ところで。
氷の国の王宮で、瞬王子が火の国の王子だということを知っているのは カミュ国王と、カミュ国王付きの侍従長だけでした。
瞬王子が、人に仕えられたことはあっても、人に仕えたことのない王子様だということを知る者は他に誰もいません。
ですから、カミュ国王は瞬王子の侍従生活を大層心配してくれました。
時折 瞬王子を自分の部屋に呼んで、
「何か不自由はありませんか。氷河は我儘なところがあるので大変でしょう」
と、瞬王子の身を気遣ってくれたのです。

そんなふうにカミュ国王に気遣われた時には、瞬王子は いつも、
「氷河王子様は、僕にとても優しくしてくださいます。僕が憶えている王妃様のように優しくて美しくて、僕、とても嬉しいです」
と答えました。
本当のことですからね。
すると、カミュ国王は、
「氷河が優しくて親切? それは変だな。瞬殿のように可愛らしい姫君には、さすがの氷河も いつもの我儘王子ではいられないのか」
というような冗談を返してきます。

(姫君……?)
どうやら真顔で冗談を言うのは、氷の国の王族の習性のようでした。
最初のうちはカミュ国王の真顔の冗談に戸惑っていた瞬王子も、慣れてくると そんなカミュ国王の冗談を微笑で受けとめることができるようになっていったのです。
初対面の人に少女と間違えられ姫君呼ばわりされることに、瞬王子は慣れていましたから。
火の国には、瞬王子を王子と知った上で、瞬王子を宮廷一の美姫と からかい半分に評する人も大勢いたのです。

それはさておき。
最初の1、2回は、瞬王子がカミュ国王からの呼び出しを受けても、氷河王子はあまり気にしていないようでした。
ですが、それが あまりに頻繁なので、氷河王子は、瞬王子がカミュ国王の許に行くことを あまり快く思わなくなっていったのです。
他国との人材交流の仕儀なんて、外交担当の事務官が気にすべきことで、一国の王が いちいち かかずらうようなことではありません。
なのに、暇さえあれば瞬王子を自室に呼びつけるカミュ国王。
氷河王子がカミュ国王の心を邪推してしまったとしても、それは仕方のないことだったでしょう。
なにしろ瞬王子は、花のように可憐な姿と、誰もが心惹かれる素直な眼差しの持ち主でしたから。

ある時、氷河王子は、またしてもカミュ国王が瞬王子を自室に呼びつけたことに腹立ちが収まらなくなり、カミュ国王の部屋に乗り込んでいったのです。
「瞬は俺の侍従だぞ! 叔父上は瞬にちょっかいを出すなっ!」
と怒鳴り声をあげながら。

その時、カミュ国王は、瞬王子の兄君である火の国の国王から届いた手紙を瞬王子に手渡していたところでした。
手紙が収められている黄金の文箱には、火の国の王族しか使うことのできない王家の紋章が刻まれており、瞬王子はそれをカミュ国王の手から直接受け取っていました。

王家の紋章というものは、どの国の王室にとっても神聖なものです。
紋章が刻まれたものは、それが家具であれ雑貨であれ宝飾品であれ、王族以外の者が直接 手で振れることは許されていませんでした。
王族以外の者がどうしても それらに触れなければならない時には、絹の布を用いて 直接肌が触れないように押し頂くのが、破ってはならない お約束。
それらのものを作る職人や彫金師でさえ、王家の紋章入りの作品を作る際には 必ず手袋をはめることになっていました。
どの王家にとっても、紋章というものは それくらい重要なものだったのです。
火の国の紋章である火の鳥が刻まれた文箱に直接触れているということは、その者が王家の血を引いているか、あるいは王族に妻として迎え入れられ王籍に入った者であることを意味していました。

