氷河が単身 ゼムリャフランツァヨシファ諸島のルドルフ島に偵察に向かったことを、アテナが彼女の聖闘士たちに知らせてきたのは、彼が日本を発ってから半日後――正確には13時間20分後。 沙織が 氷河の仲間たちにすぐにそのことを知らせなかったのは、氷河の任務が極秘のものだったからではなく、出発の件を氷河は当然 彼の仲間たちに知らせていると思い込んでいたからだった。 そして、彼女は、星矢に、 「ゼニがフランでヨシがトーのルドルフトー? それって、どこにある島なんだよ?」 と、半ば本気 もしくは 完全に本気で問われることくらいまでは察していたが、まさか紫龍に、 「ドルバルの時のことを忘れたんですか! 氷河を一人で偵察に出すなんて、沙織さんには学習能力というものがないのか!」 と責められることまでは、全く想像していなかった。 儒教精神を重んじる紫龍が、聖域のヒエラルキーを完全に無視し、その頂点に立つ沙織を強気で責めてきたのは、だが、考えてみれば至極当然のこと。 なにしろ彼は、“ドルバルの時”の最大の被害者だったのだ。 “ドルバルの時”も、単身アスガルドに乗り込んだ氷河が、北欧の神オーディーンの地上代行者であるドルバル教主に取り込まれてしまったのが、事件(紫龍の災難)の発端だった。 アスガルドの独裁者ドルバル教主に洗脳された氷河に 容赦のない攻撃を加えられ、だが、紫龍自身は氷河を仲間だと思う気持ちに妨げられ、本気で氷河への反撃に出ることができない。 極端に不利な状況での戦闘中、頭を氷壁に打ちつけて 氷河の洗脳が解けてくれたから、事態は何とか収束に向かったものの、紫龍は その件で未だに氷河から謝罪の一つも受けていなかった。 そういう忌々しくも不愉快な経験を有する紫龍であればこその非難。 沙織は、青銅聖闘士の だが、それはそれ、これはこれ。 沙織には沙織なりの言い分というものがあったのである。 「失礼ね。この私を誰だと思っているの。畏れ多くもギリシャ世界最高の知略を誇る知恵の女神アテナ・パラスよ。学習能力くらい、私にだってあります。私はちゃんと、瞬と一緒に行くように氷河に言ったの。瞬と一緒なら、氷河は極寒の南極にでも 灼熱の砂漠にでも ほいほい喜んで行くと思ったし、氷河も無茶はしないでしょうから、私も安心していられるでしょう」 「ふむ。確かに、沙織さんには学習能力はあるようだ」 沙織の言い分を聞いた紫龍が、速やかに彼の疑惑を撤回し、 「洞察力と応用力もあるよな」 脇から、星矢が、フォローとも茶々ともつかない口をはさんでくる。 沙織は、二人の青銅聖闘士に偉そうに頷き返した。 「サービス精神だって旺盛よ。ゼムリャフランツァヨシファ諸島のルドルフ島はユーラシア大陸最北端の島で、北極点から1000キロくらいしか離れていないところにある無人島なの。瞬が一緒なら、氷河もそんなところで野宿なんて馬鹿なことはしないだろうと考えて、ペテルスブルクにホテルの予約も入れると言ってあげたのよ。もちろん、ダブル。こんなに気の利く女神が他にいて?」 「気が利きすぎって気もするけど、まあ、目的地が とんでもないだけの特殊イベント付きデートって感じだな」 「でしょう。なのに、氷河がそれを断ったのよ。どうしても一人で行くと言ってきかなかったの」 「アテナがわざわざデートのお膳立てしてくれたのにかよ? 瞬、おまえら、喧嘩でもしてたのか?」 アテナと仲間たちのやりとりを 脇で瞼を伏せ不安そうに聞いていた瞬が、星矢に問われて顔をあげる。 瞬は、すぐに首を横に振った。 「そんなことないよ。僕たち、いつも通り――」 「その先は言わなくていい」 質問しておいて、答えを聞くのを拒否するというのは、極めて礼を失した態度である。 だが、星矢がそんな失礼に及んだのは、彼が瞬を侮っているからではない。 星矢は、発問直後に自分の質問が愚問であることに気付き、素直に軌道修正をかけただけだった。 我儘と言っていいほど、物にしても人にしても周囲のことを意に介さない氷河が、惚れた弱みで 瞬に対してだけは どこまでも 瞬は瞬で、性格的に人と争うことができない人間である。 そんな二人の間には、よほどのことがない限り、喧嘩などという行為は成立し得ないのだ。 「で、日本を発って半日以上が過ぎたのに、まだ氷河から到着の連絡がなくて……。