further in the future






「龍峰……!」
その名を呼んで目覚めた時、瞬の瞳は涙で濡れていた。
愛情深い両親から その名を与えられた少年と、瞬は 決して悲しい別れを別れたわけではなかったというのに。
彼はアテナのために戦うことのできる聖闘士としての誇りと、アテナの聖闘士らしい希望を抱いて、彼の仲間の許に戻っていった。
そんな彼を可愛いと思い、健気だと思い、羨ましいと思いながら、瞬は笑顔で彼を送り出したのだ。
彼の仲間の許へ。
瞬自身は一人で。

「瞬……?」
気付かれずに済むとは思っていなかったが、やはり 隣りで眠っていた氷河を目覚めさせてしまったらしい。
気怠げではあったが、寝惚けてはいない――そもそも、いつ敵の襲撃を受けるかもしれないアテナの聖闘士に“寝惚ける”などということができるものだろうか――表情を、氷河は瞬に向けてきた。
部屋の四隅の小さなセーフティライトの他には窓からの月灯かりしかない室内で、氷河の瞳は青い星のような輝きを帯びている。

「どうかしたのか? リュウホウ……?」
「あ……ううん」
涙の訳を氷河に知らせずに済ませることはできるだろうか。
それは あまり期待できない展開だったが、とりあえず努力だけはしてみようと考えて、瞬は甘えるように その両腕を氷河の左の腕に絡みつかせ、額と頬を彼の肩に押しつけていったのである。
氷河が このささやかな誘惑に屈して その気になってくれたなら、あるいは、恋人の腕から伝わる温もりに誘われて再び眠りの中に落ちていってくれたなら、自分は涙の訳を氷河に知らせずに済む。
そうなることを、瞬は期待していた。
残念ながら氷河は こういう時に限って冷静そのもので、彼は、その気になることも、再び眠りに落ちることもしてくれなかったが。

「で?」
完全に覚醒している声で、氷河が尋ねてくる。
瞬は観念するしかなかったのである。
氷河は、瞬に 理由のない涙を許してくれる男ではなかった。
『目にゴミが入った』と言えば、そのゴミを実際に自分の目で確かめるまで 引くことをしない。
房事の最中に涙を流しでもしようものなら、『おまえは、よかったから泣いたのか、痛かったから泣いたのか、それとも他の心情的な理由があって泣いたのか』と、真顔で問い質してくる。
そして、納得できる答えを手に入れるまで、追求をやめない。
瞬は、『氷河に涙の訳を問い詰められないように泣くまいと頑張っていたら、逆に涙が出てきちゃったんだよ!』と涙ながらに氷河に訴えたこともあるくらいだった。

そんなことがあっても、次の晩には氷河は けろっとして、同じことを訊いてくる。
そんなふうに、氷河は、理由のない涙を瞬に決して許してくれない男だった。
氷河が瞬に涙の訳を問い質そうとしないのは、それが嬉しくて流された涙だということが明らかである場合のみ。
そんな氷河の横で、氷河の愛撫に感極まったわけでもないのに、涙を流してしまったのだ。
もはや逃げられない。
瞬は、彼の追求に耐える覚悟を決めるしかなかった。

だが、瞬は、氷河の追求に怯える必要はないはずだった。
あれ・・は、ただの夢なのだ。
奇妙なリアリティはあるが、夢の世界での荒唐無稽な出来事にすぎない――。
「……戦えなくなった夢を見たの」
嘘は すぐにばれる。
そして、氷河の追求はいつも厳しい。
正直に答える以外に道はないことを知っていた瞬は、事実を正直に氷河に告げた。

