「あの時――シベリアから帰ってきたばかりだった氷河に好きだって言われて――僕、その時は びっくりして氷河から逃げたんだ。氷河が嫌いだからじゃないよ。ほんとにびっくりしただけ。僕は氷河が好きだったし、氷河がシベリアに帰ってばかりなのが寂しかったし、それが僕とのことを考えるためだったって言ってもらえて、すごく嬉しかった」 「おまえは、嬉しいと逃げるのかよ」 鋭い突っ込みだが、それは入れなくていい突っ込みである。 無用の突っ込みを入れたせいで、星矢は紫龍の肘に脇腹を ど突かれることになった。 半ば顔を伏せていた瞬は、幸い 二人のやり取りには気付かずに 自身の告白を続けてくれたが。 「だ……だって、氷河はそんなに真剣に僕とのことを考えてくれてたのに、好きだって言ってもらえた途端に、まるで そう言ってもらえるのを待ち構えてたみたいに、僕も大好きだよって即答したら、僕、氷河に軽率な子だって思われるかもしれないじゃない」 「いや、俺は別に――」 『むしろ即答してほしかった』と言うのが、氷河の本音だったろう。 しかし、瞬には瞬の都合と立場というものがあったらしい。 「だから、せめて一晩 真剣に考えたふうを装って、次の日に 僕も氷河のことを好きだって言うつもりだったんだ。なのに、よりにもよってその次の日、明け方から敵襲があった――」 「襲撃? あ、ああ、あの滅茶苦茶 弱い奴等な。数は多かったけど、全員シロートだったぞ。小宇宙のコの字もなくて、アテナとアテナの聖闘士たちを倒そうとすることの意味もわかってないみたいな」 「うむ。確か、その前夜、遅くまで仕事をしていて深夜になってから就寝した沙織さんは、睡眠不足は美容の大敵だと言って、敵襲を察知していながら ベッドから起き上がることもしなかったと聞いている。あれは正しく烏合の衆で、おまえの恋と仕事の両立を妨げる力もなさそうな敵だった」 星矢と紫龍は、4ヶ月前、そんな事件があったことを すっかり忘れ果てていた。 その程度の敵だったのだ。 あの100人弱の烏合の衆が、瞬の恋路を妨害できるほど強大な力を有する者たちだったとは、彼等には どうしても思うことができなかった。 「それは、でも、全員を捕えてから――戦いが終わってから わかったことでしょう。最初はわからなかった。それでなくても、あの日、僕は 氷河に好きだって言ってもらえたのが嬉しくて、胸がどきどきして全然 眠れてなくて、睡眠不足で まともな判断力がなくなってたんだから」 「興奮して眠れなくなるほど嬉しかったのかよ? 氷河の告白なんかが」 入れなくていい突っ込みを、星矢がまた入れる。 紫龍は、今度は肘鉄ではなく言葉で、星矢をたしなめることになった。 「星矢、『なんか』というのは失礼だろう」 「けどさー。神とか お釈迦様とかに告白されたとかいうのなら ともかく、たかが氷河の告白に――」 その“たかが氷河の告白”が、神や釈尊の告白 星矢の素朴かつ正直なコメントに、瞬は悪鬼のごとくに眉を吊り上げた。 「そうだよ! 眠れなくなるくらい嬉しかったよ! 星矢は、僕が喜んじゃいけないっていうのっ !? 」 「え? あ、いや、俺、そこまでは言ってねーって……」 たった今まで瞳を涙で潤ませ 細い肩を震わせていた瞬の凄まじい剣幕に、星矢は驚き震え上がったのである。 そして、瞬の剣幕に驚いたのは星矢だけではなかった。 紫龍も、もちろん氷河も、その場にいた瞬以外のすべてのアテナの聖闘士が、瞬の怒声にあっけにとられていたのである。 氷河がその瞳を見開いてアンドロメダ座の聖闘士を まじまじと見詰めていることに気付いた瞬が、その瞼を気弱げに伏せる。 もっとも、その時には 星矢は既に、瞬の“気弱”のポーズなど信じる気にはなれなくなっていたが。 