「氷河は 本当に僕たちのこと信じてないの? 僕たちでは 氷河の力になれないと思ってるの? だから、あんなふうに自分一人で戦おうとするの?」
石の壁に囲まれたアテナ神殿の一室で、瞬に静かな声で問われた氷河は、こんなに優しく 真綿で首を絞められるように瞬に問われるくらいなら、星矢に100万回 罵倒されている方が 余程 心安くしていられると、今 この場にいない星矢たちを恨んでしまったのである。

しかし、そんなふうに氷河を問い質しながら、瞬は瞬で、この事態に思い悩み苦しんでいたのだ。
氷河は、彼がこんな無謀な戦い方を続ける理由を、決して仲間たちに語ろうとしない。
ということは、彼の無謀の原因は彼の仲間たちの上にあるというになる。
もしかしたら、それは自分のせいなのではないか。
自分のために、氷河は その命を危険の中に投じるようなことを続けているのではないか――。
瞬は、そう考えるようになっていたのだ。

瞬の問いかけに対する氷河の答えは、ひどく素っ気ないものだった。
そして、瞬には思いがけないものだった。
「そんなことがあるか。おまえ等は俺よりずっと強い」
そう、氷河は答えてきたのだ。
「そんなことは……ないと思うけど……」
「事実だ」
「まさか、だから、その……焦っているとか?」
「違う」
「じゃあ、なぜ?」
淡々と答えてくる氷河の声にも表情にも、気負いのようなものは感じられない。
自分の力を過信しているからこそ、氷河は あんな無謀ができるのだと考えていた瞬には、氷河の声、氷河の答え、すべてが意想外のものだった。

「氷河、本当のこと言って。僕たちは仲間でしょう? もし、氷河がこれからもこんな無茶を続けるつもりでいるのなら、僕たちが仲間でいることには意味がなくなってしまう。僕は氷河の力になれないの……」
なぜ氷河はその訳を教えてくれないのか。
このまま仲間たちに何も知らせずに、今のように無茶な戦い方を続けたら、氷河は いずれはその命を落とすことになる。
氷河はそうなることを――自滅することを――望んでいるのか。
だとしたら、これほど悲しく つらいことはない。

それでなくても涙の膜で覆われていた瞬の瞳から、ついに涙が一粒 零れ落ちる。
瞬に泣かれることを恐れてはいただろうが、覚悟してもいたのだろう。
瞬の涙が大理石の床に落ちるのを見た氷河は、何も言わずに瞬の肩を抱き、そうして瞬を部屋の窓際に置かれた石のベンチに移動させ、そこに腰を下ろさせた。
隣りに据わってくれるだろうという瞬の期待を裏切って、氷河は瞬の前に立ったまま。
瞬の肩を抱いていた その腕も、すぐに 瞬から離れていってしまったが。

「泣くな。おまえを泣かせるために、こんなことをしたんじゃない」
「氷河は僕を泣かせるようなことしかしない」
氷河の素っ気ない仕打ちが、瞬にそんな恨みごとを呟かせる。
瞬の小さな呟きが、氷河には なぜかひどく衝撃的なものだったらしく、彼は 瞬の前で口をつぐんでしまった。
しばらく間を置いてから、低い声で、
「……そうだな」
と、呻くように言う。
それから彼は、覚悟を決めたように ゆっくりと口を開いた。

「おまえと初めて寝た時――」
「えっ」
氷河は急に何を言い出したのかと驚き、ほとんど反射的に、瞬は その顔を上げ、氷河の顔を覗き込んでしまったのである。
そんな瞬を見詰め、見下ろし、氷河が抑揚のない声で続ける。
「おまえが あまりに泣くから、俺は戸惑った」
「……」
「俺は そんなにひどいことをしたのかと。あれは合意の上でのことのはずだったし、俺は俺なりに――あれでも、優しくしたつもりだったんだ。おまえはアテナの聖闘士で、いくら細くても 身体は鍛えてあるはずだったし、こういう言い方は何だが、身体を痛めつけられることにも慣れている。俺は、本当に、泣かれるほど ひどいことをしたつもりはなかったんだ」

「氷河は……優しかったよ」
それは事実だと思うのに、なぜか瞬の声は消え入るように小さくなってしまったのである。
氷河は、力のない弁解のような瞬の その言葉を聞き流した。
「俺は、その……信じられないほど いい思いをさせてもらった。だが、俺がおまえに無理を強いているのは事実だし、なのに、俺だけが天国の気分を味わうのは不公平だろう。俺は おまえが好きだから、ただそれだけの理由でおまえを抱いた。おまえが あんなに痛がるとは思っていなかった。だから、不安になって、俺はおまえに訊いたんだ。俺を受け入れるのは、そんなに つらかったのかと。おまえ、何と答えたか憶えているか」

