「目を開けて。ワインはおいしかっただろう?」
その夜――深夜、瞬はカタリン夫人の 粘りつくような声で目を覚ました。
以前の情熱が消えかけているにしても毎晩必ず瞬の部屋を訪れていた氷河が、初めて――ついに――その姿を 恋人の前に見せてくれなかった夜。
涙が瞬の目を閉じさせていたが、不安と悲しみが瞬を眠らせてくれず、その時まで 瞬は 自分は眠りに落ちていないのだと思っていた。
だが、寝台の枕許に立つカタリン夫人の姿を認め、瞬はその認識を改めることになったのである。
彼女が部屋の中に入ってきたことに これまで気付かずにいたのなら、自分は大きすぎる不安に疲れさせられ、知らぬ間に深く寝入ってしまっていたのだと。

目を開けるようにカタリン夫人に言われて、瞬は目を開けた。
カタリン夫人が 瞬の寝台に腰を下ろし 艶然と微笑みながら、その腕を瞬の方に伸ばし、あの冷たい指で瞬の唇をなぞってくる。
彼女は、そういう接触を瞬が嫌がるとは 全く考えていないようだった。
「本当に可愛い子だね。これほど美しい人間が普通の人間のように年老いていくなんて、私には神の考えていることが心底わからない。だが、安心おし。頼りにならない神に代わって、私がおまえを救ってあげるから。おまえは、その若さと美しさと清らかさを永遠に失うことはない。おまえは その美しさを私に捧げ、私の中で永遠に生き続けるのだ」
「あ……」

カタリン夫人の冷たい指が、蛇のような動きで、瞬の唇から首筋へ下り、更に首筋から胸許へ下りていこうとする 
このまま あと少しだけ我慢すれば、カタリン夫人は、彼女が今 相手にしている“美少女”の正体を知ることになり、彼女の仰天する様を見ることができるだろうと、瞬は少々 投げ遣りな気持ちで思った。
が、瞬は、そうなるまで カタリン夫人の蛇の身体のような手の感触に耐え切ることができなかったのである。
彼女の指から逃れ、瞬はカタリン夫人が腰を下ろしている側とは反対側に身体を滑らせて 寝台を出た。
その素早い動きに カタリン夫人は一瞬 虚を衝かれたような顔になった。
それから、瞬の目を見やり、忌々しげに舌打ちをする。

「ワインを飲まなかったね」
「僕、お酒は苦手なんです。あれは やっぱり特別なワインだったんですか」
瞬が問うたことに、カタリン夫人は答えを返してよこさなかった。
やはり、あのワインは特別製のワインだったらしい。
その事実が、瞬に希望を抱かせたのである。
氷河が もしカタリン夫人に篭絡させられたのだったのだとしても、それは特別製のワインのせいだったのだと思うことができる。
それが、瞬の希望だった。
そして、希望は人に力を与える。

「悩み ためらう時間を省いてやるために、ものを考えられなくワインを わざわざ運ばせてやったのに、人の親切がわからない子だね。いずれにしても、おまえは私のものになるしかないんだよ」
「そんなことになったら、僕が氷河に叱られちゃう。僕は氷河のものなんです」
そう答える自分の声が弾んでいることが、瞬の胸までを弾ませる。
氷河の気持ちが他の人に移っていないのなら、瞬は いくらでも心強くなることができた。

「詰まらぬ男のことなど忘れることだ。私のものになれば、おまえは豪奢な城の中で、綺麗な絹のドレスを着て、宝石に包まれ、どんな憂いに囚われることもなく生きていられるんだよ」
「ドレスなんて もらっても困ります」
「ふふ、何も身に着けていない方が美しいだろうことは私にもわかるが、遠慮することはないよ。ドレスは脱ぐために身に着けるのだと思えばいい」
「そんなことを言われても……僕は男ですから」
「よく、そんな奇天烈な嘘を思いつけること。嘘をつくなら、もっと本当らしい嘘をつくことだ。さあ、おまえの その美しさを私におよこし。そして、私の中で永遠に若く美しいまま――」
「よこせと言われても――それは手渡せるものではないでしょう」
「そうだね」

カタリン夫人は一人だった。
従者や兵を従えているわけではないし、あの巨人や魔女もここにはいない。
もちろん武器も持っていない。
そして、瞬は特別製のワインに酔わされてもいない。
にもかかわらず、彼女は、自分が自分の獲物より圧倒的優位に立っていると確信しているようだった。
ハンガリー随一の名家の名と身分、権力と財力。
それらが世界で最も強力な武器だと、おそらく彼女は信じ切っているのだ。

「若さは誰でも持っていた。けれど、美しさは――真の美しさは、誰にでも備わっているものではない。おまえの頬、髪、唇。ああ、その澄んだ瞳、清らかな表情。おまえは、私が初めて自分のものにしたいと思った美しさの持ち主だ。私が最も美しかった時より、更に美しい――はるかに美しい――」
瞬は、アテナの聖闘士である。
腕力、戦闘力でカタリン夫人に劣るはずがない。
もちろん、彼女の地位や身分など、アテナの聖闘士には どんな価値も意味もない。
いかなる脅威にもなり得ない。
だというのに、瞬はカタリン夫人に気圧けおされていた。
自信に満ちて自分に近付いてくるカタリン夫人が恐い。
実際、瞬は少しずつ後ずさり、壁際に追い詰められつつあった。
彼女の武器は もしかしたら、地位や身分ではなく、己れの力を絶対と信じる狂気なのではないかと、瞬は思ったのである。






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