恋の成就って、どういうことをいうんだと思う?
何をもって その恋は成就したと言えるようになるんだろう。
ねえ、あなたはどう思う?
ふふ。どうして急に そんなことを訊いてくるんだって顔をしてるね。
そんなこと、以前は僕も考えたことがなかったよ。
それが僕の大切な人の運命を決することだと言われた時、僕は初めて真剣に考えた。

いくら考えても わからなくて、僕はアテナに訊いてみたの。
アテナは知恵の女神だからね。
恋をしたことはなくても、恋がどんなものなのかということは知っているだろうと思って。
アテナは、『人それぞれで違う』と言ったよ。
何をもって恋が成就したと考えるかは、人の価値観によって違うんだって。

好きだと告げ、同じ答えをもらった時がそうだと考える人がいる。
肉体的に結ばれた時がそうだと感じる人もいる。
異性同士なら、たとえば結婚の誓いを交わした時。
婚姻が法的に認められた時と考える人だっているかもしれないって。
恋する気持ちに終わりはないから、恋し合う二人が死ぬ時まで、その恋が成就したのかどうかを“決めない”人もいるかもしれないって。

答えが恋した人の数だけあるなら、他人の場合・・を考えたって無意味だ。
自分の答えは自分の中にしかないことになる。
だから僕は、自分で自分の場合を考え始めたんだ。
僕にとって、恋の成就とはいったいどういうものなんだろう。
僕は、どう考えるんだろう。
そして、僕が恋した人はどう考えるんだろうって。

昨日、話したでしょう。
僕がアテナの聖闘士で、アテナと地上の平和と安寧を守るために戦っていたってこと。
僕の兄さんとの戦いと和解、偽の教皇が支配する聖域から次々にやってくる白銀聖闘士の刺客を倒したこと、そして、アテナを擁して聖域に乗り込んでいったこと。
途中で『続く』にされて いらいらしたって?
ごめんなさい。
でも、そんなに怒った顔しないで。
あなたは昨日のことを憶えているんだから、『続く』の次の展開を楽しみに待つことだってできるでしょう。

確か、僕の仲間の氷河が、天秤宮で氷の棺に閉じ込められているのを見付けたところで『続く』にしたんだっけ?
冷たく冷え切っている氷河を僕の小宇宙で温めて、蘇らせようとしたところまでだね。
話してあげるから、機嫌を直して。
どうして そんなに短気なの。
時間は逃げないんだから、そんなに急がないで。
僕がそこで『続く』にしたのはね、そこまでは話しやすかったからだよ。
だって、そこまでは、みんなが知ってることだもの。
でも、その先は僕しか知らないことだから、人に話すのに ためらいがあったんだ。
話さなきゃならないことなんだって わかっていても。
じゃあ、昨日の『続く』の続きだよ。

天秤宮でね、僕が 冷たく凍りついたようになっている氷河を助けようとした時、どこからか声が聞こえてきたの。
誰の声だったのかは わからない。
頭に直接 響いてきたように感じたから、尋常の人間の声じゃなかったろうね。
アテナでもハーデスでもなく――本当に誰の声だったんだろう。
愛の神、時の神、運命の神、死の神、予言の神――もしかしたら、それらの神様を全部ひっくるめた、天上の神々の総意だったのかもしれない。
少し憤っているような声だった。
僕は傲慢にも人間としての分を超えようとしているところだったんだから、それは当然のことだったかもしれない。

その声がね、僕に言ったの。
僕は、人ひとりの命、人ひとりの運命を変えようとしているって。
それは僕の我儘で――許されないことだと。
人が生きることは権利ではなく、大いなる力によって生かされているだけ。
生きることも生まれることも、人には選ぶことはできない。
その代わり、人には死を選ぶ権利がある。
氷河はその権利を行使しただけだと。
氷河のその権利を、僕は阻害し覆そうとしている。
そんな我儘を どうしても通したいのなら代償を差し出せと、その声は言った。

