。星矢ってば、僕に 女の子同伴でないと入店を認めないスイーツの食べ放題に付き合ってくれっていうんだよ。それってルール違反だって言ってるのに、ばれなきゃ構わないって――。それが 地上の平和と安寧を守って正義のために戦うアテナの聖闘士の言うこと?」 「嫌がっているものを無理に誘うんじゃない」 アテナの聖闘士のあるべき姿勢を根拠としているのではないようだったが、もちろん氷河は瞬の味方だった。 わかってはいたのだろうが、氷河の にべもない言葉に、星矢がふてくさった顔になる。 「食べ放題に行きたいって言い出したのが瞬だったら、ほいほい喜んで瞬のお供をするくせに」 口の中で ぶつぶつ不満を咀嚼し出した星矢に、 「美穂ちゃんでも誘ってみたらどうだ」 と提案したのは紫龍だった。 星矢が、提案者に首を大きく横に振る。 「美穂ちゃんはダイエット中なんだってさ。カボチャのパイ、カボチャのタルト、カボチャのプディングが食べ放題だぜーって誘ったら、悪魔を見るみたいな目で睨まれた」 「なら、諦めるしかないだろう」 「でも、あの食い放題、期間限定のハロウィン企画なんだよ。今日を逃したら、次は来年まで待たなきゃならないし、来年 美穂ちゃんがダイエットに成功してるとは限らないじゃん。だから瞬に頼んでるんだ。瞬は いくら甘いもの食っても太らない体質だしさ」 それは体質などではなく、摂取したエネルギー以上に運動しているから太らないという、言ってみれば自然の摂理だったのだが、それはともかく。 ハロウィン限定企画のスイーツ食べ放題のために必死の形相で食い下がる星矢を見て、瞬はふと 数日前のパーティでの出来事を思い出したのである。 あの場にいた紳士たちは 決して星矢のように意欲(と食欲)をむき出しにすることはなかったが――あの時と今とでは 全く状況が違うが――『“女の子”を諦めてもらいたい』という瞬の願いは同じである。 だから、あの時と同じ方法で 星矢にも引き下がってもらおうと、瞬は考えたのだった。 「じゃあね、『国 破れて山河あり』。この続きを そらんじられたら、僕、星矢に付き合ってあげる」 「なんだよ、それ?」 ふいに カボチャにもダイエットにも無関係な話を持ち出されて、星矢は奇妙な顔になったが、そんな星矢に対する瞬の反応も全く同じだった。 つまり、瞬も、星矢の言葉を聞いて、星矢同様 奇妙な顔になったのである。 『なんだよ、それ』と尋ねてくるということは、星矢は この有名な詩の冒頭の句さえ知らないということ。 瞬には、それは、奇妙な顔にならずにいられないことだったのだ。 「誰も知らないような詩なんか持ち出して、卑怯だぞ!」 「誰も知らないなんてことはないでしょう。杜甫の『春望』だよ。大抵の人は知ってるよ。全部を正確にじゃないかもしれないけど、途中くらいまでは――」 「おまえの言う大抵の人ってのは、どこの星に住んでるんだよ!」 「地球だな」 星矢の非難 兼 質問に答えたのは、瞬ではなく紫龍だった。 星矢に答えを考えるための時間を与えても無駄と思ったのか、紫龍が杜甫の有名な五言律詩を朗々と詠い出す。 「国破れて山河あり。 城春にして草木深し。 時に感じては花にも涙をそそぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす。 烽火 三月に連なり、家書 万金にあたる。 白頭 掻けば更に短く、すべて 詩を最後まで詠い終えてから、彼は、その詩に、 「これは さすがに常識だろう」 の一言を付け加えた。 瞬が、ほっと安堵した顔になる。 「ほら、紫龍も知ってる。星矢は、僕を女の子に仕立て上げて カボチャ食べ放題に挑むことなんかより、詩集でも読んで脳に栄養を補給することを考えた方がいいよ」 「ちぇっ」 まさかカボチャ食べ放題の野望を 詩の暗唱によって頓挫させられることになるとは、考えてもいなかったのだろう。 星矢は、盛大な舌打ちをして――それでも、歴とした男子である仲間を女の子に仕立て上げることだけは断念してくれたようだった。 「食堂のおばちゃんに、今夜の晩飯にはカボチャの煮つけと天ぷらをつけてくれって頼んでくる」 とにかく今日 意地でもカボチャを食べてやるという決意を込めた足取りで、星矢がラウンジを出ていく。 そして、瞬は――望んだ通りの結末を手に入れることができたというのに、瞬は、なぜか星矢に対して申し訳ない気持ちになってしまったのである。 だから――瞬が、氷河と紫龍の上に視線を巡らせたのは、もしかしたら彼等に『おまえは悪くない』と言ってほしいと思ったからだったかもしれない。 事実がどうだったのかは 瞬自身にもわかっていなかったのだが、ともかく それで、瞬は気付くことになったのである。 結果的に星矢をやり込めてしまった仲間を、氷河が複雑そうな目をして見詰めていることに。 「氷河、どうかしたの?」 首をかしげながら尋ねた瞬に、思いがけない答えが返ってくる。 「今の詩、知っているのが普通なのか?」 と、氷河は瞬に問い返してきたのだ。 「――と思うけど……」 「俺は 知らなかった」 「え?」 それは瞬には、本当に思いがけない言葉だった。 瞬の認識では それは 知っているのが常識の有名な詩だったから――というのではなく、いわゆる常識人でも知らないようなプーシキンの詩を そらんじることのできる氷河が、これほどポピュラーな詩を知らないという事実が、瞬には思いがけないことだったのだ。 だからといって、氷河を非常識な人間と断じるようなことは、瞬はしなかったが。 「そうだね……。星矢には あんなこと言っちゃったけど、詩に 知っているのが当然のものなんてないと思うよ。詩って、自分の好きな――自分が共感できる詩を、ひっそりと胸に刻んでおくものなんじゃないかな。それが自分以外の誰かの胸の中にある詩と同じだったら、嬉しいって思うだけで。それだけのことだよ」 「……」 それだけのことと瞬は言うが、二人の人間が 同じ詩に共感できるということは、極めて重大な意味を持つことのような気がする。 違う心を持った二人の個人が 同じものに心が動かされるということは、感受性や価値観を共有できるということであり、それはまた、二人の人間が 共にいることを互いに快く感じるための必要条件でもあるだろう。 そして、氷河は、瞬と共有できる感受性や価値観を有していたかったのだ。 自分と共にいることを、瞬に快く感じてもらうために。 |