「僕、そんなつもりはなかったの。本当に、S子爵家とH公爵家が仲良くなれればいいと、それだけを考えて、僕は氷河の招待に応じた。でも、僕――僕が氷河と親しくなるにつれて、家中の雰囲気が変わっていくことに気付いたんだ。氷河と親しくしている僕を、みんなが不審の目で見始めていることに。僕は一石二鳥だと思った。父の家に居場所がなくなれば、僕は この家を出やすくなって、氷河とずっと一緒にいられるようになる。僕がいなくなれば、兄は家を継ぐための障害がなくなる――」 病人のように 寝台で客人の相手をするわけにはいかないと考えたのか、瞬は 身なりを整え、客間で氷河を迎えてくれた。 ただし、寝椅子の背に頼りなく上体を預けて。 新旧大陸随一の財力を誇るS子爵家の客間は、客人の度肝を抜くほど派手でも豪奢でもなかった。 王宮の白と金の壁に比べたら、むしろ地味すぎるほど地味。 H公爵邸のそれに比べても、かなり大人しいものだった。 しかし、そこにはI国文芸復興期の三大巨匠の作品が ひっそりと飾られていた。 さすがにレオナルドのものは 素描で、彩色の為されたものではなかったが、ラファエロのものは かなりの大判の聖母像、ミケランジェロのものは おそらく最晩年のピエタである。 その3点で、小さな国の一つや二つは買えてしまうだろう。 卑俗な成り上がりとは思えない財力の誇示の仕方。 平生の氷河なら、感嘆の声を洩らして感心するくらいのことはしていたかもしれなかった。 しかし、今 氷河の心は、それら至高の芸術品にも全く動かされることはなかった。 会わずにいた数日の間に 驚くほど やつれ、生気を欠いてもいたが、今 氷河の目の前には、巨匠たちの師である自然が作った最高傑作が 静かにたたずんでいたから。 月の光しかない夜の庭ではなく、陽光あふれる明るい部屋で恋人の瞳を見た瞬は、その中に隠しようもない思いがたたえられていることに気付いてくれたらしい。 泣きはらして赤味を帯びている目を隠すように伏目がちに、そして、まだ怯えと傷心を完全には払拭できていないように おずおずと、瞬は氷河に告白してきた。 氷河を騙すつもりなどなかったこと、氷河を騙していた時など ただの一瞬もなかったこと、ただ突然 瞬の上に降ってきた恋が あまりに瞬にとって都合がよすぎるものだっただけなのだということを。 それだけではなく、瞬は、彼の母親──彼の肉親のこれまでをも、氷河に語ってくれたた。 「母は静かだから、父と兄さん以外は誰も気付いていないけど――。兄さんのお母様が亡くなって 僕を産んだ直後に、僕の母は気が触れてしまったの。夫との間に子を成すことができて、やっと自分は夫に愛してもらえるようになったんだと、黙って待ち続けていた長い忍耐の時が 報われる時がやっときたんだと思いかけていた時に、それでも父が兄さんのお母様だけを愛していることを知らされて」 「なに……?」 『愛されている人こそが、常に幸福な勝利者だと思っていたのに』 『ううん。でも、やっぱり本当に幸福な人は、愛し愛された人だと思う』 愛しても愛されなかった悲しい女性を母に持つ、悲しい息子。 瞬が どういう気持ちで あんなことを言ったのか、氷河は今初めて知り、今になってやっと真に理解することになったのである。 「母は、僕が誰なのかもわからない。今では、母は、誰も愛さなくても、誰にも愛されなくても苦しまずに済む世界の住人になっている。でも、母は、父が自分にとって特別な人だということだけはわかるらしくて、年に数度 父が母の部屋を訪ねると 子供みたいに幸せそうな笑顔を見せるの」 「瞬……」 愛されず不幸な敗北者になってしまった瞬の母。 瞬は、氷河と氷河の母を幸福な人間にすることはできたのに、自分の母だけは幸福にすることができなかったのだ。 「父に顧みてもらえず、母親にも忘れられてしまった僕を、この家で本当に愛し守ってくれたのは兄さんだけだった。僕、兄さんと争うのだけは絶対に嫌だったの。でも、この家には、母への同情心から 僕を跡継ぎにと後押ししてくれる人たちがいて――彼等の気持ちは嬉しいけど、僕は兄さんと争わずに済むように、この家を出たいとずっと思ってた。でも、僕は何の力も持たない子供だったし、行くところもなかったから……。だけど、氷河に会って――僕は僕が行くところを見付けたと思った。氷河と一緒にいられたら、幸せになれると思った。なのに――」 なのに、瞬が愛した男は、瞬を利用しようとして逆に利用されたと うそぶき、被害者面をして瞬をなじり、瞬を責め、瞬の心と希望を否定したのだ。 「俺は……俺が、おまえに一輝と争えるだけの力を与えてS子爵家の分裂を図ることを目的に、おまえに近付いたのは事実だ。だが、おまえは俺の母を幸せにしてくれた。そして俺をも幸せにしてくれた。あの瞬間に、俺は自分の目的を忘れたんだ。……いや、完全に忘れはしなかった」 そんな企てはなかったと 瞬に信じさせることはできたのだが、氷河は正直に事実を瞬に告げた。 