「あれに頼むかどうかは、慎重に勘考する必要がある。あれがカイトス退治成った暁に求める報奨は、財宝や地位ではないんだからな」
“あれ”が、当代ではエティオピア国外における最高の英雄だということは、一輝国王も(不本意ながら)認めていた。
非常識極まりない求婚騒ぎのあとも、氷河王子は、英雄の称号集めが趣味ででもあるかのように、精力的な活動を続けていたのだ。
エティオピア宮廷では一種の狂人とみなされていたが、他の場所では、氷河王子は確かに当代で最も高名な英雄の一人。
非常識な求婚騒ぎさえ起こしていなかったなら、愛する弟のために、一輝国王は腰を低くして氷河王子に助力を要請していたかもしれない。
だが、それをするには、氷河王子は あまりにも問題の多すぎる英雄だった。
ゆえに、一輝国王が瞬王子の提案をれることを渋ったのは、至極尤もなことだったろう。

だが、他にどんな対応方法があるというのか――。
重苦しい沈黙が、エティオピア王宮の玉座の間を覆い始めた時だった。
「こ……困ります! たちの悪い病気に侵された犬やネズミの侵入は許しても、あなた様だけは王宮に入れるなと、我々は王から厳しく命令されているんです。あなたを これ以上 進ませたら、我々の首が飛んでしまう!」
「貴様等の首が どこに飛ぼうが、俺の知ったことか! 自分の首くらい、自分で守れ。俺の瞬の危機に、俺が駆けつけないで どうするんだ!」
「お気持ちはわかりますが、私には妻も子もいるんです。私の妻子を助けると思って、ここは――」
「ほう、それはよかったな。俺には瞬ひとりだけだ。どけっ!」
という騒がしい やりとりのあと、玉座の間の扉が開き、そこに 颯爽と(?)一人の金髪の青年が姿を現したのは。

玉座に王がいるのを認めると、彼は、
「聞いたぞ! この国以外の生まれの勇者が必要だそうだな。任せておけ! この俺が、化け猫でも化け兄貴でも片手で片付けてやる。褒美は瞬だろうな!」
と大声で わめき散らしながら、大股で部屋の中央を突っ切り、一輝国王の玉座に向かって歩み寄ってきた。

アンドロメダ姫の生贄事件以来のエティオピア王国の危機。
八方ふさがりで、打つ手なし。
重苦しい沈黙が闇色のヴェールになって、その場の空気のみならず その場にいる人間の心をも 暗く深く沈ませていた。
そこに突然現れた まばゆい太陽。
氷河王子の登場は、本来なら、絶望の淵に沈むエティオピア宮廷に射し込む希望の光といっていいものだったろう。
そう思われてもいいはずだった。
そう思われていただろう――氷河王子がもう少し静かに、控えめに、重々しく、真面目な面持ちで登場してくれていたなら。
しかし、氷河王子は、“希望の光”というには あまりにも強烈すぎる光だったのである。
彼は、気が狂っている真夏の太陽のように むやみやたらに明るすぎ、そして軽すぎたのだ。

「もう、聞きつけてきたのか……」
氷河王子に勝るとも劣らぬ英雄の一人である(はずの)エティオピア国王が、玉座の腰掛けたまま、頭を抱えて低く呻く。
とはいえ、一国の王を務める者が 狂人に弱みを見せるわけにはいかない。
そんなことはできないのだと自分を叱咤して、一輝国王は気違い太陽の前で 懸命に威厳ある態度を取り繕うべく努めたのだった。
「貴様は どこから湧いて出たんだ! 貴様の国と このエティオピアは 馬を疾走させても3日はかかる距離にあるんだぞ!」
「野暮なことを訊くな。恋の翼の力を借りて飛んできたに決まっている。俺が来たからには 百人力、いや百万人力だ。事が済むまで、貴様は寝ていていいぞ。貴様はじめ、エティオピアの民は、今回は何をすることもできないんだろう? いても邪魔なだけだ、昼寝でもしていろ。瞬は、俺が必ず守る!」

氷河王子は、この状況が嬉しくてならないらしい。
満面の笑顔で一輝国王に昼寝を勧めると、国王との謁見の最中だった使者を押しのけ、彼は踊るように弾んだ足取りで瞬王子の側に歩み寄った。
そうして、瞬王子の正面に立つと、瞬王子のために改めて明るい微笑を作る。
「ああ、瞬。今日も可愛らしいな。おまえのところに行くんだから、花でも摘んでこようと思ったんだが、おまえの前に出たら、どんな花も自信を失って しおれてしまうだろう。それでは花が あまりに気の毒だから、手ぶらで来た。遠慮せず、俺を頼ってくれ。おお、シルビアン。おまえも元気そうだな」

