瞬の身体に幾重にも絡みついていた鎖が消えると同時に、瞬の意思と記憶は、永遠の呪縛から解放された。 「あ……」 解放された瞬が立っている場所は、孤独な糸杉の大樹のように建っている城の閉鎖された部屋ではなく、寒々しい薄闇で満ちた神殿の中央。 そこにも孤独の空気が充満している。 だが、そこには氷河がいた。 彼の姿を直接 自分の目に映した途端、瞬は自分の身体のすべての血が勢いよく逆巻き流れ出す感覚に支配されたのである。 冷たく冷え切っていた身体と心が熱を帯びる。 瞬の身体は再び生き始めたようだった。 それは、自分の身体が死の時に向かって前進を始めたということ。 そうであることは わかっていたのだが、瞬は、自分の身体が生き始めたことを『恐い』と感じることはなかったのである。 「瞬! おまえか!」 瞬が その目に直接 氷河の姿を映しているように、氷河の青い瞳の中にも瞬がいた。 鏡越しに見ていた時には 苦渋に満ち漆黒にも感じられた氷河の瞳が、今は明るい青色に輝いている。 その瞳に出会った瞬は もう、生きることを――それは死の時に近付いていくことでもある――恐れる気持ちを持つことはできなかったのだ。 「瞬、おまえだな? 元に戻ったんだな? よかった!」 「氷河」 生きて熱を帯びている氷河の腕と胸が、瞬を抱きしめてくる。 彼の温かさに触れることで、瞬は自分の身体が冷たくなり生きることをやめた時のことを思い出した。 このジュデッカでハーデスに出会った その時、圧倒的な力を持つハーデスの意思が瞬に襲いかかり、瞬の身体の意思を捻じ伏せてしまったのだ。 身体の意思を封じられることで、瞬は その記憶までがぼやけ、薄らいでしまった。 「姿は確かにおまえなのに、いくら呼んでも、おまえの目には俺の姿が見えていないようで、俺は――」 「氷河……」 氷河を 世界でいちばん不幸な人間にしていたのが自分だったことを氷河に知らされ、瞬は悲しくなった。 にもかかわらず 氷河が自分を抱きしめてくれることが、瞬をますます切ない気持ちにさせる。 「ハーデスが……永遠の命をくれるって――。死にたくなかったら、自分の目で直接 世界を見るなって ハーデスに言われた僕は、死ぬことが恐くて、目を閉じてしまっていたの。ごめんなさい……」 「永遠の命……?」 「うん……。でも、ずっと自分の目を閉じていなきゃならないのなら、そんなのもらっても何にもならないってわかった。だから、僕、ここに――氷河のところに戻ってきたの」 「永遠の命……。なるほど。神に選ばれるというのは そういうことでもあるわけか」 そう 低く呟いて、氷河が瞬を抱きしめる腕に更に力を込める。 そうして彼は、僅かに ためらいの混じった声で、瞬に尋ねてきた。 「永遠の命を約束されたのに、おまえは それを捨てて、ここに戻ってきたのか? それで よかったのか?」 氷河は、腕や胸だけでなく、声まで温かい。 多くの人間が望んでやまないものを手にしていたというのに、それを仲間のために捨てた瞬の心を、彼は気遣っているようだった。 だが、瞬は、今では、命の本当の意味と価値が何であるのかを知っていたのである。 それは、自分が生きるためだけに持っていても何の意味も価値も有しないもの。 それは、自分と自分以外の誰かのためにあるものなのだ。 誰かを幸福にすることで、自分自身も幸福になるために。 「永遠なんて……そんなの、一人では耐えられないよ。氷河が一緒でなくちゃ」 一瞬の逡巡もなく、瞬は氷河に答えた。 その答えを聞いた氷河が、瞬の髪に唇を押し当ててくる。 「百年後に、俺の許に戻ってきたことを後悔することになるかもしれないぞ」 氷河は、彼の恋人の答えを知っているくせに、そんなことを訊いている。 瞬は、彼が知っている答えを、彼に告げた。 「僕は後悔なんかしない」 後悔はしない。 後悔など しようがない。 今 こうして氷河の姿をじかに自分の目に映し、彼の温もりに触れていることが、これほど嬉しいのだ。 瞬は、自分が自分の決断を どうすれば後悔できるのかすら わからなかった。 あの城の塔の部屋には 永遠の命はあったかもしれないが、それ以外のものは何もなかった。 喜びも優しさも温もりも――人が生きていくために必要なものは何ひとつ。 だというのに、あの城には永遠の命だけがあったのである。 あの城は、もしかしたらハーデスの心そのものだったのかもしれない。 瞬が囚われていた あの城。 孤独な糸杉の大樹のように、たった一人で建っている漆黒の巨大で寂しい城。 そんなところに たった一人でいて、人間が本当に生きていられるはずがない。 おそらく、二百数十年前にハーデスに選ばれ あの城に囚われた誰かも、自分の大切な人、愛する人のために、自分の目で世界を見ることを選んだのだ。 そして、愛する人のために生き、すべての人間に与えられた死という運命を受け入れ、その運命に従って死んでいった。 彼は(彼女は?)、きっと それで幸せだったのだと、今の瞬には確信できた。 「僕、寂しい お城の塔の上の部屋に閉じ込められていたんだ。氷河がいなくて……一人で寂しかった……」 「そうか……。だが、もう――」 「もう寂しくないよ」 じかに自分の目で見る世界の素晴らしさ。 自分の手で じかに触れ、確かめることのできる世界の幸福な温かさ。 冥界のジュデッカにいてさえ、真に生きていることが これほど嬉しいのだ。 光あふれる世界で、氷河の姿を見、その温もりに包まれたなら、自分はどれほどの幸福感を味わうことができるのだろう。 その瞬間を待ちかねて、瞬は、氷河の胸に もう一度、もっと強く 頬を押し当てようとしたのである。 が、そこに邪魔が入った。 星矢と紫龍――瞬の大切な仲間たちが、自分たちの許に戻ってきた仲間に、安堵と希望の混じった眼差しを向けていた。 「おまえら、いちゃつくのは そこまでだ。続きは、ハーデスの野望をぶっ潰してから ゆっくりやれ」 「グレイテスト・エクリップスのせいで、地上は凍りつき始めている。悠長にいちゃついている余裕はないぞ」 「うん」 恋人同士の喜びの再会の場面に水を差された氷河は 少し不満そうな顔になったが、瞬は微笑で彼の不満を遮ったのである。 時間は限られているのだ。 今は急がなければならない。 地上を“死”という永遠の命で覆い尽くそうとしているハーデスの野望を打ち砕き、人類の命と未来を、命を懸けて守る。 それは、氷河と仲間たちの命と未来を守ることであり、同時に自分の幸福を守ることでもある。 命とは そういうふうに使うものなのだ。 そうして、瞬は、永遠の命を無為に費やす孤独の城の虜囚から アテナの聖闘士に戻り、仲間たちと共に、再び その命を燃やし始めたのだった。 限りのある命。 その果てに、必ず死の時が待ち受けている命。 だからこそ、瞬は、自分が今 だからこそ、瞬は、自分が今 生きている世界を守りたかったのである。 そこは 瞬を幸福にしてくれる大切な人たちが生きている場所だったから。 Fin.
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