彼は正直になるしかなかったのである。 より大きな嘘を瞬に信じさせるためではなく、彼のいる場所が 恋人の前だったから。 「俺も一石二鳥だと思ったんだ。おまえという優しい恋人を手に入れて、おまえをS子爵家の当主にすれば、両家の対立は解消される。H公爵家の者には、おまえを俺の傀儡と思わせ、そうすることで H公爵家の中での俺の立場は磐石のものになる。俺は、身分の低い愛人の息子と侮られることもなくなる。俺は すべてを手に入れようとした――」 手に入れられると、氷河は愚かにも考えたのだ。 恋をして、その恋をどうしても実らせたいと願うなら、その人間は 恋以外のすべてを捨てなければならないという恋の掟を無視して。 「確かに俺は、おまえへの愛だけで動いたわけじゃない。身分の低い愛人の子と侮られることがいやで、その状況を打破することを目論んでいた。だが、今は、父や H公爵家の者たちに愛人の息子の力量を認めさせることより、おまえの愛を失いたくないという気持ちの方が強い。信じてくれ。俺は、おまえが一輝のために俺に近付いたという話を聞かされて、嫉妬で まともなことが考えられなくなってしまったんだ。俺はおまえの目の中にあるものを確かめようともしなかった。俺より一輝の方が大切だと おまえに言われてしまうことに耐えられそうになかったから、その前に 俺こそが おまえを利用しようとしていたんだと言ってしまうことで、自分の矜持を保とうとした」 「どんな目的があったとしても……嫌いな人と あんなことができるはずないないでしょう。氷河は どうして そんなふうに思うことができたの……」 「それは──」 自分の益のために好きでもない相手と“あんなこと”ができる人間は 世の中にはいくらでもいるのだ──という現実を 瞬に教えて何になるだろう。 かといって、今は、『“それが誰だろうと、瞬は 気に入らない男は 何も恐れることなく ぶちのめすことができる”という事情を知らずにいたせいで、おまえに“ぶちのめされない”自分の幸運に、俺は気付いていなかったんだ』と、本当のことを告白できる雰囲気ではない。 瞬は、恋人に その真心を疑われたことに深く傷付き、憔悴している。 この場に 全く そぐわない“ぶちのめす”なる単語を持ち出して、瞬に 場の雰囲気を読めない不粋な男と思われることを、氷河は避けたかった。 「俺は、おまえの兄への嫉妬のせいで まともな判断力を失ってしまっていた。瞬、俺は おまえが好きなんだ。おまえなしでは幸福になれない男を、これ以上 いじめないでくれ」 「いじめるなんて……」 恋をして、その恋をどうしても実らせたいと願うなら、その人間は 恋以外のすべてを捨てなければならない。 恋以外の野心も、プライドも。 氷河は、それらを捨てて、瞬に懇願した。 氷河に恋をし、その恋をどうしても実らせたいと願っていた瞬は、もちろん氷河の願いを聞き入れ、大人しく氷河に抱きしめられてくれたのである。 「もう氷河に抱きしめてもらえないのかもしれないと思って、僕、気が狂いそうだったの……」 恥ずかしそうに小さな声で、そう囁いて。 二人の心が通い合い、結ばれ、その恋が実るまでの紆余曲折に比べたら、H公爵家とS子爵家の間に友好関係を築くことは 容易すぎるほどに容易な作業だった。 なにしろ それは、父H公爵に摂政の権限を委譲されていた氷河の独断で進めることができたのだ。 瞬を無位無官の身に戻し、S子爵、一輝とS子爵家の重鎮数名を宮廷の財務、税務、商務の大臣職 及び 次官職に就ける。 自分の意見というものを持たない国王も、この時ばかりは『S子爵家には世話になってばかりいたから』と、氷河の決定を喜び、その任命書を認証してくれた。 無能な財政担当大臣たちに苛立っていたS子爵家の者たちは、腕の振るいどころを与えられ、半月もしないうちに目に見える成果をあげ始めた。 実際の数字として、あまりにも目覚ましいS子爵家登用の成果を示されると、氷河の父も息子の決定に異議を唱えることができなかったのである。 もともと畑が違う両家、対立し合う必要などなかったのだ。 得意分野の異なる有力他家に対する優越より、共存共栄。 半世紀に渡るH公爵家とS子爵家の対立と反目は、太陽の前に引き出された氷塊のように一瞬で消え去り、現在 両家にあるのは、最愛の弟を奪われた一輝と、瞬は 恋人より兄を慕っているのではないかという疑いを払拭しきれずにいる氷河の、あまり華麗とは言い難い反目だけである。 とはいえ、E国の二大名家の次代の若き当主たちの間に緊張感や対抗意識があることは、むしろ両家とE国にとって良い方向に作用しており、そのため 二人の仲介に立とうとする者はS子爵家にもH公爵家にも ただの一人もいなかったが。 最近、氷河は、政治向きに権謀術数を巡らすことより、瞬を喜ばせる方法を考えている時間の方が楽しくて、少々困っている。 Fin.
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