とはいえ、それがどんなに馬鹿げていても、認めたくなくても、事実は事実である。 そして、事実は曲げられるものではない。 瞬の理性が認めることを拒否した事実を あっさり既成のことと決定してくれたのは、グラード財団総帥にして、聖域の全聖闘士を統べる女神アテナその人だった。 星矢が シンデレラ姫捜索キャンペーンに関して一般人の知り得る情報を ほぼ披露し終えたところに、まるで そのタイミングを見計らっていたかのように颯爽と登場した沙織が、 「普通の人間に車のドアを素手で車体から引き剥がすことなんてできるはずがないんだから、もしやと思っていたのだけど、やっぱりシンデレラ姫は瞬だったの。困ったことになったわね」 と言って、星矢以上に渋い顔を瞬に向けてきたのだ。 「沙織さん……」 ある意味では、星矢以上に楽天家で大らかなところのある沙織に、本当に困っているような顔を向けられて、瞬こそが困ってしまったのである。 これは、シンデレラ姫が 靴の持ち主は自分だと名乗り出なければ済む話ではないのだろうか――と。 シンデレラ姫にとっては不幸なことに、沙織の顔は『名乗り出なければ済む話ではない』と言っていた。 「私は、聖域と聖闘士の存在は 公にしたくないのよ。なのに、JPN自動車工業主催のシンデレラ姫捜しは、既に日本国内だけの騒ぎじゃなくなってるの。JPN自動車工業の社長の息子が、軽率にも シンデレラ姫が残していった靴の写真をマスコミに公開してしまったでしょう。そうしたら、その靴に似た靴を持って、それは自分の物かもしれないかだの、知りあいの物かもしれないだのと言って名乗り出てきた人が、この3日間だけで50人近くいたそうなの。シンデレラ姫は自分だと断言しないところに、身分詐称の罪を負いたくないっていう姑息さ見え隠れして嫌な感じがするんだけど――ほんと失礼しちゃうわね。あなたたちの靴は全部オーダーメイドよ。そのへんの靴屋で同じものが売られているはずがないのに」 沙織が この事態に困っているのは事実なのだろう。 これは、言ってみれば 秘匿事項である聖闘士の存在が 広く一般社会に知れ渡ってしまう危険を はらんだ大事件なのだから。 が、同時に彼女は、彼女が彼女の聖闘士たちに与えている衣料生活品のレベルを軽く見られたことに誇りを傷付けられ、そのため大いに立腹してもいるようだった。 「靴だけのことなら、その靴は偽物だと言って追い払えばいいだけのことだけど、キャンペーン発表の席で、事故を起こしたドラ息子が、事故現場で人命救助に当たったシンデレラ姫は 目の覚めるような美少女だったとか、あんなに可愛い女の子は見たことがないだとか、寝とぼけたことを言ってくれたものだから、世間の関心が変な方向に向かってしまって――。まあ、おかげでシンデレラ姫の怪力のことには あまり注意が向いていないのは不幸中の幸いだけど」 「何が目の覚めるような美少女だ! その ど阿呆の馬鹿息子は、目の覚めるような美少女に車から引きずり出してもらって命拾いをしたわけか? 随分と格好の悪い王子様だな。普通の神経と自尊心を持っているなら、恥ずかしくて世間に顔を見せられないはずだ!」 それまで氷河が沈黙を守っていたのは、どうやら 彼が、馬鹿げたキャンペーンを張り出した男を ただの阿呆だと思っていたからだったらしい。 ただの阿呆が保身のために見苦しい足掻きをしているだけのことと、氷河は思っていたようだった。 しかし、ただの阿呆でも、不恰好で自尊心の持ち合わせのない王子様でも、審美眼を持っているとなったら話は別。 氷河は、自分以外の男が身の程知らずにも 瞬を『目の覚めるような美少女』だの『可愛い女の子』だのと評することに、はなはだしく機嫌を損ねることになったらしい。 その声が、蔑みの響きより怒りの響きを、より強く帯びている。 「それが実に堂々と阿呆面をさらしてるんだな。見るか? 全世界に配信されてる動画ニュース」 「僕、そんなの見たくな――」 『い』と、瞬が言った まさにその瞬間、星矢の指は、パソコンの外部モニター出力キーを押していた。 途端に、城戸邸ラウンジの壁に設置された100インチモニターに、何やら ひどく切羽詰まった表情の男の顔が映し出され、スピーカーから 極端に上擦った悲痛な悲鳴が聞こえてくる。 