「瞬、おまえ……」
瞬王子が、その手で直接受け取っている火の国の紋章が刻まれた黄金の文箱。
それを見て、氷河王子はすべてを悟ったのです。
一つの王家に同じ名を持つ者はいません。
もし王女や王妃と同じ名を持つ女性が王や王子の妻となり王籍に入ることになったなら、彼女には改名が義務づけられていました。
つまり、火の国に“瞬”という名の王族は一人しかいないのです。

「おまえ、俺をだましていたのかっ!」
「氷河……!」
氷河王子が激昂したのは、“瞬王子”が氷河王子にとって憎むべき母の仇だったからなのか、それとも、瞬王子が氷河王子に嘘をついていたからだったのか。
いずれにしても、瞬王子に対する氷河王子の怒りが尋常のものでなかったのは、氷河王子が“瞬”を信じ、好意を抱いていたからだったでしょう。
「あ……」
氷河王子に『だましていたのか』と責められた瞬王子は、『違います』と答えることができませんでした。
氷河王子の幸せを願ってのこととはいえ、瞬王子が氷河王子をだましていたのは 紛う方なき事実でしたから。

代わりに瞬王子の弁護に立ってくれたのは、氷の国のカミュ国王でした。
「氷河! 瞬殿を責めることは、この叔父が許さんぞ! 瞬殿は、義姉君が亡くなった時、義姉君にできない分も おまえを幸せにすると義姉君に約束されたのだ。その約束を果たすため、健気にも単身 我が国にやってきた。おまえが瞬殿を逆恨みしてさえいなかったなら、瞬殿はおまえをだます必要もなかったのだ。瞬殿に嘘をつかせたのは、氷河、おまえ自身なのだぞ」
「なぜ俺のせいだ! なぜ逆恨みなんだ! 自分に非がないと思うなら、最初から正々堂々と火の国の王子だと名乗って俺の前に立つことができたはず。それをしなかったということは、瞬が自分を清廉潔白だと思っていないからだろう!」

「どうして そんなひねくれた考え方しかできないのだ。瞬殿はおまえを苦しめたくなかったのだ。おまえには、それがわからんのか!」
「俺を苦しめたくなかった? よく そんなことが言えるもんだ。結局、こうして ばれて、俺のはらわたを煮えくりかえらせてくれているじゃないか。この綺麗な目に ころっとだまされて、すっかり瞬を信じてしまっていた俺を、影では馬鹿な男だと笑っていたんだろう、おまえは!」
「そんな……」

憎い親の仇に だまされることと、信じていた友に裏切られること。
そのどちらが より苦しく悲しいことかといえば、それは考えるまでもなく後者でしょう。
氷河王子を苦しめないためについた嘘が、結局 氷河王子を より一層苦しめることになってしまったのです。
「僕は……」
瞬王子は、氷河王子に嘘をついていたことを、今では後悔していました。
氷河王子をだますことなく側にいるための もっと別の方法があったのではなかったかと。
氷河王子を傷付けずに済む、もっといい方法があったのではなかったかと。
後悔しながら――けれど、瞬王子の決意は変わらなかったのです。

「ぼ……僕が氷の国の王妃様にもらった命は、氷河王子様を幸せにするためにあるものなんです。僕は一生、氷河王子様に お仕えしたいんです……!」
「俺の幸福を願うなら、今すぐ 俺の目の前から消えうせろ。ああ、いっそ死んでくれてもいいぞ。そうすれば、おまえも すべての貸し借りが清算できて すっきりするだろう」
「氷河、おまえは何ということを言うのだ! 義姉上が 今のおまえのその言葉を聞いたら、どう思うか……。おまえがそんな心無いことを言う男だったとは、私は情けなくてならないぞ!」
カミュ国王が、普通にしていても半分 つり上がっている眉を更に つり上げて、氷河王子を叱りつけます。
氷河王子は、少しは我儘なところがあったにしても、人に『死んでくれていい』なんて、そんなことを言う王子様ではなかったのです。
信じていたからこそ、瞬王子の嘘を知って 怒りが激しくなっている氷河王子の気持ちは、カミュ国王にもわかりましたが、それにしても、人間には言っていいことと悪いことがあるのです。

