春よ、来い






「春よ、来い。
 早く、来い。
 歩き始めた みいちゃんが、
 赤い鼻緒のじょじょ履いて、
 おんもへ出たいと待っている」


今年の冬は寒さが厳しかった。
日本国内のみならず、北半球の各地で、観測史上20年振りの最低気温更新、30年振りの積雪記録更新。
今冬、アテナの聖闘士たちは(アテナの聖闘士たちだけではないが)そんなニュースばかりを見聞きしてきた。
おかげで氷河は、この数ヶ月間、随分と肩身の狭い思いをしてきたのである。
「冬場に氷雪の聖闘士なんて、何の役にも立たないよなー」
「おまえの姿が視界に入ると、それだけで体感温度が3度は下がるような気がするな」
等々、命をかけた戦いを共にしてきた氷河の仲間たちは、仲間であるがゆえに 歯に衣着せず、氷河に言いたいことを言いまくってくれたのだ。

とはいえ、もちろん“歯に衣着せず言いたいことを言いまくってくれた仲間たち”の中に、瞬は含まれていない。
むしろ、瞬は、星矢たちが言いたいことを言いまくっている横で、
「でも、この寒さは氷河のせいじゃないんだから」
「冬が厳しい分、春が来るのを楽しみに待てるでしょう」
等々の言葉で星矢たちをいさめ、氷河を いたわってくれていた。

そうして、ついにやってきた3月弥生。
だったのだが。
立春から ひと月が経った桃の節句にもかかわらず、風は相変わらず冷たく、城戸邸の庭の木々も寒さに震えているばかりで、新芽が芽吹く兆しもない。
城戸邸ラウンジの窓から 一向に春の気配が感じられない庭を見詰めていた瞬が、そんな歌を口ずさみだしたのも無理からぬこと、瞬はもちろん その歌で氷河を責めようなどという気持ちは かけらほどにも抱いていなかっただろう。
それがわかっているだけに、なかなか立ち去らない冬に、氷河は申し訳なさを感じることになったのだった。

「なあ、じょじょって何だよ。まさか どっかのマンガのタイトルじゃないよな?」
冗談なのか本気なのか、詰まらぬことを瞬に訊いていく星矢を、氷河はいっそ殴り倒してやろうかと思ったのである。
残念ながら、瞬が 星矢の馬鹿げた質問に気を悪くした様子もなく懇切丁寧に答え始めたせいで、氷河はそのタイミングを逸してしまったのだが。
「じょじょって、草履のことだよ。赤ちゃん言葉なのかな。草履の『ぞ』をうまく言えなくて『じょ』になって、それを繰り返して言ってるんだと思う。言葉を話せるようになったばかりの子供って、同じ音を繰り返したがるでしょう。車のことを『ぶーぶー』とか、靴のことを『くっく』とか、お片付けのことを『ないない』とか」

まさかここで、『そんな馬鹿なことを訊いてくる星矢に、そんなに丁寧に答えてやる必要はない!』と言って、瞬を怒鳴りつけるわけにもいかない。
氷河は、瞬の親切への腹立ちを、
「赤い鼻緒がついているものと言ったら、だいたい察しがつくだろう。おまえはタヌキの置き物に赤い鼻緒がついているとでも思っているのか」
という星矢への嫌味に換え、瞬には、
「すまんな、瞬」
と殊勝な態度で謝罪した。
「え?」
氷河の謝罪を聞いた瞬が、何を謝られたのかわからない顔で首をかしげる。
「いや……なかなか春が来なくて」
氷河が自分の謝罪の意図を告げると、瞬は一瞬 瞳をきょとんとさせ、それから少し困ったような微笑を浮かべた。

「いやだ、そんなの氷河のせいじゃないでしょう。僕、そんなつもりで歌ってたんじゃないよ」
「それはわかっているが……」
「あ、でも、ちょっとだけ、氷河のせいかも」
「なに?」
たとえ本当にこの冬の寒波が白鳥座の聖闘士のせいだったとしても、瞬が仲間を責めることはない。
そう信じていた氷河は、瞬のその思いがけない言葉に驚き、その顔をあげることになったのである。
彼が覗き込んだ瞬の瞳には、しかし 相変わらず仲間を責める色は少しもたたえられていなかった。

「だって……寒さが厳しいせいで、この冬の間ずっと、氷河は星矢たちに理不尽に責められていたでしょう。春が来れば、氷河も 自分に責任のないことで責められずに済むようになるかな……って」
「あ……ああ。そんなことは俺は少しも気にしては――」
「早く、春が来るといいね」
瞬が、そう言って氷河に にっこりと微笑いかけてくる。
途端に、氷河の頭の中からは、レベルが低すぎる星矢の質問も、おんもに出たがっているみいちゃんの姿も、記録を更新しまくった今年の厳冬の記憶さえ、どこかに吹っ飛んでいってしまったのだった。
城戸邸の庭では 木々が木枯らしに震えているというのに、氷河の頭の中は うららかな春の陽射しと空気が充満し、そのせいで ろくな思考が作れない。
春に酔ったように――つまりは 阿呆のように――氷河は瞬に頷き返すことしかできなかったのである。

「そうだ。春は持ってこれないけど、春の気分だけなら……。沙織さんが、発注単位を間違えて、雛あられを大量に買い込んじゃったんだって。片付けるのに協力してって言われてたんだけど、氷河たちも力を貸してくれる? 白酒はないそうだから、お茶になっちゃうけど」
「あー、俺、いくらでも協力するー! んでも、飲み物は抹茶がいいな。雛あられって、あれだろ。砂糖か何かでコーティングされてるポン菓子みたいなもんだろ。苦いお茶の方がいいや」
「了解。氷河と紫龍はいつも通りでいい? 紅茶と烏龍茶」
「あ……ああ」

瞬がメインで・・・・尋ねた相手は氷河だったのに、食べ物の話には耳聡い星矢が、電光石火の早業で氷河と瞬の間に割り込んでくる。
氷河が星矢の図々しさに不快の念を表明することさえしなかったのは、ただ ひたすら、瞬が氷河の目と脳にもたらした うららかな春の暖かさのせいだった。






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