数千年の昔から、あらゆる時代、あらゆる階級を超えて 歴代最強の呼び声も高い聖闘士集団の中の4人が持てる力を結集しても やめさせることができなかった氷河の土下座は、城戸邸の掃除のおばちゃんの『すいませんねー。掃除の邪魔ですから、ちょっと そこ どいてくれませんかー』の一言であっさり中断させられた。
しかし、もちろん それで問題が解決したわけではない。
むしろ、事態は、誰にも身動きがとれない膠着状態に陥ったといってよかった。

状況が再び動き出したのは、氷河の土下座事件から3日後。
杉上フィナンシャルグループ名誉会長令嬢の結婚式が翌日に迫った日の午後。
そして、
「氷河。あなたの あの“結婚は人生の墓場”攻撃はどうにかならないの。明日は幸代さんのお式だっていうのに、縁起が悪いったら。幸代さんの前途に暗雲が立ち込めているようで、いやだわ」
と、沙織がぼやいた直後。
「氷河、大事な話があるの」
瞬が思い詰めた表情で 氷河にそう言い、彼を城戸邸の庭に誘ったのがきっかけだった。
とはいえ、その時点ではまだ誰も、瞬のその一言が事態を急展開させるきっかけの一言になることに気付いている者はいなかったのであるけれども。

梅雨の季節の晴れ間。
昨日までの冷たい雨が嘘のように、その日の空は青く晴れ渡っていた。
もっとも、氷河と共に城戸邸の庭に出た瞬の瞳と瞼は、昨日までと同じように 切ない陰を帯びたままだったが。
晴れ渡った空が、人の心を明るいものにするとは限らない。
爽やかに晴れ渡った空の青さが 憂いに沈んだ心を更に深く沈ませることもある。

「大事な話というのは?」
翳りを帯びている瞬の表情とは対照的に、氷河の両の瞳は 今日の青空をそのまま切り取ってきたかのように明るく晴れやか。
その二つの小さな青空を一度 悲しげに見上げてから、瞬は すぐにまた その瞼を伏せることになった。
そして、しばしの沈黙のあと、意を決して、瞬は氷河に尋ねたのである。
氷河に向かって、まさか こんなことを尋ねる日がくるとは考えたこともなかった。
胸の奥で、呻くように そう思いながら。
「氷河は……もしかして、兄さんを好きなの?」
と。

「へ」
自分が何を言われたのか、氷河はすぐには わからなかったようだった。
「おまえは何を言い出したんだ?」
と反問してきた時にも、氷河は瞬の問いかけの意味を まだ正しく理解できてはいないような目で、瞬を見おろしていた。
が、今ばかりは瞬も、『意味がわからないなら、答えなくていいよ』と、引き下がるわけにはいかなかったのである。
その質問と答えには、兄一輝と、氷河と、そして 瞬自身の運命がかかっていた。

「隠さないで! ごまかさないで! 嘘も言わないで!」
もちろん、瞬は引き下がらなかった。
むしろ、氷河に尋ねる語調を一層 強いものにした。
「そうとでも考えないと、氷河があんなに兄さんにだけ結婚するなとか、女――女性の恋人を作るなとか言う理由がわからないの……!」
「あ? ああ、あれは、色々と事情があって……」
「女性の恋人を作るのは駄目だけど、男性の恋人なら作っても構わないっていうのは、兄さんの恋人が氷河なら問題はないっていう意味なんでしょう?」
「おい……瞬……」

事ここに至って、氷河はやっと、自分が仲間に何を問われているのかを理解してくれたらしい。
「お……おまえは、何を言っているんだ……?」
氷河は震える声で、瞬に再度 反問してきた。
アンドロメダ座の聖闘士が――否、一輝の弟が『何を言っているのか』、彼はわかっているはずなのに。
氷河は わかっているはずだと決めつけて、瞬は更に畳みかけていったのである。
「僕、それが悪いことだなんて言うつもりはないよ。『兄さんを取らないで』なんて、子供みたいな我儘を言うつもりもない。兄さんは僕の自慢の兄さんで、氷河が兄さんを好きになるのは当然のことだと思う」
「な……何が当然だと……?」

氷河が、声だけでなく、その肩までを小刻みに震わせ始める。
それが 図星を指された焦慮によるものなのか、部外者に 差し出口を叩かれたことへの怒りによるものなのか、あるいは恋する者の羞恥が生む震えなのか、瞬は確かめようとは思わなかった。
そのいずれであるのかを確かめるには、伏せている目を開け、瞼を上げ、氷河の顔を見上げなければならない。
そんなことをする勇気は、今の瞬には到底 持ち得ないものだった。
「僕は ただ……好きなら好きって、正々堂々と告白した方がいいと思うの。あんなふうに、他の人を排斥するようなことはせずに。でないと、兄さんも氷河の気持ちがわからないままなんじゃないかと思うんだ」

だが瞬は、それでも勇気を奮い起こし、俯かせている顔をあげるべきだったろう。
そうしさえすれば、瞬は、白鳥座の聖闘士が酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせて憤死寸前の状態に陥っていることが見て取れたはずだった。
だが、瞬には どうしても――どうしても、その勇気を奮い起こすことができなかったのである。
兄の幸福のため、氷河の幸福のため、自分が言わなければならないと決めた言葉を 最後まで言うことに、今の瞬は自らの力のすべてを注いでいたから。