「僕、あの時、氷河と離れた場所で戦ってたの。でも、彼等が あんまり弱いから、強い敵が氷河の方に行ってるんじゃないかって心配になって……それで、つい手加減を忘れちゃったんだ。早く 僕の分の敵を倒して 氷河のところに行きたくて――僕、僕より はるかに弱い人たちに手加減なしで攻撃して――あやうく死なせちゃうところだった」 「あ、そーいや、確かに――」 言われてみれば、あの日の瞬の張り切りようは尋常のものではなく、倒した敵の数も 仲間内では最も多かった。 なにしろシロートの集団である。 彼等はシロートの判断で、極めて安易に、アテナの聖闘士の中で いちばん弱そうに見える相手を自分の攻撃のターゲットに選び、瞬に群がっていったのだ。 それが、本気になったら神も嘆きの壁も一撃で粉砕しかねない最凶最悪の聖闘士だということに気付きもせずに。 そして、瞬は、自分に群がる敵たちを、ことごとく、かなりあっさりと倒してのけた。 『人を傷付けるのは嫌いだ』をキャッチフレーズにしているアンドロメダ座の聖闘士とは思えないほど、ためらいなく、クールに。 だが、まさか それが氷河の告白のせいだったとは。 初めて知らされた その事実に、星矢は腹の中で感嘆してしまったのである。 “氷河の告白なんか”が、極めて強大な力を持つ技である事実に。 「けど、戦場で手加減なんかされたら、敵も立場ないだろ」 「立場とか、そういう問題じゃないよ。僕の方が何10倍も強いのに手加減なしで戦うなんて、そんなの暴力だよ。弱い者いじめとおんなじ!」 「でも、相手は、一応、地上の平和を乱そうとしている奴等で、どっちにしても倒すしかないんだし」 「倒すにしたって、できるだけ痛くないように倒してあげたいじゃない。なのに、僕、半死半生にしちゃったんだ。一般人レベルの人を50人近くも……」 「けど、それはさ」 「それに、氷河に対して失礼でしょう。戦いの場で、氷河は大丈夫なのかって心配してるなんて」 「いや、俺は別に――」 『瞬に心配してもらえるなら、それが何でも嬉しい』というのが氷河の本音だった。 しかし、瞬には瞬の都合と礼儀というものがあったらしい。 「でも、戦っている最中、氷河が心配で心配で、僕、自分の敵も まともに見ていられなかった。そんなのって、まるで僕が氷河の力を信じていないみたいで……侮辱してるみたいで……」 「はっきり言ってやれよ。氷河が弱っちいから心配なんだって」 入れなくていい3度目の星矢の突っ込み。 しかし、その場に氷河がいることを意識して緊張していた瞬は、今度は鬼にならなかった。 「ち……違うよ! ただ、氷河は、ちょっと迂闊なところがあるし、情に訴えられると冷静でいられないところがあるでしょう。氷河は――あの……とっても優しいから」 ものは言いようである。 瞬は、要するに、氷河は隙だらけで劣弱な聖闘士だと言っているのだ。 それを『氷河はとっても優しいから』に超訳してしまう瞬に、星矢はむしろ感心した。 そう超訳してしまう瞬の“優しさ”こそが、氷河に対する最大の侮辱なのではないかと 星矢が言及せず、心配もしなかったのは、氷河がその程度の侮辱に傷付くような繊細で やわな神経を持った男ではないことを、彼がよく知っていたからだったろう。 それが肉親の情であれ、師弟の情であれ――おそらくは恋情であっても――氷河は、情愛の問題では自分の弱さや欠点をすら武器に代えてしまう したたかさを備えた男だった。 要するに、氷河は なりふり構わない男なのである。 欲しい愛情、欲しい人を手に入れるためになら。 案の定、氷河は、瞬に“弱っちい聖闘士”の烙印を押されたというのに、まるで気にした様子を見せず、ここを先途と 押せ押せで瞬に迫り始めた。 「俺に対して失礼だから、おまえはアフリカに行っていたのか?」 