母親と後宮にいられる歳でなくなると、氷河は広大な町を成す王宮の一画に氷河個人の館を与えられた。 それも、特別な待遇だったろう。 王子として本殿に部屋を与えることはできないが、“特別な王子”が 王と国に対して不満を持つことがないように考慮された上での境遇。 女官が多くいる本殿に住まわせることの危険も勘案された結果 決められた待遇でもあったに違いなかった。 父王は 父としての愛情を氷河に注いではくれなかった。 数十人いる王の子供たち。 氷河より年長の王子だけでも5人。 王にとっては、彼の後継者となる可能性を持つ数人の王子だけが、注意深く薫育しなければならない子供たちだったのだ。 黒い髪と黒い瞳を持っていても、王女や虚弱な王子たちは、氷河同様 父王から無視されているも同然だったので、そのこと自体には氷河も不満は覚えなかった。 が、独立した館を与えられ、そこに暮らすようになってから、王宮の本殿の更に奥に位置する後宮にいる母に会うことが難しくなったことが、氷河の唯一の――そして、非常に大きな――不満だった。 氷河の母は、若さを失っても、王の寵愛を失うことはなく、後宮を出て息子と共に暮らすことが許されなかったのである。 その聡明と気遣いで、彼女は その頃には、王の私事の相談役といっていい地位を得ていた。 彼女は、いつどんな理由で命を奪われるかもしれない息子の命を守るために、王の気に入りでいるための努力を怠らなかったのである。 同時に、彼女は、キプチャク・ハーン国の後宮に囚われた人質でもあったろう。 決して王位に就くことのできない有能な王子に、国と王にとって危険な野心を抱かせないための。 彼女は、彼女自身の意思に反して、そういう役目を負わされていた。 そんな母のために、母が生きている間は、氷河は事を起こすつもりはなかった。 母のために――氷河は、キプチャク・ハーン国軍の不敗神話を守る飾り人形でいるつもりだったのである。 王子としての権利は約束され、守られている。 しかし、氷河は、一人の人間としての権利は奪われていた。 不吉な色を持った王子と親密になることを避けるために1ヶ月ごとに入れ替わる侍官たちは、『王子は、気に入った女がいたら、その女を自分のものにしても構わないのです』と、氷河に言った。 『ただし、その女は その日のうちに命を奪われることになるでしょうが』と。 望んで得たわけでもない息子の命を守るために、常に自分の心を殺している母。 それでも息子の前では笑顔しか見せない母を深く愛していた氷河は、自分のために 母と同じ女性を不幸にする気にはなれなかったので、そういったことでは禁欲を維持し続けていた。 実のところ、氷河は それでどんな不都合も感じていなかったのである。 国中――否、世界中の美女を集めているはずのキプチャク・ハーン国の後宮においてですら、母以上に美しいと思える女性に、氷河は出会ったことがなかったから。 ただ、戦場に駆り出され勝利することには、氷河は 少年と言える年齢のうちは、自分の命を守るために戦いでの勝利に固執していたのだが、その勝利が結局は 母と同じような不幸な女性を増やすだけのことと気付いてからは、氷河は 戦いそのものに憤りを覚えるようになっていた。 戦いをやめれば、不吉な色を持つ王子を国の勝利の守護神として戴いておく必要はなくなる。 だというのに なぜ、黒い色を持たない王子の排斥を望む者たちは、その望みを叶えるために戦いをやめることを考えないのか。 息子を守るためだけに生きているような母のために、死ぬことは許されない我が身。 戦えば必ず勝ってしまうことへの苛立ち。 不吉な色を持つ王子を排除したくてもできない宮廷の重臣たちへの嘲り。 黒い髪と黒い瞳を持ちながら、下手な戦いで犠牲者を増やすばかりの無能な兄弟たちへの軽蔑――。 様々な事実と考えのせいで、青年と呼ばれる年頃になると、氷河は、あらゆることへの軽蔑と嫌悪感を隠さない、傲慢で反抗的な王子になっていた。 |