まあ、連絡がないと言っても、プルコヴォ空港に着いたら必ず連絡を入れるようにと言っておいたのに、到着時刻を2時間過ぎても一報がこないというだけで、氷河のことだから、単に連絡を入れるのを忘れているだけなのかもしれないのだけど……」 それは大いにあり得ることだと、その場にいた者全員が(含む瞬)認め、頷く。 沙織は、そんな聖闘士たちを見回し、苦笑した。 「とりあえず、氷河がゼムリャフランツァヨシファ諸島のルドルフ島に偵察に行っているということだけは伝えておくわ。瞬の携帯電話に連絡を入れる時には時差を考えるでしょうけど、そうでない時には、どんな時刻に連絡が入るかわからない。面倒がらずに出てやって」 彼女が彼女の聖闘士たちの溜まり場になっている城戸邸ラウンジにやってきたのは、本来は その指示を伝えるためだったらしい。 事情は既に氷河によって説明済みと思い込んでいた沙織は、その指示を伝えてから、今回の氷河の任務の背景説明の必要性に気付いたようだった。 「強大な力を持つ神がバックについて何かを画策している――というようなことではないから、大事にはならないと思うけど……。心配は無用よ。ちょっと勘違いしたオカルティストの宗教家が聖域を侵略して、自分の名を売ろうとしているようなの。普通なら無視するところなのだけど、その勘違いオカルティスト、へたに財力があったものだから、その無人島に化学兵器を作る工場を建ててしまったのよ。そこに科学者を集め、かなり危ない兵器の研究製造をさせているようなの」 「オカルティストがマッドサイエンティストを集めて悪巧み? オカルトと科学って、世の中で いちばん相容れないもののような気がするけど」 「どちらもマッドだから」 「ああ、類友ってやつか」 実にわかりやすい説明である。 それは、星矢には、“ゼムリャフランツァヨシファ諸島のルドルフ島”などという舌を噛みそうな名前の島が存在することの100倍もわかりやすく、認めやすい事実だった。 わからないこと、合点のいかないことがなければ、たとえどんな強敵が目の前に立ちはだかっていても、星矢の表情は晴れやかでいるのが常である。 が、星矢の表情が晴れやかになっていくのに反比例して、瞬の表情が曇っていく。 瞬の顔は、今ではすっかり青ざめていた。 「瞬。そんな心配することはないのよ。マッドでもサドでも、敵は人間。神ではないのだから」 「あ……いえ、そうじゃなくて……あの、沙織さんには言いにくいことなんですが、携帯電話が……」 「あら、やっぱり そろそろスマホに変えた方がいい?」 「いえ、そうでもなくて……実は、氷河の携帯電話、僕の部屋にあるんです」 「へっ」 畏れ多くもギリシャ世界最高の知略を誇る知恵の女神アテナが、しゃっくりのように珍妙な声を喉の奥から洩らす。 瞬が こわごわ上目使いに彼の女神の顔を覗き込むと、畏れ多くもギリシャ世界最高の知略を誇る知恵の女神アテナの笑顔は、実に見事に引きつりまくっていた。 「それは、せっかく超高性能GPS機能とソーラー充電機能搭載の携帯電話を与えていても、白鳥座の聖闘士に関しては何の役にも立たないということかしら?」 「すみません……。氷河は、あれ、持ち歩くのが嫌いで――」 携帯電話をいじっているより、瞬の身体をいじっていることの方が1億倍も好きな男である。 氷河が その手のモバイル機器を喜んで持ち歩いているとは、沙織も思ってはいなかった。 だが、マッドな者たちが移住する前は無人だった島に単身で渡るのである。 いざという時の連絡を――たとえばSOSの知らせを――氷河はどうやって外部に伝えるつもりなのか。 北極海に流された通信文入りのガラス瓶は、100億年が経っても日本沿岸もしくはギリシャ沿岸に到達することはない。 地学的に、それは無理なことだった。 「マッドとはいえ 普通の人間が相手なのだから大丈夫とは思うけど、あなたたち、明日、ルドルフ島に向かってくれるかしら」 マッドな人間は普通の人間の範疇に含まれるものなのか。 普通ではないからマッドなのではないか。 そんな突っ込みが許される雰囲気ではない。 頭痛をこらえるポーズをとるアテナに、彼女の聖闘士たちは、ひたすら無言で、繰り返し頷くことしかできなかった。 |