それから毎晩、カミュは瞬の許を訪れてくれた。
そして主に氷河の話をして――氷河がシベリアでどんな暮らしをしていたか、どんな修行を積んでいたのか、そして、どんなふうに成長していったのかを、瞬に語ってくれた。
それは瞬の知りたいことでもあったので、瞬は彼の話を興味深く、半ば楽しんで聞いていたのである。
氷河がどんなに意地っ張りで、負けず嫌いで、愛想がなく、可愛げもなく――だが、どんなに可愛い子供だったのか――。

知りたかったことを知ることができるのは嬉しい。
だが、瞬は、カミュの話を楽しく聞きながら、同時に焦慮も感じていたのである。
カミュが語る話は興味深く楽しい。
だが、瞬は、幾度カミュとの面談を重ねても、彼が氷河に“本当に伝えたいこと”が何なのか、一向に掴むことができなかったのだ。

瞬がカミュの訪問を受けることになって幾晩目のことだったか。
ある夜、彼は、瞬の知らない氷河の話ではなく、氷河の仲間の心情について言及してきた。
「君は氷河に好意を抱いてくれているように見える。私の勝手な思い込みだろうか」
「仲間ですから」
瞬は決してカミュの推察を否定したわけではなかったのだが、カミュは瞬の その返事に不満を覚えたようだった。
不満そうに、そして、何かを探るように、瞬の顔を覗き込んでくる。

「君は、言わずにいた方がいいと考えていることを 言わずにいることができるようだが、氷河はそんな器用なことはできなくて、何でも口にしてしまうんだ」
「氷河には確かにそういうところがありますね。自分の感情も、比較的 あけすけに他人に見せてしまう。でも、そういう時は大抵は――氷河がそれを言わずにいた方がいいことだと考えていないからのような気がします。隠す必要がないと思っているだけ。言うべきではないと考えていることは、氷河でも言わずにいるのでは?」
「かもしれん」
一度 瞬の言に頷いてから、カミュは、氷河が隠す必要がないと考えて彼の師に告げたことを、瞬に語り始めた。

「氷河は、この邸で母の話をしなくなったのは、君を悲しませたくなかったからだと言っていた。君に笑っていてほしかったからだと」
「え……」
「君はとても泣き虫で――いつも君が先に泣き出すから、自分は泣かずに済んでいたのだとも言っていたな。なのに、君に泣いてほしくはない。相反することを願う自分は変だと言って、不思議そうにしていた。そして、自分は もう一度 君に会えるのか、君が一人でつらい思いをしているのではないかと、いつも案じていた」
「あの……」
「天秤宮で君に命を取り戻してもらった時の あの子の気持ちが、私には よくわかる。死にかけているのが氷河でなくても、君は命をかけて仲間を救おうとしただろう。氷河もそれはわかっている。たまたま それが自分だったことが、だが、氷河にとっては運命だったんだ」

「あの……あなたは何がおっしゃりたいの」
いったい彼は急に何を言い出したのか。
何を言おうとしているのか。
これまで氷河と氷河の師のことばかりを話していたカミュが、急に氷河と氷河の仲間のことを話し出したことに――勝手に推し量り始めたことに、瞬は戸惑った。
カミュがそんなことを語り始めた意図がわからず、彼に尋ねる。
しかし、彼の返事は、
「本当に言いたいことは言えない。私は死んだ人間だから」
というものだった。

「私は、私に言えることはすべて言った。あとは君が、あの子に、私の伝えたいことを伝えてやってくれ」
言えることは すべて言ったとカミュは言うが、実際に彼が瞬に話してくれたのは、瞬が知らないシベリアでの氷河の成長の様子だけだった。
初めて行った場所で初めて出会った人に警戒していた氷河が、そこでの暮らしに慣れ、そこにいる人に慣れていく様子、厳しい修行をどんなふうに乗り越えていったか、離れ離れになった仲間たちが彼の支えだったこと、中でも(なぜなのかは わからないが)特に瞬を気にかけていてくれたらしいこと。
それだけだったのだ。

