緊張した沈黙の中で演じられた無言劇の後は、軽快な小喜劇。
おかげで、瞬は、カタリン夫人が運んできた緊張の沈黙の感触を すみやかに忘れることができたのだった。
代わりに瞬の意識上に浮かんできた事柄は、なぜ自分がハンガリーの片田舎にまで はるばる遠征してきたのかということ。
この地で起きている吸血鬼騒動の真相を突きとめ、騒動へのハーデスの関与の有無を確かめるという、アテナの聖闘士たちに課せられた任務のことだった。

「でも、手や首だけでも、普通に歳をとっているのなら、彼女は吸血鬼ではないということだね」
アテナが ハンガリーでの吸血鬼騒ぎにハーデスが関与しているのではないかと考えた そもそものきっかけは、カタリン夫人の居城がハーデスにつながるものだったからである。
カタリン夫人が吸血鬼ではなく普通の人間だというのなら、吸血鬼騒動の真相の解明はともかくも、この騒ぎにハーデスの意思が関わっていないことだけは証明されることになるだろう。
吸血鬼などというものは、ハーデスという神の力が関わりでもしなければ、この地上に存在し得ないものである。
そして、カタリン夫人は吸血鬼ではない。
その事実は、この土地では 普通の人間が普通に生きているだけなのだという現実の証左たり得るものだった。
となれば、この付近で起きている吸血鬼騒動は、何らかの誤解や間違いによって生じた根拠のない風聞なのに違いない。
そう考えて、瞬は、肩の荷を下ろしたような気分になったのである。
が、瞬のその判断は早計だった。
それまで小喜劇を楽しみ、彼女自身も その劇の役者の一人だった小間使いが、ふいに喜劇の登場人物にふさわしくない暗い顔になる。
そうして彼女は、僅かに身体を前に折って 声をひそめ、彼女の客たちに、
「でも、出るって噂はあるんだよ」
と囁いてきた。

「出る?」
「ええ。村の娘たちが、もう7、8人、犠牲になってる」
「犠牲って……血を奪われて死んでるんですか」
「死んではいないんだけどね」
「死んでいない?」
吸血鬼の犠牲になって死んでいないということは、犠牲者たちもまた吸血鬼になってしまったということなのだろうか。
不安で眉を曇らせた瞬に、小間使いは痛ましげな顔を作って見せた。

「死んではいないんだけどね……。若い娘にあれは酷だよ。あれなら、死んだ方が ずっとましだったかもしれない」
「どういうことです」
状況がまるでわからない。
我知らず 首をかしげた瞬に、小間使いは エリザベート夫人の死から50年後に 彼女の領地で起きた事件の経緯を話してくれたのだった。

4、5年前から、チェイテ城付近の村々で、美しいと評判の若い娘たちが行方不明になるという事件が起きているのは、根拠のない風聞ではなく事実――と、彼女は断言した。
もっとも、最初にさらわれたのは、美しいことは美しいが、あまり身持ちのよくない娘だったため、それは事件として認識されなかったらしい。
どこかの男と逃げたのだろうと決めつけ、村人はもちろん家族でさえも、ろくに彼女を捜そうともしなかったらしい。
実際、彼女は生きて帰ってきた。
行方不明になってから半年後。
30も40も歳をとったような姿になって。

行方不明になった時、彼女は18歳だったという。
だが、村に帰ってきた時の彼女の姿は、50女、60女のそれ。
髪はほとんど白くなり、肌はかさかさに干からび、額には深い皺が刻まれていた。
彼女を産んだ実の母親さえ、最初は それが自分の娘だとはわからなかったらしい。
幼い頃の思い出話や家族だけが知っている秘密――そんなことを語られてやっと、娘の母親は 自分よりずっと歳をとっているように見える その老女を自分の娘と認めるしかなくなったのだそうだった。

