幸せしか知らなかった頃の記憶を取り戻すことは、悲しく つらいことです。
けれど 瞬王子の周囲には、瞬王子を愛してくれた両親は既に失われていましたが、兄である一輝国王や 瞬王子の幸せを願っている人が大勢いました。
彼等に支えられて、瞬王子は 少しずつ立ち直っていったのです。
その顔には 少しずつ笑みも戻ってきました。
その様子を見守りながら、氷河は なぜか自分の胸の中に無力感に似た切なさや 遣る瀬なさが募っていくのを感じていたのです。

幸福だった時の記憶を取り戻し、その幸福が失われてしまったことを理解した瞬王子が、涙を流しながら呼び続けたのは、瞬王子の父であり、母であり、兄でした。
瞬王子が 自分の幸福を作っている人たちの中心にいると感じていたのは、瞬王子のために すべてを捧げることを決意した平民の従僕などではなかったのです。
それは当然のこと、自然なことです。
氷河にとっても、自分を生かすために その命を捨てた母は特別な人でしたし、瞬王子のご両親には 氷河も敬愛の情を抱いていました。
瞬王子の兄君には、対抗意識もあって、素直な好意を抱いているとは言い難かったのですけれども。

氷河はただちょっとだけ切なかったのです。
瞬王子が以前のように明るい笑顔を取り戻していくにつれ、その切なさは苦しみに変わっていきました。
そして、その変化の原因が 恋という感情にあることに気付いた氷河は、瞬王子の側を離れることを決意したのです。
あれほど幸せになってほしいと願っていた瞬王子。
その瞬王子の幸せそうな姿が、今は なぜか氷河の胸を苦しめ傷付けるばかり。
ですから、氷河は、10年間 聖闘士になるための修行をした聖域に戻ることにしたのです。
瞬王子の幸福に寄与できないのなら、自分が瞬王子の側にいても無意味――むしろ無力感に苛まれるだけのように思われましたから。

その顔を奇妙に歪めて、一輝国王は、王宮を出たいという氷河の申し出に許可を与えました。
そして、一瞬、氷河の同輩の聖闘士である“一輝”に戻って、何事かを言いかけ、けれど何も言わずに そのまま唇を引き結びました。


氷河が瞬王子のいる王宮を出て聖域に向かおうとしたのは その翌日で、けれど氷河は王宮の門を出ようとしたところで、瞬王子に通せんぼをされてしまったのです。
地上で最も大切な人を、まさか馬で蹴散らすわけにもいかず、氷河はそこで立ち往生することになってしまいました。
「氷河、どこに行くの」
馬上の氷河を見上げ、瞬王子が尋ねてきます。
「聖域に」
もうエティオピア王国に戻るつもりのなかった氷河は、下馬せずに馬上から瞬王子に答えました。
その答えに、瞬王子が 僅かに苦しげに眉を歪ませます。
王子の前で下馬しない従僕を、瞬王子は意地悪な いじめっ子を責めるような目で見詰めてきました。
すぐに瞬王子は その瞼を伏せてしまいましたけれど。

「氷河は……僕を取り戻すためだけに聖闘士になったんだって、兄さんが言ってたよ。兄さんは両親や 理不尽な神への憤りや 王室の体面や――いろんなことのために聖闘士になったけど、氷河は馬鹿みたいに僕のためだけに聖闘士になる修行に耐え続けたんだって」
『馬鹿みたいに』とは、口の悪い一輝らしい言い草です。
氷河とは どうしても そりの合わない瞬の兄が、その言葉をエティオピア王国の国王としてではなく、氷河の同輩の ただの一輝として瞬王子に告げてくれたのだということが、氷河にはすぐにわかりました。
瞬王子に『愛している』と告げることのできない平民の従僕のために、“一輝”は 彼の弟に 馬鹿みたいな男の話をしてくれたのだと。
おそらくは、別れの はなむけとして。

「そうか」
『ありがとう』と一輝に感謝するわけにもいかず、氷河は短く 意味のない言葉だけを瞬王子に返しました。
氷河に向けられる瞬王子の眼差しが、少し焦れったそうなものに変わっていきます。
「兄さんは、僕に愛することを思い出させた人に ご褒美をあげるって言ったんでしょう? 氷河、どうして ご褒美を求めないの」
「欲しいものは手に入れた」
瞬王子が つらい思いをしないこと。瞬王子が幸せになること――幸せになれると信じられる状況を取り戻すこと。
それが氷河の願いで、その願いは確かに叶いました。
他に欲しいものがないといえば、それは嘘になりますが、それを望むことは許されないことを、氷河は知っていました。
そんな氷河に、瞬王子が突然 思いがけないことを尋ねてきます。

「氷河は僕が嫌い?」
瞬王子が問うてきたことが あまりにひどい内容だったので、氷河は一瞬 正気を失ってしまったのです。
訊くに事欠いて、それは あまりにひどすぎる質問です。
「そんなことがあるか!」
ほとんど責めるように、氷河に大声で怒鳴りつけられた瞬王子は、けれど その言葉を聞くと、急に その瞳と顔を明るく嬉しそうに輝かせ始めました。
「なら、兄さんに頼んで、僕をご褒美にもらって。僕、氷河と一緒にいたいの」
「瞬……それができるなら――」
それができるなら、こんなふうに、まるで逃げるように聖域に行くことなど考えないと、氷河はいっそ瞬王子に言ってしまいたかったのです。
そう言うことは、氷河にはできませんでしたけれど。
分別に止められたからではなく、瞬王子の優しい告白に止められてしまったせいで。

「僕、苦しかったの。人を愛せと、みんなが僕に求める。愛が大切なものだっていうことは、僕にも どこかでわかってた。だから、愛さなきゃならない人を愛せないことが苦しかった。みんなの言葉や視線に押し潰されそうなくらい、苦しくて つらかった。でも、氷河だけは 僕に愛することを無理強いしなかった」
「それは おまえがつらいと、俺もつらいからで――」
「僕、氷河とずっと一緒にいたいって思ったの。そして、子供の頃、同じ願いを願ったことを思い出したんだ。氷河は知らないでしょう。氷河はいつも僕に優しくしてくれたから、僕はずっと氷河と一緒にいて、氷河が幸せになるためになら どんなことでもしようって決めてたの。氷河、いつまでも僕と一緒にいて」
「瞬、何を言っているんだ。そんなことができるはずが……」
「できないって、氷河は思うの? どうして?」
「……」

冥界に10年。
神であるハーデス以外 接するものとてない冥界に10年。
人間が大人になるための常識を身につけるためにある時期を 人間のいない冥界で過ごした瞬王子は、もしかしたら 人間の世界には 身分というものがあることや、『いつまでも ずっと一緒に』という気持ちは 普通は異性に対して抱くものなのだという常識が 欠如しているのかもしれませんでした。

それが 自分にとって、瞬王子にとって、幸運なことなのか、あるいは途轍もない不運なのか。
それは氷河には わかりませんでしたけれど――馬上で天を仰ぎ、長く深い溜め息を一つ洩らしてから、氷河は覚悟を決めて馬の背から降りたのです。
瞬王子の願いを叶えるために。
人は、愛する人の優しい言葉には逆らえないようにできているのです。






Fin.






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