「そんな……ベッドでのことなんて……半分以上 正気じゃないし、思い出すのは恥ずかしいし――」
瞬は憶えていなかった。
自分が何と答えたのか。
それ以前に、氷河にそんなことを問われたことさえ。
瞬が その時のことで憶えているのは ただ、『これで自分は救われる』と、素晴らしく幸福な思いで思ったことだけ。
そして、これほど心を安んじさせることができるのなら、これから毎日、この命が終わる時まで、自分は氷河に抱きしめられていたいと 強く願ったことだけだった。

「おまえは、痛いほど気持ちがいいと言ったんだ。痛ければ痛いほど気持ちがいいと」
「え……」
自分は本当に そんなことを言ったのか。
氷河は、嘘をついているようにも、恋人をからかっているようにも見えない。
瞬は、自分の頬に血が集まり、火照っているのを自覚した。
「そして、自分は人を傷付けてばかりいるから、そんなふうになってしまったのかもしれないと言った」
「あ……の……」
その時 氷河に問われたこと、自分が何と答えたか――を、瞬は本当に憶えていなかった。
あの夜は、時間が、まるで夢の中で過ごす時間のように流れていき、すべてが曖昧で ぼんやりしていた。
だが、瞬は、その夜以降のことは――その夜以降のことを、少しずつ思い出し始めたのである。

氷河はそれから何度も同じようなことを訊いてきた。
『そんなに痛いのか』
『つらいのなら、俺のために無理をすることはないんだぞ』
そんな氷河に、自分は 似たような答えを繰り返していたように思う。
『僕、ちょっと変なの。痛くされれば痛くされるほど気持ちいい』
『僕、氷河と抱き合うの、すごく好き。氷河がいなかったら、僕は狂ってしまっていたかもしれない』

すべて、ベッドの中でのことである。
しかも、氷河は、瞬の心と身体がまだ 落ち着きを取り戻していない時にばかり、そんなことを尋ねてきた。
まるで、正気に戻ると 嘘をつかれると思っているかのように、氷河は、瞬が交合の余韻から冷めきっていない時を狙って、そんなことを尋ねてくるのだ。
そして、瞬は、彼の思惑通り、快楽の余韻に妨げられて嘘を作ることもできないまま、問われたことに正直に答えてしまう――答えさせられる――。

「俺は、おまえは贖罪のために俺に抱かれているのだろうと思った。おまえが傷付け倒した敵、その痛みや苦しみを、おまえは自分の心身に受けたがっているんだと。敵と戦わずに済むようになれば、おまえはきっと、もっと本当に幸せになれる。おまえが本当に望んでいる幸せとは、そういうものなんだろうと。だが、おまえがアテナの聖闘士でいる限り、おまえは おまえが本当に望む幸せを手に入れることはできない。俺に心と身体を痛めつけられることで得られる、紛いものの幸福で我慢するしかない」
「それは……」
それは 決して事実ではなかったが、完全に氷河の誤解というわけでもなかった。
だから、瞬は、答えに窮してしまったのである。
告げるべき言葉を見い出せず、結局 顔を伏せてしまった瞬の姿を、氷河は その瞳に映しとっていた。

「俺は、おまえが戦わずに済むようにしたいと思った。敵と戦い、敵を傷付けることで、おまえ自身が傷付かずに済むようにしたいと」
「氷河……」
「そうするには、俺が強くなればいい。俺がおまえの分の敵も倒してしまえるくらい強く。そうすれば、おまえは傷付かずに済む。聖域に向かう時も、アスガルドでも、海界でも、冥界でも、いつも俺はそう思っていたんだ。なのに、気持ちばかりが先走って、空回りをして、俺はいつもおまえに助けられることになって、かえっておまえの傷を深くした。俺は――」
「氷河は……僕のために 一人で戦いを終わらせようとしたの……?」

つまり、そういうことだったのだ。
そういうことだったと知らされて、瞬は呆然としてしまったのである。
いったい氷河は何を焦っているのか。
仲間の力を頼むに足りないと思っているのか。
彼の無茶を心配し、その身を案じている星矢たちの気持ちが、氷河にはわからないのか――。
そんなことばかりを考えて、その真意を語ってくれない氷河を、瞬は 悲しく恨めしくさえ思っていた。
だというのに、氷河は、傷付き泣くことしかできない愚かで弱い恋人のために、それこそ 命がけの“無茶”を続けてくれていたのだ――。






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