S子爵家とH公爵家の対立を憂慮している旨のメッセージと共に、氷河が瞬を自邸に招きたいという希望をS子爵家に申し入れたのは、王宮でのリュートの演奏会が開催された日の2日後のことだった。
S子爵家の者たちの中には、その招待を受けることに反対する者もいるだろう。
逆に、H公爵家を抱き込めば、E国宮廷内に高い地位を得るというS子爵家の宿願を叶えられると考え、招待に応じるよう勧める者もいるかもしれない。
S子爵家はどう出るか、そして瞬はどういう決断を下すのか。
その答えが出される日を心待ちにしながら数日。
氷河が瞬を招待した その日、H公爵家にやってきたのは、断りの使者ではなく、瞬本人だった。

栗毛の馬に乗り、瞬は単騎でH公爵邸の門前に登場した。
馬車に乗らず、従者の一人も伴っていないところを見ると、もしかしたら瞬はS子爵家の者たち全員の反対に会い、独断で敵地に乗り込んできたのかもしれない。
とはいえ、瞬が野心満々でH公爵家にやってきたのでないことは、氷河には すぐにわかったのである。
瞬はただ単に、両家を憂慮するメッセージが添えられた正式な招待を、相応の理由もなく(?)断わることができなかっただけのようだった。

「招待を受けてもらうことは十中八九 無理だろうと思っていた。来てもらえて嬉しい」
2階の私室のバルコニーから馬上の瞬の姿を認めた氷河は、すぐに自分の足で直接 城のファサードまで下りていき、瞬を迎えに出た。
瞬の馬の手綱を厩番うまやばんに渡し、氷河自身は瞬の手を取る。
それは完全に女性に対する所作で、氷河に そういう扱いを受けることに、瞬は少々戸惑ったようだった。
それでも、そういう経験が全く初めてというわけでもないのか、微かに困惑の笑みを浮かべただけで、瞬は氷河の手を振り払うことはしなかったが。

「僕の家と あなたの家は戦争をしているわけではないのですから、ご招待いただいたら、有難く ご招待を受けます」
「そうか。おまえが そういう考えでいてくれて、とても嬉しい」
瞬への その言葉は、決して嘘ではなかった。
氷河は、どうしても信じさせなければならない重要な嘘をつく時以外は正直な男でいることを、常に心掛けていた――小さな嘘はつかないことにしていた。
そうでなければ、肝心の時に、人に嘘を信じてもらうことはできないのだ。

「しかし、少々心配ではあるな。本当に いいのか? S子爵家の者たちは、この訪問を快く思っていないのではないか?」
「快く思わない人たちには 思わせておけばいい。僕は悪いことをしているわけではありませんから」
最も大切な客人用の客間に瞬を案内し 椅子を勧めてから、氷河は、これも嘘ではなく本心から、瞬の身を案じたのである。
首を横に振り、瞬は やわらかい微笑を返してきた。
瞬はそう言うが、H公爵家の招待に応じた瞬への S子爵家の者たちの風当たりは強いはずだった。
現実に今日、瞬は供の一人も伴わず、仇敵の城にやってきた。
成人もしていない華奢な子供が、である。
家人に反対されて、瞬は こっそり一人で家を抜け出してきたのではないか――と疑うこともできる状況なのだ。

瞬は、兄に比べれば確かに控えめで、もしかしたら気弱でもあるのだろう。
だが、瞬には、その優しげな姿からは想像しにくいが、芯の強いところもあるらしい。
『それは正しいことではない』と説明され、その説明に納得がいかなかった時、自分が正しいと感じたことを貫こうとする――あるいは、自分で確かめようとする――意思と行動力が、瞬にはあるようだった。
氷河は、瞬の そういう性向を好ましいと感じたのである――もちろん、本心から。
それが宮廷向き、貿易・金融の場向きな美質だとは必ずしも思えなかったが、氷河個人が瞬個人に明確に好意を抱いたのは、紛う方なき事実だった。