その娘が帰ってきて数日経たないうちに、別の娘がさらわれた。
その娘が村の中では比較的裕福な家の一人娘で、身持ちの硬さで評判をとっていた娘だったこともあり、二度目の行方不明事件は 最初の事件の時とは異なり大騒ぎになった。
捜索も大々的に行なわれ、村の男たちが総出で山狩りもしたのだそうだった。
しかし、娘は見付からなかったのである。
娘の父親が もしやと思い、藁にもすがる思いで、最初にさらわれた娘(今は老婆)の許に 心当たりはないかと訊きに行くと、白髪の老婆は しゃがれた声で、『多分、帰ってくる』とだけ答えた。
実際、二度目に行方不明になった娘は 生きて帰ってきたのである。
半年後、50女の姿になって。
そんなことが、ほぼ半年ごとに、もう7、8件起きている――ということだった。

行方不明になった娘たちの共通点は、まず若く美しいこと。
行方不明になった時の年齢は、17、8歳。
にもかかわらず、半年後には30、40以上の年齢を重ねた老婆の姿になって戻ってきたこと。
彼女たちが素晴らしい宝石を幾つか持ち帰ったこと。
そして、彼女たちの誰もが、自分の身に何が起きたのかを決して語ろうとしないこと――。

「娘たちは、吸血鬼に若さを売ったんじゃないかって、専らの噂だよ。別の噂では、私等の世界とは時間の流れの速さが違う妖精の国に行って、妖精から土産をもらってきたんだってのもあるけど、そっちはあんまり信じられてないね。この土地に住んでいるのは、やっぱり妖精より吸血鬼だろうし」
若さを失った幾人もの娘たち。
40を過ぎても、20代半ばにしか見えないカタリン夫人。
小間使いの女性が何を考えているかは、瞬たちにも薄々 察せられた。
彼女は決して、彼女の村の領主の名を口にはしなかったが。

「吸血鬼はともかく、魔女の疑いをかけられないか。たった半年で 30も40も歳をとったなんて、尋常のことではないだろう」
氷河が小間使いに そう尋ねたのは、一時の熱狂は静まっていたが欧州の各地で未だに魔女狩りや魔女裁判が頻繁に行なわれているからだった。
この土地以外の場所では、吸血鬼より魔女の方が より一般的かつ大衆的な存在なのだ。
が、氷河に問われた小間使いは 首を横に振った。

「この辺りは魔女狩りがさほど盛んじゃないんだよ。少なくとも今のところは。魔女よりエリザベート夫人の方が恐いからね」
「なるほど。それはそうだろうな」
「それに、魔女の告発ってのは、詰まるところ、嫉妬や羨望が引き金になって起こるもんだろ。自分より恵まれている者を陥れようとして、人は人を魔女だと訴え出るんだよ。あとは、せいぜい、教会が まじないを操る女を排斥しようとするくらいのもんだ。若い美人だった時ならともかく、干からびた年寄りなんか、誰も羨ましがったりしない。いくら死ぬまで不自由しないほどの金だの宝石だのを手に入れたって、そもそもあと何年生きられるかわからないんだ。恋人がいた娘は皆、男に捨てられた。村のみんなは、吸血鬼の犠牲者たちを むしろ哀れんでるよ。特に女たちはね。若い娘たちは自分の凡百の容貌に感謝し、若くない女たちは 自分の若かった時代に感謝して、優越感に浸ってるんだ」

「優越感、ね」
おそらく教育というものを受けたことのない、ごく一般的な農村の女にしては、実に冷静で落ち着いた――むしろ、冷めた――見解である。
「この辺りの者たちは迷信深いものと思っていたが、意外に理性的だな」
氷河は、感心して呟いた。
その呟きに、無教養な(ばすの)女が、自嘲の気味のある口調で、
「迷信や吸血鬼を飯の種にしてるんだよ、私等は」
と答えてくる。
「全く恐がっていないわけじゃないけどね。今も一人、17になったばかりの娘が行方不明のままだし……」

そう言って、彼女は、氷河たちの着いている卓の脇にある窓の向こうに視線を投げた。
そこから、隣り村との境にある丘の頂に建っているチェイテ城が見える。
彼女は、この事件の元凶である吸血鬼が、その城の中にいると信じている――感じている――ようだった。






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