なら僕の命を氷河の命と交換してと、僕は答えたんだ。
でも、それは駄目だと言われた。
生きていたい者の命を奪うことは“運命”にしか許されないことで、それは神の意思によってでも許されるべきことではないって。
でも、僕は自分の命以外には、せいぜい夢や希望しか持っていない無一物。
僕だけのものと言えるものは、命の他には、本当に何も持っていなかった。
僕がそう言ったら、その声は 急に――何だか 楽しそうな悲しそうな、それが何なのかはわからないけど、その声は急に感情のようなものを含み始めたんだ。
それまでは、抑揚のない、どこか無機質に聞こえる声をしていたんだけど。
「夢や希望――。そう、おまえは無限の可能性を持っている」
その声は、そう言った。

そういうもの――夢とか希望とかいうものは、人間だけが持つものなんだって。
人間以外の動植物はもちろん、神にすら持つことのできない素晴らしいものなんだって。
僕は そんなふうに考えたことはなかったんだけど、そんな素晴らしいものを僕が持っているなら、それをあげると僕は言ったの。
そんなにも素晴らしいものなら、氷河の命の代償にすることもできるだろうと思ったから。
なのに その声は――僕みたいに ちっぽけな人間には及びもしない大きな力を持っているんだろう その声の主は、人間の夢や希望は大きすぎて、『やる』と言われても、誰にも そのすべてを受けとめることはできない――って答えてきた。

僕は絶望的な気分になったよ。
なんて言ったらいいんだろう。
何10億円もするようなダイヤの指輪を持っているのに、その指輪では100円のキャンディを買うことはできないって言われたみたいな気持ちになった。

僕が途方にくれていたら、その声は、まるで ふざけた冗談のようなことを言い出したんだ。
人ひとりの希望全部を受け入れられるほど大きな器はどこにもないが、そのごく一部だけを受け入れることは可能だと。
つまり、大粒のダイヤを砕いて、そのかけらでならキャンディを買うこともできるっていう理屈。
筋は通っているけど、僕はつい笑ってしまいそうになった。
そんな場合じゃなかったんだけどね。
氷河の身体はどんどん冷たくなっていて、その小宇宙も 今にも消えてしまいそうなくらい弱くなっていたから。

その声は僕に提案してきた。
「この先、おまえが誰かに恋をしたとする。その恋の成就を諦めるというのはどうだ?」
って。
それがあんまり思いがけない提案だったから、僕は虚を衝かれたような気分になった。
自分が何を言われたのか、すぐには理解できなかったよ。
「恋の成就を諦める?」
「そう、おまえはおまえの恋の成就を諦める。その代わりに、キグナスの命を救わせてやろう。だが、おまえがもし自分の恋の成就を望み、実際に成就してしまったら、その時、今度こそ本当にキグナスは死ぬ。どうだ。それでも構わないか」

誰なのかわからない――正体のわからない声に そう言われた時、僕は、恋なんて大した犠牲じゃないと思ったんだ。
聖闘士は、いつも死と隣り合わせの戦いをしている。
いつ死ぬかわからない。
たとえ誰かに恋をしたとしても、その人を不幸にしないために その恋を諦めるのが、聖闘士としては当然のことだと思ったんだ。
もともと望んでいなかったものを諦めることで、氷河の命を取り戻すことができるのなら、僕にとって こんな有利な契約はない。
僕は二つ返事で、その提案を受け入れた。
氷河の命と引き換えに、恋の成就を諦める。
恋っていうものが自分の意思の力で制御できるものじゃないらしいことは、僕だって知っていたけど、正体不明の声は、僕に『恋をするな』とは言っていない。
『成就させるな』と言っているだけ。
それなら意思の力でどうにかなる。
僕は そう思ったんだ。


そうして氷河は生き返った。
生き返ってよかったと、死なずにいてよかったと、氷河は僕に言ってくれたよ。
僕は嬉しかった。
僕の選択は間違いじゃなかったんだと思った。

それに――生き返った氷河は、僕にとても優しくしてくれたから。
僕は、氷河を蘇らせるために 命をかけたわけでも何でもなく、僕にとって価値のないものを諦めただけだったから、氷河が僕に向けてくる感謝が、僕には かえって申し訳ないように思えたよ。
もちろん、そんなことは氷河には言わずにいたけど。
たとえ僕自身には何の価値のないものでも、僕に何かを捨てさせたことに氷河が負い目を感じるようなことがあったらいやだもの。

