氷河は、星矢と違って、その思考が刹那的なわけでも長期的展望を欠いているわけでもなかった。
ただ、その時々に最優先される目的以外の事象に関する考慮を忘れがち――むしろ、すっかり忘れてしまうだけだった。
ゆえに、氷河は、その最優先事項の解決のために速やかに行動を起こした。
すなわち、翌日 月例ミーティングのために仲間たちと共に聖域に向かった氷河は、個人的にアテナへの面談を求め、彼女に、読心術を教示できる人材の紹介を求めたのである。


氷河に個別の面談を求められたアテナが彼を招じ入れたのは、アテナ神殿の玉座の間ではなく、その奥にある控え室を兼ねたアテナ個人の私室だった。
青銅聖闘士たちは 聖域では集団行動を採ることが多く、個別にアテナに面談を求めてくることは滅多にない。
当然 その用件は あまり大っぴらにできることではないだろうと、アテナは察したのかもしれない。
アテナの判断は適切なものだったろう。
事実、氷河がアテナに求めたことは、過去に例のない――つまり、誰もが頼んではいけないことと認識している――異例の頼み事だったのだから。

「急に そんなことを言われても……。既に聖衣を授けられている者が、別の師に教えを求めることは、仁義に反することでしょう。自分が何を言っているか、あなたはわかっているの? あなたは、カミュの指導では足りなかったと、私に訴えているも同然なのよ」
「俺は、単に、地上の平和と安寧を守るために、新たな技を会得し、更なる飛躍を遂げることを望んでいるだけだ」
「あなたにしては殊勝な心掛けだわ」
知恵の女神に正面から対峙し、その視線を逸らすこともなく堂々と、仁義に反した願い事を言ってのける氷河に、アテナが感心してみせる。
そうしてから彼女は、実にわざとらしい所作で両の肩をすくめた。

「目的が本当にそれなら、私も協力しないことはないのだけれど……。星矢がぼやいていたわよ。氷河は、なかなか春がやってこないせいで、脳の一部が凍死してしまったようだって」
「雛あられを一人で2キロ分たいらげた3時間後に、平気で夕食を完食できる星矢の満腹中枢も ほとんど死んでいるように見えるがな。協力しないことはない――というのは、協力しようと思えば協力できるということですか」
「え? ええ、まあ、アステリオンの師を紹介するのは無理だけど、それは修行で身につけることのできる力ではあるのよ。ムウのサイコキネシスや、サガや一輝の精神攻撃技に比べれば、読心術の習得は比較的容易ではあるわね。読心術は、人の表情を読む代わりに、脳と脳波の情報伝達物質の内容と強弱を読み解くだけの力だし」
「俺は、能力コレクターではないし、その技を習得して猟犬座の聖衣を手に入れようとしているわけでもない。簡単に身につけることができるなら、それは修行と呼ばれるほどのものではないし、その技を俺に教える者も 俺の師ということにはならないだろう。何も問題はない。その技を俺に教示できる者を、ぜひ俺に紹介してほしい」

面談の目的を遂げるまで、氷河は退くつもりはないらしい。
アテナの聖闘士の諦めの悪さを誰よりもよく知っている沙織は、結局、『地上の平和と安寧を守るために、新たな技を会得し、更なる飛躍を遂げることを望んでいるだけ』などという大嘘を白々しく言ってのける氷河の臆面のなさに免じて、彼の願いを叶えてやることにしたのだった。
「私の友人を紹介するだけなら問題はないかもしれないわね。ろくなことにならなくても、それはそれで面白いかもしれないし」

そう言ってアテナが氷河に紹介してくれた彼女の友人。
それは、“心の和合一致”の神ハルモニア。
大蛇の姿をした女神だった。
元テーバイの女王、エンケレイスの国の女王だったという彼女(蛇)は、先の聖戦の終結までは、生きながら冥界のエリシオンの野に暮らしていたらしい。
そこがアテナの聖闘士たちによって破壊されてしまったので、今は聖域の一画に暮らす居候の身。
今の彼女は、アテナの頼みを断れない立場にあるようだった。

「アテナから話は聞いてるよ。特別な修行なしで、人の心を読む力を授ければいいんだね。私は、神聖隊で名を馳せたテーバイの元女王だから、そういう恋には寛大だよ」
発声機能を持たない蛇の身をした彼女が 氷河にそう告げたのは、もちろん言葉ではなく、精神感応の力によってだった。
彼女が氷河に与えた『使用上の注意』は、
「神の心は読めないよ」
の一言のみ。
二人目の師を取ることは仁義上 許されないという聖闘士ならではの都合があったとはいえ、氷河は気が抜けるほど簡単に、“人の心を読む力”を手に入れてしまったのである。






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