「彼女にもう一度会いたいんです! どんな小さな情報でもいい、提供をお願いします!」 必死の形相で訴えている20代半ばの その男性の顔は、瞬には初めて見る顔だった。 自分が命の危険を顧みずに救助した人物の顔を、瞬はあまり鮮明に憶えていなかったのである。 怪我の有無――特に頭部の打撲ばかりを気にしていた瞬は、彼の顔など見ていなかった。 むしろ後頭部を見せられた方が、瞬は より容易に『あの時の人だ』という認識に至ることができていたかもしれない。 国内外の正月行事もほぼ終わり、今は ニュースにするネタのない時季なのかもしれない。 キャンペーン発表会場の記者席にいる記者たちは、ネタ日照りの時季に 天から降ってきた恵みの雨にも等しい前代未聞のキャンペーンを面白がって、詰まらぬ質問を連発していた。 「シンデレラ姫が見付かったら、彼女と まず何をしたいとお考えですか」 このプレスリリースを深刻なニュース提供と考えていたなら、まずこんな質問が出ることはないだろう。 三大新聞社の腕章をつけているところを見ると 本来は社会部の記者なのだろうが、質問者の口調と質問内容は 完全に芸能リポーターのそれだった。 「え……」 何不自由なく育てられてきたブルジョアジーの息子だけあって、思いつくことは大胆だが、それはあくまで物や金の用途に対して発揮される企画力であるらしい。 不恰好な王子様は、人とのやりとりは苦手、あるいは あまり慣れていないようだった。 しばし口ごもってから、彼は 当たり障りのない答えを口にした。 「それは命の恩人ですから、お礼を述べたいと――」 「『ありがとうございました』とお礼を言うだけ? それだけでいいんですか?」 しかし、彼が今 対峙しているのは、言ってはならぬことや隠しておきたいことを抱えている人間の口をすべらせ、事件や問題を作り出すことを生業にしているジャーナリスト。 当たり障りのない答えで満足する人種ではない。 車には接し慣れているのかもしれないが、人には不慣れなプリンス・チャーミングは あっさり本音を白状させられてしまった。 「我が身の危険を顧みず人命救助に務めてくれた素晴らしい人ですから、ぜひ お近づきになりたいとも思っています」 JPN自動車工業社長のドラ息子は、一応 一定レベルの躾と教育は受けているらしい。 彼が使う言葉は それなりの丁寧語だった。 その丁寧語で語る言葉の内容のレベルはともかくとして。 「ああ、もちろん、それは僕一人だけの願いというわけではありません。こちらに、僕同様、彼女に命を救われた幼稚園児たちのメッセージを持参しました」 無様な王子様は、人とのやりとりが苦手というより、むしろ臨機応変に振舞うことが苦手なだけなのかもしれないと、彼の用意したものを見て、青銅聖闘士たちは認識を改めたのである。 少なくとも彼は、時間をかければ 事前の用意は周到に行なうことのできる、企画力と計画性には恵まれた人物のようだった。 彼が その場に集まっている記者たちに披露したのは、瞬がドアの壊れたバスから救出してやった幼稚園児たちからのメッセージ映像。 『あの時、私たちを助けてくれた綺麗なお姉さん。ありがとうを言いたいので、連絡ください!』 プレス会場に持ち込まれていたディスプレイの中では、純真な(?)幼稚園児たちが、おそらく無様な王子様に教え込まれたのであろうセリフを、声を揃えて元気に叫んでいた。 冬の幼稚園の庭で真っ赤な頬をして叫んでいる子供たちに罪はない。 それは氷河にもわかっていた。 だが、その映像が愉快なものでないこともまた厳然たる事実。 用意周到なドラ息子のプレス発表映像を見終えた氷河の手と肩と声は、怒りのために わなわなと震えていた。 「な……何がシンデレラ姫捜索キャンペーンだ! 瞬、絶対に名乗り出る必要はないぞ。子供まで使って――魂胆が見え透いてる!」 「そうは言うけどねえ、氷河。瞬が名乗り出ていって決着をつけないと、この騒ぎが いつまでも続く可能性があるでしょう。これは企業や団体が社会貢献度をアピールするために企画したキャンペーンと違って、大衆の興味を引く下世話でスキャンダラスな代物で――つまり、分野が“社会・政治”ではなく“エンターテイメント”なのよ。