もしかしたら、エティオピア王国を救うことができるかもしれない ただ一人の人間。
その可能性を考えると、その場にいる人間たちは、氷河王子の無礼を どれほど苦々しく思っても、彼をむげに扱うわけにはいかなかった。
その場で自分の心に正直に振舞うことができるのは、その可能性に配慮することのできない獣だけだったのである。
「ガルルルル……」
体長は瞬王子の3倍、体積は瞬王子の10倍、体重は瞬王子の 優に20倍はある巨大な獅子が、突然の闖入者を凶悪な目で睨みつけ、敵を威嚇するような唸り声を喉の奥から漏らし始める。
氷河王子が少しでも ひるむ様子を見せていたなら、シルビアンは その瞬間に 傍若無人な無礼者に飛びかかっていっていただろう。
「シルビーちゃん、吠えないで。噛みつくのも駄目だよ」
瞬王子に そう言われて頭を撫でられたシルビアンが、すぐに唸るのをやめる。
代わりに、心配そうな目をして瞬王子を見上げ、シルビアンは くぅんと か細い声を漏らした。

大獅子の その様子を見た氷河王子が、どうにも得心できない顔になる。
そして、どうにも納得できていない声で、彼はぼやいた。
「俺は、瞬と一緒に、瘴気漂うネメアの谷からシルビアンを救ってやった男だぞ。なのに なぜ、シルビアンは俺に懐かないんだ」
「まさかとは思うが、もしかしたら貴様の中には 下卑た邪心があるのではないか? シルビアンは、動物特有の鋭い勘で その邪心を見透かしているのかもしれない。いや、ギリシャ全土に名を馳せている勇敢な英雄殿に 下卑た邪心などあるはずもないが……」
人間界のしがらみに囚われない動物にかこつけて、一輝国王が ささやかな皮肉を口にする。
今 この場で誰に遠慮する必要もない氷河王子は、にこやかな笑顔で すぐさま皮肉を返してきた。
「人格高潔なエティオピア国王陛下は、さぞかしシルビアンに慕われているんだろうな」
「……シルビアンは、瞬以外の者には 意地でも懐かない つもりでいるようだ」
馬鹿王子なら馬鹿王子らしく、皮肉を言う能もなければいいのに、その程度の知恵はある。
一輝国王は、忌々しげに胸中で舌打ちをした。

真性の馬鹿ではない氷河王子は、一輝国王の胸中がどういうことになっているのか 気付いていないわけではなかっただろう。
しかし、彼は、瞬王子の兄の憤怒を無視する知恵も持ち合わせていた。
というより、彼は、嬉しさのあまり、些細な不快に いちいち かかずらう気になれなかっただけだったかもしれない。
「シルビアンは俺の最大の恋敵だったが、それも終わりだ。ついに瞬が俺のものになる時がきたんだ!」
氷河王子は、楽しくて嬉しくてならないと言わんばかりに弾んだ声で、一輝国王とシルビアンの前で高らかに そう宣言した。

それでなくても渋面だった一輝国王の顔が、更に苦々しげなものになる。
初めて父親から短剣を持つことを許された小さな子供のように瞳を輝かせている氷河王子に、彼は あからさまに不審の目を向けた。
「瞬の身に危険が迫っているというのに、貴様、妙に嬉しそうだな? まさか、今回のことが すべて貴様の企みなんじゃないだろうな? 神々に妙な願いを願ったとか」
「どう考えたらそんなことになるんだ。俺が瞬の身に危険が及ぶようなことをするわけがないだろう」
「しかし、これは――おまえにだけ都合がよすぎる展開じゃないか。なぜエティオピアが これほど神々に憎まれなければならないんだ。どうにも解せん」
「オリュンポスの神々は気まぐれだ。今までエティオピアは恵まれすぎるほど恵まれた国だった。少し違う風が吹いただけのことだろう」
「本当に、貴様は何もしていないんだろうな」
「当たり前だ。俺が何かするにしても、瞬の身に危険が及ぶようなことはせん。俺に神々の心を動かす力があったなら――そうだな。俺は、シルビアンを猫にして、貴様をネズミにしてほしいと神々に頼むだろう。そして、逃げ惑う貴様をシルビアンの爪と牙から救ってやる。瞬自身を救うより、おまえの命を救ってやった方が、瞬の尊敬と愛情を手に入れやすいからな。正直、今回のことだって、生贄に捧げろと言われたのが瞬ではなく貴様の方がよかったと思っているくらいだ」
「……」
礼儀を知らず、常識も持たない氷河王子は、だが完全な馬鹿というわけではない。
一輝国王は、氷河王子の考えを正しいと思い、氷河王子が嘘をついていないことを認めないわけにはいかなかった。