「それは、アテナの聖闘士が戦う必要がないくらい、世界が平和になったということか?」
わざと言葉の意味を取り違えて、氷河が尋ねてくる。
涙の訳も微笑の訳も――鬱陶しいほどの執念で恋人のすべてを知りたがる氷河を、それでも瞬が好きでたまらないのは、独占欲の強い我儘な子供のような言動の多い氷河が、しばしば彼にしかできないような思い遣りや優しさを示してくれるからだった。
瞬は時々、氷河が大人なのか子供なのか わからなくなることさえあったのである。
瞬は、少しだけ肩から力を抜いた。

「ううん。地上は相変わらず不穏な空気で満ちているの。なのに、沙織さんがいなくて――アテナがいなくて、僕は小宇宙が燃やせなくなってるんだ」
「小宇宙が燃やせない?」
「世の中は乱れているのに、僕は戦えない。小宇宙を燃やして戦うと、それは死に直結する。そして、多分……僕が戦えないから、邪悪の徒も僕に一顧だにしない。戦えなくなったせいで、僕は、ある意味、平和な日々を過ごしているんだ」
あれは、そういう夢だった。
戦う術を持たない非力な存在だから、“敵”は瞬に戦いを仕掛けてこない。
瞬を生かしておく。
“敵”は、取るに足りないものとして、瞬という存在を無視している。
あるいは、生きていることを見逃してくれているのだ。

「変な話だと思うでしょう? 変なんだ。戦わなくていいのに――戦わなくていいのに、戦えない僕は幸せじゃないんだ」
敵に無視されるということは、戦士だった者には耐え難い屈辱。
だが、あの世界での“アンドロメダ瞬”が悲しいのは、そんな屈辱のせいではなかった。

「夢だろう。ただの。現におまえは今、アテナの聖闘士として戦っているわけで――いつもの病気だ。傷付けたくないのに人を傷付けてしまったから、おまえは敵に対して感じなくていい罪悪感を感じているんだ」
身体の向きを変えて、氷河が 瞬の肩と身体を抱きしめてくる。
“あの世界”で生きてきたあとでは、現実の世界の氷河の腕や胸に触れていることや その体温の方が、夢のように優しく心地よく感じられる。
だが、その心地よさに触れても、瞬は、“あの世界”での悲しみを完全に忘れ去ることはできなかった。

「でも、妙にリアリティのある夢なの。僕たちの次の世代の聖闘士がいて、彼等はアテナの聖闘士としての戦いを戦っている。そして、彼等は傷だらけなんだ。今の僕たちみたいに。紫龍とね、春麗さんの子供がドラゴンの聖衣を着ていて、その子に名前までついてるの。夢なのに」
「紫龍と春麗の子供? もしかして、さっきおまえが言っていた、リュウホウというのは――」
氷河の胸の中で瞬が頷くと、氷河は 喉の奥から声になっていない小さな音を洩らした。
妙な具体性を持つ荒唐無稽な夢の話。
氷河は笑うしかなかったのだろう。
「夢の中で史記でも読んでいるのかと思っていたのに」

瞬の涙が“いつもの病気”のせいではないと確信し、氷河は むしろ心を安んじたようだった。
ただの夢のせいで流された涙は、『フランダースの犬』や『ごんぎつね』を読んで流される涙と大差ない。
そう判断したのか、氷河の口調は、瞬の涙の訳を問い質すための それではなくなった。

「俺たちの次の世代の聖闘士? それは未来の話なのか? いったい何十年後の話なんだ」
「わからない……。僕、歳をとってないんだ」
氷河がまた、喉の奥で笑う。
笑うのが当然。
あり得ないことなのだ。
アテナの聖闘士が、戦えない世界など。

「まあ、夢だからな。俺も歳をとっていないのか? 紫龍の息子が登場するのに?」
「え? あ……うん……多分」
「そして、俺も戦えないでいる?」
「氷河は……」
どう答えれば いいのだろう。
“あの世界”での氷河のことを。
氷河に嘘はつけない。
だが、氷河に真実を知らせるわけにもいかない。
迷いが、瞬の言葉を あやふやで頼りないものにした。






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