カミュ国王は、氷河王子の暴言が これ以上 瞬王子の心を傷付けることがないようにと考えて、瞬王子に自室に戻るように言いました。
氷河王子を傷付けたことで 氷河王子より傷付いてしまった瞬王子は、既に 自分の足で立っているのが精一杯だったのでしょう。
不安げな目をカミュ国王に向け、切なげな目で氷河王子を見詰めてから、瞬王子は 覚束ない足取りでカミュ国王の部屋を出ていきました。
瞬王子の姿が室内から消えると、カミュ国王は 氷河王子の叔父の顔になって、憤りながら傷心している甥に、溜め息混じりに言ったのです。

「嘘をつかれて腹が立つ気持ちはわかるがな。瞬殿は、そうしたいと望めば、火の国の王宮で、多くの家来や召使いに かしずかれて、何不自由なく 気ままに暮らしていられる身分の人間なんだぞ。それを、おまえの母との約束を守りたいの一心で、身分を隠し、おまえのように我儘な王子に仕えたいと望み、実際 仕えていた。あんなに可愛い姫君が、おまえの側にいるために 男子と偽って、男子の服を着て――少しは感動したらどうなんだ。つーか、普通、感動せんか? あんな美少女は滅多にいない。その美少女が一途に おまえだけを見詰めているんだぞ。普通の男なら、それだけで昇天ものだ。おまえ、身体のどこかに欠陥でもあるのか」
「い……いくら美少女でも――」
「おまえだって、自分が逆恨みをしていることくらい わかっているんだろう」
「しゅ……瞬のせいでマーマが死んだのは事実だ……!」
「それが事実誤認だと言っているんだ。瞬殿がそれを望んだわけではない。ああ、いっそ、瞬殿がおまえの妻になってくれればいいのに。美しさ、可愛らしさ、身分には文句のつけようがないし、細やかな気配りができて、心根も優しい。その上、おまえに一生 仕える覚悟もできている。男にとって、まさに理想の妻だ。おまえは世界でいちばん恵まれた夫になる。気の強い細君に悩まされている世界中の亭主族が、おまえを羨むことになるだろう」
「じょ……冗談じゃない! 瞬は俺のマーマを殺した仇だぞ! そんなことになったら、マーマが悲し……」
「義姉上は心から喜ばれることだろう。瞬殿は義姉上の お気に入りだった」
「マーマの気持ちを、叔父上が勝手に決めるなっ」

当人の気持ちを無視して 勝手に縁談話(?)を進めていくカミュ国王を、氷河王子は大声で怒鳴りつけました。
怒鳴っている最中にも、氷河王子の胸は どきどきと高鳴り始めていたのですけどね。
氷の国や火の国ほどの大国になりますと、国王や王位継承者は他国の王室から妻を迎えなければなりません。
“瞬”がどれほど心優しい絶世の美少女でも、正室に迎えることは不可能と、氷河王子は諦めかけていたのです。
ですが、“瞬”が火の国の王族となったら、話は違ってきます。
氷河王子の胸が高鳴るのは当然のことだったでしょう。

カミュ国王は、意に沿わぬ縁談話を聞かされた途端、急に そわそわし出した氷河王子の様子を見て、つい吹き出したくなってしまったのでした。
もちろん、そんなことをしたら氷河王子が今よりもっと臍を曲げてしまうことがわかっていましたから、カミュ国王は爆笑したくなる自分を懸命に抑えましたけどね。
両国のためには、願ってもない縁談。
氷の国の国王としても、氷河王子の叔父としても、この話は絶対にまとめなければと、カミュ国王は思ったのです。
カミュ国王には、それが 氷河王子を真の意味で幸福にする最善にして唯一の道のように思えましたから。


