だが、何も考えずにいることは、人間にはできない。
瞬は、彼の説得――もしかしたら、それはある意味では戦いなのかもしれない――が長期戦になることを覚悟した。
時に挑発し怒らせ、時に同情し、時に優しく慰撫しながら、瞬は彼に ものを考えさせることを試みた。
何も考えずにいることは、人間にはできない。
瞬の努力の甲斐あって、彼は 少しずつ瞬と口をきいてくれるようになった。
あくまでも、反抗的にではあったが。

「あなたに食事を運んでいる者が、あなたが食事をあまり食べてくれないと心配していたんだけど、体調が優れないんですか」
「飢えて死ねば、主は俺を許してくれるかもしれない。そうすれば俺は永劫の罪に焼かれて苦しむこともないのかもしれない……」
「え?」
今 現に生きている自分の命よりも、死後の自分の処遇を案じているような彼の呟きに、瞬は唇を引き結んだ。
彼の神の教えは、彼との やりとりを繰り返しているうちに、瞬にも徐々にわかってきていたのだが、それは瞬には全く受け入れることのできないものだった。

『死後の世界は永遠。死後の永遠の安寧のために』と、彼の神は繰り返す――繰り返し、脅す。
では、人は何のために この世界に生まれてくるのかと、瞬は彼の神に問いたかった。
そんなに 生きている自分より死後の自分が大切なのなら、この世界で罪を重ねる前に さっさと死んでしまえばいいのに! と、叫びたくなることさえあった。
おそらく瞬にそう叫ばせてしまわないために、彼が、
「死なずに済むための最小限のものは食っている」
と、瞬に答えてくる。
そんな答え一つをみても、彼は決して愚鈍な人間ではなかった。
洞察力も理解力も、並の人間以上のものを有している。
そんな彼が、どう考えても理に適っていない彼の神の教えに固執することが、瞬は不思議でならなかった。

「もしかしたら、あなたの神は、ものを食べて 美味しいと感じることも罪だと言っているの?」
「もちろん そうだ。人間は貪欲な生き物だから、一度 何かを快美に感じると、次には更に快美なものを望むようになる。喜びは新たな欲を生む。そして、その欲が満たされないことに不満を覚え、怒りを抱くようになる。喜びなど知らないでいる方が、人間は幸せでいられるんだ」
「でも、僕は、あなたが弱っていくのを見るのは悲しいし苦しいの。命だけでなく健康を維持するために、食事をとってください。それくらいのことなら、あなたの神も許してくれるのでは?」
「おまえが悲しまず苦しまないために、俺に食事を勧めるのか? それは、俺が自分の死後の幸福を得るために――自分のために 隣人を愛そうとすることと、何も違わないではないか」
彼に そう反駁され、瞬は溜め息をついた。
彼は 彼の神を信じようとするあまり、生きている人間の ごく自然な心の ありようさえ忘れかけている。
瞬は、自分のために 彼に食事をとってくれと言ったわけではなかった。


「あの男は、言葉を言葉通りに受けとめることしかできない馬鹿だ。おまえが あの馬鹿の身体を心配して わざとそういう言い方をしたこともわからない馬鹿。いい加減、放っておけ。あの男が飢えて死のうが、健康を損なおうが、それはあの男自身が そうなることを望み選んだだけのことだ。おまえが憂い顔でいると、俺が・・苦しい」
氷河が、氷河自身の苦痛を軽減するためではなく、憂い顔の仲間のために そう言う。
自分のために氷河は そう言ってくれているのだとわかる自分を、瞬はとても幸福な人間だと思った。

「ありがとう。でも、そうはいかないよ。世界中があんな人だらけになったら、この世界がどんなことになるか……」
「この世界は、生きている死人であふれることになるな。この世界に幸せな人間はいなくなる」
「うん……」
幸せでいることも、豊かでいることも罪だという神。
瞬とて、他者を犠牲にしてまで幸福になろうとする人間の欲までは肯定するつもりはなかった。
しかし、今 彼が生きている この世界――この世界での幸福を全否定するような彼の神の教えには、瞬は全く同感できなかったのである。
自分が幸福になることを否定する人間は、自分以外の人間の幸福にも価値を見い出すことができなくなるだろう。
そんな人間が 隣人を愛することなどできるはずがない。
瞬には、彼の神の主張は、どうしても受け入れ難いものだった。






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