氷河の声は、見事に“優しく”甘いものになっていた。 2週間前、仲間たちに失恋報告をしてきた時の陰気で殺伐とした響きは、今の氷河の声には 微塵も感じられない。 今の氷河は、声のみならず表情までが“優し”すぎて、まるで幼稚園児をあやす保育士か小児科医のようだった。 「ひょ……氷河のせいじゃないよ。僕が――聖闘士として ちゃんと戦えなくなるような気がして、不安で恐くて……。相手の力を正しく見極めずに戦うなんても危険なことだし――」 本気に数段の“段階”がある瞬らしいセリフである。 いつも小宇宙全開、全力で戦う星矢には、瞬のそれは、全く理解できない懸念だった。 「俺を嫌いだからではなく?」 「僕が氷河を嫌いだなんて、そんなことあるはずないでしょう……」 そう言って、瞬が ぽっと頬を染め、恥ずかしそうに瞼を伏せる。 その瞬間に、大きな安堵と激しい歓喜が 氷河の体内に満ちたこと、満ちると同時に 体内に収まっていられなくなり外にまで あふれ出したこと――が、星矢と紫龍にはわかった。 それはそうだろう。 一生一度の恋と心に決めた恋が実る――かもしれないのだ。 否、ここまできたら、ほぼ120パーセントの確率で、氷河の恋は成就するに違いなかった。 「俺は、おまえに心配させずに済むように強くなる。そうしたら、おまえは俺の側にいてくれるか」 「僕、氷河が そんなに強くなくても、氷河の側にいたいよ」 「なら、俺は お預けを食わずに済むな。それは よかった」 そう言って、氷河が嬉しそうに微笑む。 「氷河……」 本気に数段階のレベルがあり、シロートどころか黄金聖闘士にでも強さの判断が難しく、本気の最高レベルに達すれば神すらも粉砕する無敵のアンドロメダ座の聖闘士。 その瞬ですら、こうなると もはや氷河の敵ではなかった。 戦いの場では、たとえ自分が死にかけていても面倒くさがって本気にならない氷河は、愛情獲得の場においては、いつも全身全霊全力をもって、本気真剣捨て身で戦う男なのだ。 そういうふざけた聖闘士である氷河を 星矢たちが許せてしまうのは、氷河が本気になることが一生に1、2度あればいい方だろうと思うからだった。 氷河が、ところ構わず、誰彼構わず本気になるわけではないことを知っているからだった。 「あの……ほんとにいいの? 僕が氷河の側にいても」 氷河の術中に落ちた瞬が、いかにも心許なげな目をして氷河に尋ねていく。 「おまえが側にいてくれないと、俺が寂しい」 「あ……」 氷河の“優しい”答えを聞いた瞬の瞳が涙で潤み始める。 次の瞬間、瞬は氷河の胸の中に飛び込み、しがみつき、日本語を話す謎のインコと同じ言葉を 氷河の胸の中で繰り返していた。 もちろん、『H』の発音つきで、 「氷河、大好き」 「氷河、ごめんなさい」 と。 そんな二人の脇で、 「多分、これで一件落着、めでたしめでたしなんだろうけどさ。氷河の奴、本気で強くなろうなんて、絶対思ってないよな」 「それはそうだろう。隙だらけの弱い聖闘士でいた方が、瞬に心配してもらえるんだから」 「俺たち、これから、そんな ふざけた聖闘士と一緒に命がけの戦いを戦っていかなきゃなんねーのか? 命が幾つあっても足りねーじゃん」 「予備の命を2つ3つ用意しておいた方がよさそうだ」 「うへえ〜」 とか何とか、星矢と紫龍がアテナの聖闘士の未来を案じていたのだが、二人きりの世界に没入している氷河と瞬には、そんなことは もちろん腹の底から どうでもいいことだった。 恋と仕事の両立は、恋をしている当人たちよりも、その恋人たちの周囲の人間にとって 最も困難な課題なのである。 Fin.
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