『悪いことをしているわけではありませんから』
瞬は、自分の振舞いは悪いことではないと、心から信じているようだった。
『両家の対立をどうにかしたい』
氷河が瞬を自邸に招いた理由はそれで、瞬はS子爵家とH公爵家が“仲よく”なることを望んでいた。
大人たちと違って、比較的柔軟な考えを持つ両家の若者同士が 両家のあり方について話し合う場を持つことが悪事であるはずがない。
そう、瞬は信じているらしい。

そして、実際に二人は その問題について話し合い、その話し合いは、氷河にとっても なかなかに興味深いものだった。
主に、瞬の性格や価値観を知る上で。
それは 一朝一夕で答えの出る問題ではなく、ゆえに氷河は その日以降もしばしば瞬を自邸への招待を繰り返したのである。
瞬は、いつも快く その招待に応じてくれた。
氷河の言う『両家の対立をどうにかしたい』が『両家の対立を解消したい』ではないことに気付いた様子もなく。

人は“仲よく”していることが互いの益になり、それは家同士のことでも国家同士のことでも変わらない――というのが、瞬の信条のようだった。
歓談の場でも、基本的に瞬は大人しく控えめなのだが、争いや対立を厭う瞬の気持ちは非常に強く――だから普段は大人しいのだろう――その信条を守り実現するための行動に ためらいは見せない。
だからS子爵家の者たちがどう思おうと、面と向かって反対されようと、瞬は氷河の招きに応じる。
瞬の中で、自分の行動は全く正しいものと判断されているらしかった。
そして、瞬が“仲よく”したいと思っているのは、氷河だけでなく、母の違う兄、正妻の子より庶子の兄を偏愛する父、瞬との間に対立が生じても不自然ではない すべての人たち――であるようだった。

「庶子の兄が幅を利かせている家には いにくいんだろう。名門出の正妻を母に持ちながら、それは筋が通らないことだと、俺でも思うぞ」
と 氷河が尋ねた時には、
「そんなことはありません。兄はとても優しくて、僕の母にも気を遣ってくれています」
と、瞬は ためらいもなく答えてきた。
それは事実なのだろう。
既に実母のない一輝は、強力な後ろ盾を持つ名門出の正妻を敵にまわしても、何の益もないのだ。
一輝は、瞬と瞬の母が いつまでも控えめで大人しい者たちでいてくれることを望んでいるに違いない。
しかし、氷河が望むことは、一輝のそれとは真逆だった。

「俺も、H公爵家では、おまえの兄と同じ立場なんだ。母親の身分が低く、俺の母は 父とは正式に結婚ができなかった。父は、おまえの父のやり方を真似て 名家の令嬢を妻に迎えた。その後の 俺と俺の母の立場は、一輝より おまえとおまえの母のそれに似たものになったがな。俺の母は名門出の正妻に気を遣って、いつも息をひそめるようにして生きていたから。おまえの家とは違って、名門出の正妻に子ができなかったから、俺はH公爵家の次期当主として認められることになったんだ。それも、俺の母が病で死んでからのことだが」
「え……」
無論、氷河は嘘など言っていなかった。
それは宮廷内で知らぬ者のない周知のことで、嘘のつきようもない。

氷河の母は、H公爵家の小間使いとして雇われた平民の娘だった。
当主の座に就いたばかりだった現H公爵に見初められ、氷河を産んだ。
その後、H公爵家に嫁してきた名門出の正妻は、当初から夫の愛人と庶子を憎み、侮り、蔑み、母子をどこまでも使用人として扱った。
愛情深くはあったが控えめで争い事を嫌う母のために、氷河は実際 下男のような仕事をしていた時期さえあったのである。

正妻にいじめ殺されたも同然の形で母が死ぬと、氷河は正妻への反撃に出た。
子を成さぬ正妻と、H公爵家当主の血を引くただ一人の男子。
そのどちらの立場が上なのかを、H公爵家当主である父に 愛人の息子を次期当主として認めさせることで、氷河は 気位の高い正妻に明確に示してやったのである。
それ以降、氷河は、父の正妻をほぼ完全に無視し続けていた。