そう、氷河は優しかった。
氷河があんまり僕に優しいから、僕はくすぐったくて仕様がなかった。
あの頃が、僕はいちばん幸せだった。
聖域の人たちに、僕たちの信じたアテナがアテナだったことを認めてもらうことができて、仲間たちの笑顔は明るくて――この先 どんな試練が待ち構えていようと、アテナと仲間たちがいれば必ず乗り越えられるって信じてた頃。
氷河は優しくて、僕は恋も知らず、だから どんな不安もなかった。
僕は あの不思議な声の主に 希望の一部を奪われたことになっていたけど、一人の人間の希望の全部は たとえ神の力をもってしても受けとめきれないほど大きいってものだっていうのは本当のことなんだって思った。
僕の中には希望や夢がたくさんあった。
僕は、自分の希望の一部を失ったことなんて、意識することさえなかったんだ。

でも。
あれは、アスガルドの戦いが始まる前、十二宮の戦いで負った傷がほとんど癒えた頃。
星矢や紫龍に、氷河が僕を好きでいるってことを教えられて――明るい笑顔で教えられて、僕は背筋が凍りついた。
僕が氷河と一緒にいることを幸せだって感じる気持ちが何なのかってことに 気付かされて。

僕は――僕は氷河に恋をしてしまっていた。
氷河の命に比べたら 針の先ほどの価値もないと思っていた恋。
それは とんでもなく強くて大きくて、意思の力で抑え込むことができるようなものじゃなかった。
恋というものが生む力の激しさ強さに、僕は慄然としたよ。

僕は、氷河を死なせないために、自分の恋を諦めなくちゃならない。
僕は、氷河を死なせないために、氷河を受け入れることができない。
恋の成就って どういうことをいうのか、アテナに尋ねたのもあの頃。
それは人によって違うと言われて、僕は背筋が――ううん、全身が凍りついたよ。
心まで強張った。

だって、僕は氷河が好きなんだよ。
たとえば、氷河に直接『好きだ』と言われた その瞬間に、僕の恋は成就したと僕が感じたら、僕はそのまま氷河を死なせてしまうことになるかもしれないんだ。
そんなことになったら、僕は氷河に何て言って謝ればいいの。
ううん、それは謝って済むことじゃない。
僕にはもちろん、仲間にとっても、聖域にとっても、この世界にとっても、氷河は必要な存在なんだ。
なにより、氷河は今は『生きたい』と思ってくれている。
生きることを望んでいる。
そんな氷河を死なせるわけにはいかない。
氷河の命が失われることがあってはいけないんだ、何があっても。

だから、僕は避けたんだ。
氷河のことを さりげなく、それとなく。
でも、そうするほどに氷河を好きだって思う気持ちは強まっていって、僕はどうすればいいのかわからなくなった。
叶うなら、あの声の主にもう一度会って、契約の条件を別の何かと変えてもらいたかった。
恋の成就以外の何か――世俗的な成功、人が羨むような名誉を得ること、何でもいい。
何でもいいから、心が関与しない何かに。

でも、僕は あの声の主が誰なのかを知らなかったし、知っていたとしても――あの声の主にもう一度会えたとしても、あの声の主が僕の願いを聞き届けてくれるとは限らない。
おそらく無理だろう。
あの声の主は、こうなることを見越して、氷河の命に匹敵する価値のあるものを――僕の希望の一部を――僕から奪っていったんだから。
いずれにしても、一度結ばれた契約を反故にしたら、氷河の命が失われる。
それだけは避けなければならない。
僕は、氷河を極力避けた。
二人の心が通い合うことがないように、これ以上 僕が氷河を好きにならないように、これ以上 氷河が僕を好きになることがないように。
そして、そんな状態の中で、僕は懸命にアテナの聖闘士としての務めを果たし続けたんだ。
敵と戦っている時の方が、むしろ僕の心は穏かだったよ、
敵との戦いに必死になってる時なら、僕の恋が成就することはないって安心していられたから。






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