その日以降、氷河は もちろん、自らの目の前にのびている ただ一筋の道を邁進し続けた。
そして、その日以降も、瞬は、氷河の執拗なアプローチを やわらかく退け、逃げ続けてくれたのである。

「今日こそ返事をくれ。もちろん、いい返事以外の返事は 返事とは言わんぞ」
『瞬は白鳥座の聖闘士を好きでいる』という、星矢と紫龍の お墨付きをもらってから、瞬に対する氷河のアプローチは以前より かなり強気なものになっていた。
瞬は白鳥座の聖闘士を好きでいる。
だから その事実を認める返事しか受け付けないという強硬姿勢で迫ってくる氷河に、瞬が ついに音を上げたのは、星矢のピーナッツ転倒事故から1ヶ月ほどが経った頃。
もっとも、音を上げたといっても、瞬は 氷河の気持ちを受け入れる決意をしたのではない。
これ以上氷河に徒労に終わる努力をさせ、無意味な時間を費やさせないために、瞬は、なぜ自分が白鳥座の聖闘士の好意を受け入れることができないのか、その理由を氷河に打ち明ける覚悟を決めた――ということらしかった。
瞬は、本当は、その理由を、できれば一生、氷河に隠し通したいと願っていたようだったが。

「だから……錯覚なんだよ、それは」
瞬の告白は、いつものやりとりから始まった。
これまで瞬が幾度も氷河に訴えてきた訴えから。
そして、氷河は、これまで彼が そうしてきたように、同じ反問を瞬に返したのである。
「錯覚とは、何がだ」
「これまでも何度も言ったでしょう。氷河が僕を好きだと思っているのは、錯覚なの。ううん。誤解って言った方が正しいのかもしれない」
「俺は、自分が誰を好きでいるのかくらい、ちゃんとわかっている。誤解も錯覚も起こしようがない」

城戸邸の庭は、すっかり春めいていた。
庭に2本だけある桜の木は、早く花を咲かせたいと言わんばかりに蕾を色づかせ膨らませ、門から玄関に続く車道の脇にある花壇では、コデマリが無数の白く小さな花をつけ、その枝を重たげに たわませている。
その低木の根元に、氷河はなぜか我知らずダンゴムシの姿を探していたのである。
仮にも人間の自分には、ダンゴムシ以上の知能が備わっている。
自分は、自分の好きな相手が誰なのかもわからぬように右へ左へと ふらつく虫とは違うのだと、少しく苛立ちながら。

「そういう意味じゃなくて……。氷河は、じゃあ、どうして僕を好きだと思うの。どうして僕なんかを好きになってくれたの」
「なぜ そんなことを訊くんだ。おまえは優しいし、強いし、可愛いし、綺麗だし――嫌いになることの方が難しいだろう」
「僕は優しくないし、強くもないし、可愛くも綺麗でもないよ」
「おまえが自分をどう思っているかは、俺の気持ちに関係がない。俺には、おまえが優しくて、強くて、可愛くて、綺麗に見えるんだ」
「……じゃあ、どうして、氷河は僕のこと、優しいと思うようになったの。強いと思うようになったの」

本当に、瞬はなぜ そんなことを訊いてくるのか。
古代ギリシャの詭弁家ソフィストたちのように、くだらぬ質問を繰り返して、瞬に恋する男を間違った結論に導こうとでもいうのだろうか。
そうして、自分を好きだと告げる男の心を試そうとしているのか。
そんなことを疑いながら――同時に、瞬は そんなことをする人間ではないと信じつつ――氷河は、用心深く言葉を選び、問われたことに答えたのである。
「おまえはいつもそうだろう。いつも優しくて、強い。だが、まあ、決定的になったのは、天秤宮でのことがあったからだろうな。おまえは、命をかけて俺を助けてくれた」
「……それが誤解だったら?」
「なに?」
「僕は、ただの嘘つきだよ」

力の全く感じられない小さな声で そう呟き、瞬が悲しげに唇を噛む。
天秤宮で、瞬が その小宇宙を極限まで燃やし、その命を危険にさらしながら、自らの愚かさと弱さのせいで死にかけた仲間の命を救おうとしたことが、“誤解”とは。
実際に瞬に身体と心の命を蘇らせてもらった当人である氷河には、瞬が何を言っているのか、全く理解できなかった。

「僕……忘れてたんだ。ずっと。忘れてたから、僕には氷河の好意に応える権利があると思ってた」
「それは、おまえが俺を好きでいてくれたということか」
それこそが氷河のいちばん知りたいことで、氷河が唯一受け入れることのできる答えだった。
瞬は、しかし、そう問うた氷河に首肯してはくれなかった。
アンドロメダ座の聖闘士は白鳥座の聖闘士を好きでいてくれるのか。
その質問に答える代わりに、瞬は突然、既に終わった戦いのことを語り始めた。

「冥界で……一時的にとはいえ、ハーデスの魂を自分の身体の中に受け入れた時、僕は思い出してしまったの。ハーデスの魂は、彼自身の記憶を伴って僕の中に入ってきたから」
「ハーデスの記憶――とは……」
「天秤宮で……僕の力は足りなかったの。僕の力では、氷河を蘇らせることはできなかった。死なないでって思いながら、叫ぶように思いながら、でも 僕は諦めかけてた。その時ハーデスが来たんだよ」
「……」
氷河にとっては、彼の心を決定的に瞬に結びつけた宿命の時。
死にかけていた白鳥座の聖闘士の心と身体を蘇らせた、優しく幸福な奇跡。
だが、その時を語る瞬の瞳は 今、ただただ悲しげで、そして ひどく つらそうだった。






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