そして、身分の低い愛人の子をH公爵家次期当主として 父に認めさせる際、氷河は父に一つの条件を提示されたのである。
『この頃 台頭してきたS子爵家に対するH公爵家の優越を確立することができる男が、H公爵家の次期当主だ』と。
だから。
氷河は、己れの立場を守るため、不遇のうちに亡くなった母のため、何としてもE国宮廷におけるS子爵家の台頭を阻止しなければならなかったのだ。

真逆のようで同じ――S子爵家とH公爵家の母子のあり方は どこか似ていた。
瞬が、氷河自身というよりは氷河の母の境遇に同情したらしく、その瞳と眉を曇らせる。
母への哀れみなど欲していなかった氷河は、仇敵の家の者に 母への同情の言葉など言わせてなるかと、瞬を遮った。
「まあ、おまえの家と俺の家、事情はそれぞれ異なるだろうが、だからと言って対立しなければならないということはあるまい」
「ええ」
気遣わしげな光を宿しかけていた瞳を隠すように、瞬が頷く。
氷河は、畳み掛けるように、瞬に提案した。
「俺に、両家を仲良くさせる妙案が方法があるぞ」
「妙案?」
「ああ。おまえがS子爵家の当主になればいいんだ。H公爵家は、いずれ俺が後を継ぐ。そうすれば、今すぐは無理でも、俺たちの時代には両家の対立がなくなる――という寸法だ。おまえの家と俺の家の対立の元凶は、新興勢力の台頭に脅威を覚えた俺の父の、益のない危機感なんだからな」

ここはまだ嘘をつく場面ではない。
氷河は正直に、H公爵家の実情を瞬に語った。
瞬が一瞬 大きく瞳を見開き、すぐに ぎこちない笑みを浮かべる。
「S子爵家は兄が継ぐと決まっています」
「おまえは正妻の子だろう」
「父は兄贔屓なの。兄のお母様を愛していたから――今も愛しているから」
瞬の声は傷付いていた。
おそらくは、自分が口にしている言葉のせいで。
いかなる非もないというのに不遇を強いられている母を思えば、彼女の息子として瞬の傷心は当然のものだったろう。
氷河は、そこにこそ つけ込む隙を見い出して、更に言い募ったのである。
もちろん、真実のみを。

「俺がおまえに力を貸す。俺の父は今、俺の手腕を見極めるために、俺に摂政の権限を委譲しているんだ。宮廷での人事権もな。今の俺にはおまえに おまえの父や兄よりも高い地位を与える力がある」
「そ……そんなことはしなくていいです」
「とりあえず、侍従長次官の役職が空いている」
「じょ……冗談でしょう。侍従長次官って、最低でも30年は王宮で仕えた方に与えられる名誉職です。僕が就いていいような地位じゃありません!」
「そう。大変な名誉職だが、完全な閑職だ。言ってみれば、公式行事での飾り物にすぎない役職だ。実際に働く必要はない。おまえくらい美しければ、立派に務めが果たせる。国王も一も二もなく承認するだろう」

『もっとも、この国では、“国王”が最高の名誉職にして閑職だがな』と笑いながら言いかけて、氷河は その直前で何とか自制することができた。
本当は、『遊興にしか関心を示さない無能な男が“国王”という名誉職に就き、恥じ入る様子も見せていないのだから、10代半ばの善良な少年が侍従長次官の地位に就くことにどんな問題があるというのか』と言って、瞬を説得したかったのだが。

「侍従長次官は実権の伴わない名誉職だが、公式行事では王の側に控えることになる。国王夫妻、摂政の次席、王太子と侍従長と同列。おまえは、おまえの兄どころか父であるS子爵より上座に着くことになる。おまえの父や兄は、財力はあっても、無官の廷臣にすぎないからな」
「正式な摂政でない氷河より上座になります」
「俺は気にしない」
「僕が気にします!」
「意味のないことを気にするんだな。まあ、考えておいてくれ」

S子爵家の者が欲しているのは、もちろん 実権の伴わない名誉職などではないだろうが、だからといって、侍従長次官という役職は手に入れて損になる地位ではない。
そして、侍従長次官の地位に就くことは、ある意味では、S子爵家一族の頂点に立つことでもある。
その地位を手に入れることを、瞬が心底から嫌がっているように見えるのが、氷河には不思議でならなかった。






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