まるで死が間近に迫った老人のように語ったカミュの思い出話から、氷河の益になるどんなメッセージを読み取れというのか。
カミュの思い出話で、瞬が完全に新しく知り得た情報は、氷河が実は彼の亡くなった母親以上に、生きている仲間たちを重い存在だと思っていてくれたということだけ。
そして、カミュの思い出話は、以前から瞬の中にあった氷河への好意を 更に強く深いものにした。
カミュの思い出話が瞬にもたらしたものは、それだけだったのである。
瞬はカミュではないから、たったそれだけの情報では、カミュが氷河に“本当に伝えたいこと”はわからなかった――察しきれなかった。

「あなたは氷河に謝りたいの? 愛していたのだと伝えたいの? だから許してくれと? それとも――それとも強く生きてくれと? 幸せを祈っていると?」
「言えないのだ。言ってはならない。私は死んだ者だから。私が君の許に来るのは、今夜が最後だ」
「最後?」
その言葉が、瞬の焦慮を一層 激しいものにする。
彼が氷河に“本当に伝えたいこと”を アンドロメダ座の聖闘士が気付くまで、水瓶座の黄金聖闘士は自分の許に通い続けてくれるものとばかり思っていただけに、カミュが告げた『今夜が最後』という言葉は瞬には想定外のものだった。
不意打ちのようにタイムアップのベルの音を聞かされて 驚き戸惑っている瞬を、焦慮など全く感じていない様子のカミュが 静かに見詰めてくる。

「私が最初に君の前に姿を現わした夜、君は 私を嫌いだと言った」
「それは――あなたが、自分の犯した過ちに気付いていないのだと思っていたから――その権利もないのに、あなたが氷河を傷付けていると思っていたから――」
つい弁解口調になるのは、瞬が自分の浅慮を 今は恥じているからだった。
そして、今も自分が あの時と同じ気持ちでいるのだと カミュに思われたくなかったから。
カミュは、瞬の弁解に気を悪くした様子もなく、逆に自嘲めいた笑みで その口許を僅かに歪めた。

「私が気付いていたなら――自分の愚かさを自覚していたなら、私は恥ずかしくて、君の前に姿を現わすことなどできたはずがないからな。だが、私は、君の目に無様な自分の姿をさらした。私は恥知らずな男だ」
「そんなことは――」
そうだと思っていた時があっただけに、強く否定できない。
瞬は、氷河の師の前で口ごもった。

「だが、恥知らずと思われても――君に口を極めて ののしられ責められることになっても、そうしなければならないと思ったのだ、私は」
「……」
それは、彼が氷河に“本当に伝えたいこと”が、それほど氷河にとって重要で、氷河のためになることだからなのだろう。
それが何なのかを掴みきれずにいる自分が もどかしい。
瞬は、自分の迂愚に焦れて、唇を噛みしめた。

「私が君に嫌われていて よかったと言ったのは、君が私を嫌うのは、君が氷河を好きでいてくれるからなのだろうと思ったからだ。氷河の命の炎を消し去ろうとした男を、君が嫌っていなかったら、それは、君にとって氷河がその程度の存在でしかないということになるからな。氷河のために人を憎むようなことはしない、そんなことをするほどの価値は氷河にはないと、君が考えていることになる」
「カミュ……」
「地上で最も清らかな魂を持つ者の憎しみには、それほどの価値がある――意味がある。あの子のために君が私を憎んでくれていると知って、私は嬉しかった」

本当に嬉しそうに そう言うカミュの気持ちが、瞬にはわからなかった。
わかるような気もしたが、わからなかった。
彼がアンドロメダ座の聖闘士に――彼の弟子ではなく、アンドロメダ座の聖闘士に――望んでいることが わかってしまうことが、少し恐い。
瞬は、カミュに悲鳴じみた声で訴えた。
「カミュ! カミュ、行かないで! 僕にはまだわからない。僕は氷河に何を伝えればいいの……!」
「私が伝えたいことなど、伝えなくていいのだ。私は死んだ者なのだから。だが、君は――」
「でも、僕は――?」

瞬に問い返されたカミュが、首を横に振る。
“本当に伝えたいこと”を、彼は伝えられないから。
彼は既に死んだ者だから。
だが、カミュがそれ・・を口にしなかったことで、瞬にはやっと、彼が“本当に伝えたいこと”が何なのかに気付くことができた――理解することができたのである。






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