「だが、まあ、神が決めたことに文句をつけるわけにはいくまい。俺は何を退治すればいいんだ? どんな化け物でも すぐに退治してやるぞ。その暁には、瞬を俺に与えると、貴様、神に宣誓しろよ?」
たとえ褒美が目当てだとしても、露骨にその目的を言葉にしてしまう英雄はいない。
普通は あくまでも『理不尽な暴力に虐げられている気の毒な人々を救うため』という態度を装うのが英雄の作法である。
臆面もなく褒美を要求してくる礼儀知らずの英雄に、一輝国王は ぎりぎりと歯噛みをすることになった。

「この地上には、こいつ以外に勇者英雄はいないのか! もっと謙虚で控えめで常識を備えた英雄は!」
天を仰いで嘆くアイスキュロスの悲劇の主人公のような一輝国王に、氷河王子以外の英雄の名を挙げられる者は、エティオピアの宮廷内には ただの一人もいなかった。
ギリシャ世界の歴史は、黄金の時代、白銀の時代、青銅の時代、英雄の時代、鉄の時代と移り変わってきた。
今は鉄の時代。
多くの英雄が世界のあちこちで活躍していた英雄の時代は、既に遠い過去のものになってしまったのだ。
そんな時代であればこそ、英雄志願者は英雄の時代より数多くいたが、今 この地上世界に、誰もが文句なく『英雄』の呼び名を与える人物は、エティオピア国王兄弟を除けば、氷河王子くらいのものだったのである。
その事実を、全く謙虚でなく 控えめでもない英雄氷河が、厚かましく口にする。

「俺以上の使い手はまずいないだろう。俺は、5日前、エリュマントスの大猪退治の帰り道に、ついでだったから レルネ沼のヒュドラも退治してきたぞ。で? 俺は何をすればいいんだ?」
「気楽に訊くな、この馬鹿たれがっ!」
この馬鹿たれが、ヘラクレス以来の大物英雄と言われ、しかも 武骨なヘラクレスとは比較にならないほどの美貌で名を馳せているのだから、世間の評判ほど信用ならないものはない。
もっとも、氷河王子の叔父であるヒュペルボレイオス国王は、氷河王子の破天荒な性格が異常の域に達していることに薄々 気付いていて、彼に宮廷に居つかれると宮廷の秩序が乱されて困るから、甥に化物退治を奨励しているのだという噂も、一輝国王は聞いていた。

その噂の真偽は、だが、この際 問題ではない。
今 この地上にエティオピア国王が助力を要請できる英雄は ただ一人しかいないのだ。
それが現実――冷酷な現実である。
断腸の思いで現実に目を向け、一輝国王は氷河王子に要請したのである。
「明後日、新月の日の満潮時、瞬を生贄の岩につながなければならん。漁師たちの話では、その日の満潮は正午を少し回った頃になるという話だ。その時、潮に乗ってやってくる海獣カイトスを倒してほしい」
「任せておけ!」
氷河王子は、一輝国王の要請に 勢いよく受諾の答えを返してよこした。
そうしてから、
「で、そのカイトスというのは何だ?」
と尋ねてくる。

一輝国王が、激しい頭痛に襲われることになったのは、致し方のないことだったろう。
倒す敵の正体も知らずに成敗要請を引き受けるということは、退治の方法も、勝算も――氷河王子の中には 具体的な計画が何ひとつないということである。
まさに無責任、無思慮、無分別、無鉄砲の極み。
だが、今 エティオピア王国は、この無責任で無思慮で無分別で無鉄砲な男に国運を賭けるしかないのだ。
無責任で無思慮で無分別で無鉄砲な英雄を怒鳴りつけ、殴り倒したい衝動を必死にこらえ、一輝国王は、無責任で無思慮で無分別で無鉄砲な英雄に問われたことに答えてやったのだった。

「鯨の化け物だ。小山ほどある巨大な」
「鯨? そいつは毒でも持っているのか」
「でかい鯨に浜で暴れられるだけで、漁師たちは漁ができなくなる。浜にある船にも被害は及ぶだろう。でかいことが脅威なんだ。貴様は山をどうやって退治する」
「動かない山は崩せばいいだろう」
氷河王子が事もなげに答える。
それが自信なのか、単なる無知無謀なのか。
氷河王子の英雄としての実績は知っているが、氷河王子の人となりも知っているエティオピア宮廷の者たちは、ひたすら 判断に迷うことしかできなかった。






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