一般大衆がすぐに忘れてくれる退屈なニュースではないの」 「だよなー。なんか、このドラ息子、本気で思い詰めてるみたいだし、しつこそうだぞ。何もしないで、いつ終わるかわからない騒ぎの沈静化を待ってるくらいなら、いっそ ちゃんと名乗り出て、シンデレラ姫は美少女じゃなく男だったって、ほんとのことを言っちまった方がいいかもしれないぜ」 「こんな助平心が見え透いた男に、瞬を会わせるというのか! この阿呆が、これだけ可愛いなら男でもいいなんて馬鹿なことを言い出したらどうするんだ!」 「おまえと一緒にすんなよ。どんだけ阿呆の馬鹿息子でも、おまえよりは常識あるだろ」 「どうだか わかるものか……!」 自分が非常識な男であることを あっさり認めてしまうあたり、氷河は もしかしたら極めて潔い男なのかもしれない。 その潔さに感じ入ったから――というのでもないだろうが、紫龍は氷河の意見に賛成する態度を見せた。 「JPN自動車工業社長令息の常識の有無はさておくとして、これは無視するしかないのではないか? 名乗り出て、俺たちはアテナの聖闘士だから、ひしゃげた車のドアも難なく 引き剥ぐこともできましたと告白するわけにはいくまい。そんなことをしたら、シンデレラ姫捜索とはまた別の騒ぎが起こってしまう」 「あ、そっか……」 周囲にいるのが聖闘士と神ばかりという特殊な環境下に置かれているせいで、星矢は アテナの聖闘士というものが大衆の好奇心を掻き立てる得意な存在だという認識を欠いていたらしい。 紫龍に言われて、星矢は初めて、瞬が公に姿を見せることの もう一つの危険に思い至ったようだった。 「沙織さん……」 瞬が、『名乗り出る必要はない』という沙織の決定を期待している目で――というより、『名乗り出る必要はない』と決定してほしいと哀願するような目で、彼の女神を見詰める。 沙織は瞬のすがるような目に出会って、困った顔になった。 「まあねえ……。あのご子息、悪い人間ではないようなのよ。氷河が思っているほど漁色家でもないようだし。ただ、とにかく車道楽がひどいらしくて、お父様も ほとほと困り果てていたらしいわ」 「漁色家でないなら なおさら、瞬が名乗り出るのは危険だろう。本気になられたら まずいことになる。無視していればいいんだ。どれほど大掛かりなキャンペーンを張ったところで、奴がシンデレラ姫を見付けられるわけはないんだし」 結局、氷河は、相手が助平でも奥手でも、君子でも凡夫でも、自分以外の男が瞬に興味を持つことが許せないだけらしい。 『あくまでも無視』の路線を、彼は主張した。 「でもさー」 そうすることができるのなら それがいちばんいいとは、星矢も思っていたのである。 しかし、怪力のシンデレラ姫を取り巻く周囲の状況は、そう簡単に片が付くものであるようには、星矢には思えなかった。 「でも、おまえ、瞬を お姫様抱っこして駅まで運んだんだろ? てことは、結構な人に目撃されてるだろうし――。おまえ、それでなくても馬鹿みたいに目立つのにさ。おまえらの乗ってきたタクシーの運ちゃんとかもいるし、誰が謝礼金に目がくらんで垂れ込むかわからないぞ」 「いや。タクシーの運転手の方は心配する必要はないのではないか。話題の人を運んだ先が、グラード財団総帥の私邸だぞ。垂れ込むつもりなら、まず こちらにお伺いを立ててくるだろうからな」 「この馬鹿息子が探しているのは、目の覚めるような美少女であって、金髪の男ではないんだろう。俺に抱かれている間、瞬は恥ずかしがって、ずっと俺の胸に顔を埋めていたから、瞬の顔を見た者はほとんどいないはずだ。俺が抱いていたのがシンデレラ姫だと気付いている者はいない」 星矢の懸念を、紫龍と氷河が棄却差し戻しにする。 これで証拠不十分、審理自体が成り立たなくなり、瞬は晴れて自由の身。 アテナの聖闘士たちが全員 そう思った時だった。 沙織が新たな証拠の採用を求めて、その口を開いたのは。 「タクシーの運転手の方は、私が手を打っておくわ。ただ問題は――明日 公表されることになっている、シンデレラ姫の似顔絵なのよ」 |