「ちゃんと誠意をもって正面からまっすぐに告白すれば――兄さんは、ちょっと斜に構えてるところはあるけど、誠実な人には ちゃんと誠意を返す人なの。氷河が勇気を出して告白したら、兄さんは きっと氷河の気持ちに応えてくれるよ」
瞬が その瞳に涙を浮かべ、伏せていた その顔をやっと上げることができるようになったのは、自分が言うべき言葉を何とか最後まで言うことができたと、僅かな安堵を覚えた時。
最後まで よく言えたと、自分で自分を褒めようとした時だった。
もっとも、瞬の その必死の訴えに対する氷河の答えは、
「応えられて たまるかーっ !! 」
という、ほとんど悲鳴のような怒声――むしろ絶叫だったのだが。
「ひょ……氷河…… !? 」
その あまりの大声に驚いて、瞬の切ない涙が 一瞬で気化する。
瞬の瞼は、乾いた瞳を守るために、急いで幾度も瞬きをしなければならなくなった。

「ご……誤解だっ! 俺が好きなのは一輝じゃなく、おまえだ!」
「え……」
「どーして、この俺が、あんな暑苦しい男に……! 俺にだって、好みというものがある!」
「こ……好み……?」
「そうとも! 俺は そんな変態――いや、特殊な趣味の持ち主じゃない。俺は ごく普通の好みの持ち主なんだ。あんな、いつもどこかを ふらふらしてる怪しくて暑苦しくて むさくるしい男より、いつも俺の側にいてくれる可愛くて優しい子の方がいいに決まっている!」
「それは、どういう――」

それはどういう意味なのか。
いつも氷河の側にいる可愛くて優しい子とは誰のことなのか。
自分は何か ひどい思い違いをしていたのか――。
瞬は氷河に確かめたかったのである。
実際、氷河に確かめようとした。
だが、肝心の氷河が、瞬の思い違いが よほどショックだったのか、一人で慌てふためき、取り乱し――瞬の ごく控えめな声は彼の耳に届いていないようだった。

「そんな誤解をされるなんて……! おまえは俺と一輝がそういう仲になってもいいと、本気で思っているのかっ !? ……うっ」
言った途端、氷河が真っ青になって低く呻き、その手で自分の心臓をおさえる。
まるで狭心症の発作にでも見舞われたような氷河の様子に、瞬は別の意味で慌てることになったのである。
「氷河……か……顔色が悪いけど……」
幸い 氷河は激しい怒りのせいで 心臓が痙攣を起こしたわけでも、能の血管が ぶち切れたわけでもなく――ただ単に途轍もなく気分が悪くなっただけのようだった。
彼はすぐに、元気そのものの声で瞬を叱りつけ始め、
「おまえが俺に 気持ちの悪いことを言わせるからだ! 俺は、俺がおまえを好きでいることに、おまえは気付いてくれているものと――」
そして、その声を途切らせた。
不安そうな目をして、氷河が瞬に、
「気付いていなかったのか?」
と尋ねてくる。

氷河に至近距離から顔を覗き込まれ、瞬は どぎまぎすることになった。
「あ……あの……僕……」
瞬はもちろん、気付いていた。
少なくとも、もしかしたら そうなのではないかと考え――感じたことはあった。
だから なおさら、瞬には氷河の振舞いが大きな衝撃だったのだ。
「だ……だって、僕の うぬぼれだったら……あの……」
「気付いてくれてはいたんだな」
氷河が、大きく長い安堵の息を洩らす。
そして、氷河は、その声と表情を少し穏やかなものに変え、彼が急に瞬の兄に“結婚は人生の墓場だ”攻撃を開始するに至った訳を語ってくれたのだった。

「沙織さんの友だちの――杉上だか松下だかの令嬢の結婚式の招待状が届いた時、『いちばん最初に結婚しそうなのは紫龍、次は誰か』という話になっただろう。あの時、おまえは、一輝が身を固めるのを確認するまで、自分はそんなことは とてもではないが考えられない――と言った」
「え……」
「だから、一輝が結婚しなければ、おまえも結婚しないわけで――俺はおまえに そんなことはしてほしくなかったから」
「氷河……あの……」
「いくら俺がおまえを好きでも、恋敵が女では勝てるわけがないからな」
「氷河……」

『僕、そんなこと言ったっけ?』と ここで氷河に確認を入れないだけの分別を、幸い 瞬は持ち合わせていた。
もちろん その言葉に嘘はなく、冗談のつもりで言ったわけでもなかった(はずだった)が、瞬が半年前の自分の発言を憶えていなかったのは 紛う方なき事実だった。
その事実を氷河に知らせないために あえて、だが 極めて控えめに、瞬は氷河への攻撃に転じたのである。

「だ……だって、氷河は、兄さんが帰ってくると、兄さんのことばっかり気にしてて、兄さんのことばっかり見詰めてて――。ぼ……僕だって、悲しかったんだから。でも、兄さんじゃなく僕を見てなんて我儘なんて言えるわけないし……」
「おまえの目はおかしい。あれは見詰めているとは言わない。あれは睨んでいると言うんだ」
「……」
言われてみれば、そうだったような気がする。
氷河が そう言うなら、そうなのだろう。
氷河が そう言うのなら。

「だって、氷河、はっきり言ってくれないから……。兄さんには はっきり言うのに――兄さんには土下座までするのに――氷河、僕には何も……」
恨み言を言って氷河を責めるつもりはないのだが、つい口調が恨みがましいそれになり、同時に 瞳に涙がにじんでくる。
その涙が効を奏したのか、氷河は意外なほど素直に自身の非を認め、
「悪かった」
と、瞬に謝罪してきた。
そして、彼が言うべきことを言う。
「瞬、俺はおまえが好きだ。もし一輝が めでたく身を固めることになっても、俺の側にいてくれ」
「氷河……」

氷河がはっきり言ってくれさえすれば、瞬もすぐに自分が言うべきことを言うことができたのである。
それは、
「はい」
という、ごく短い――言葉ともいえない言葉だったが。






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