が、事はそう上手くは運ばなかったのです。
カミュ国王の希望と氷河王子の幸福を妨げようとする者が、氷の国の王宮に一人いました。
それは、カミュ国王の他にただ一人だけ、瞬王子が氷の国の王妃様から命をもらって生き延びた人間だということを知っているカミュ国王付きの侍従長でした。
彼は、カミュ国王の侍従長だけでなく、氷の国の総務大臣も勤める 氷の国の有力者。
彼は、氷河王子がカミュ国王の部屋に怒鳴り込んできた時も 国王の傍らに控えていて、王子と国王のやりとりを聞いていました。
その侍従長が、胸をどきどきさせながら叔父君の部屋を出た氷河王子の側に近寄り、氷河王子に そっと耳打ちしてきたのです。

「殿下。お気をつけください。敵の罠にはまってはなりませんぞ」
と。
「罠?」
「私にもやっと今日、敵の魂胆が見えてきました。瞬殿が 身分を偽り、男子の服など着込んで殿下に近付いたのは、それが狙いだったのですね」
「瞬の狙い……とは?」
「絶対に油断はなりませんぞ、殿下。あの姫の狙いは――いや、火の国の狙いは 氷の国の王妃の座なのに違いありません」
「なに?」

氷河王子には、侍従長が何を言っているのかが、すぐには理解できませんでした。
氷の国と火の国は、この世界の二大大国。
その王妃の座は、女性が達し得る最高の地位といっていいでしょう。
小国の王女や貴族の娘が その地位に就くことを夢見るのなら わからないでもありません。
ですが、瞬王子は その二大国の一方である火の国の王族なのです。
瞬王子は、氷の国の王妃の座を手に入れようと画策したりしなくても、望んで叶わぬことのない境遇にいる人間でした。
氷河は、そう思っていました。
ですが、カミュ国王付きの侍従長の考えは、氷河王子のそれとは少し――否、大いに――違っていたのです。

「瞬殿の兄上である火の国の国王は、瞬殿を溺愛していると聞いています。どんな願いも ほいほいと叶えてやる兄馬鹿国王だとか。ですが、今はそうでも、いずれ国王が妻を迎え、子を成したら、国王の愛は妻子に移るでしょう。兄王の愛情が他に移ったら、瞬殿は これまでのように どんな願いも叶えられる恵まれた境遇にいることはできなくなる。瞬殿は、そうなった時のことを心配しているのでしょう。ですが、我が国の王妃になれば、その心配も無用のものになります。あるいは、火の国は瞬殿を使って、我が国の乗っ取りを企てているのかもしれません。殿下、あの可愛い顔にだまされてはいけませんぞ」
「……」

カミュ国王付きの侍従長が 氷河王子に そんなことを耳打ちしたのは、実は、侍従長こそが 自分の娘を氷河王子の寵妃にして権勢を増したいと考えていたからだったのですが、侍従長に娘がいることも知らなかった氷河王子は 侍従長の言葉を鵜呑みにしてしまったのです。
「俺の妻の座が狙いだったのか……。それならば、瞬が 火の国での何不自由ない暮らしを捨てて 俺に近付いてきたことにも説明がつく……」

氷河王子はどうして そんなふうに考えることができたのかと 呆れてはいけませんよ。
瞬王子は、自分の命をかけて氷河王子を幸せにしようと固く決意していて、ですから いつも切なげな眼差しで氷河王子を見詰めていました。
まあ、普通の恋人なんかよりずっと慕わしげな目で氷河王子を見詰めていたのです。
ところが 氷河王子は、自分が欠点だらけの我儘王子だという自覚がありましたから、自分が あんなに可愛らしい瞬王子に 純粋に好かれているのだという自信を持つことができなかったのです。
瞬王子が熱い眼差しで見詰めているのは、氷河王子自身ではなく、氷河王子がいずれ手に入れる氷の国の国王の座。
瞬王子の狙いは、氷河王子自身ではなく、氷の国の未来の王妃の地位なのだと考えれば、瞬王子の眼差しの一途さも、氷河王子は納得することができたのです。
納得できたから すっきりしたとか、嬉しい気持ちになったとか、そういうことはありませんでしたけどね。






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