何光年の彼方に隠れている敵でも見付け出してくれるネビュラチェーンは、ものの5秒とかからずに、謎の答えを瞬の前に運んできてくれた。 もしかしたら、謎の解明をアテナに任されたのがネビュラチェーンを持つアンドロメダ座の聖闘士だったことも、奇跡の一部だったのかもしれない。 チェーンが瞬の前に運んできたものは、一辺が4センチにも満たない小さな黒い鉛の箱。 大雑把で豪快な性格の聖闘士が穴掘りに乗り出していたら、彼はそれを他の石ころと一緒に どこかに抛り捨ててしまっていたかもしれなかった。 鉛の箱に入っていたのは、細いプラチナの指輪が一つ。 それだけだった。 「随分 ちんけなお宝だな。石もついてないじゃん」 ついに見付かった“お宝”を、星矢が指でつまむ。 それは、少なくとも現代では“お宝”と呼べるほどのものではなかった。 星矢が気の抜けた声を洩らしたのも無理からぬことだったろう。 石もついていない指輪。 その指輪にも、石の代わりにオレンジの花が刻まれていた。 瞬は、その花を見て、オルゴールの蓋のそれを見た時には思い出せなかった ある事実に気付いたのである。 「オレンジの花は――純潔と愛の証。花嫁を飾る花だよ。――細い指輪だね」 「俺の指には入らないなー」 星矢が、その指輪を瞬の手の平に載せる。 星矢では小指にもぎりぎりのサイズ。 それは、瞬の薬指にちょうどいいサイズの指輪だった。 「どう見ても女性用だな」 それは いったいどういう判断の仕方なのかと 氷河を睨みかけ、そうするのをやめる。 てっきり人名が刻まれているものと決めつけていた指輪の内側の文字。 それが人名でないことが、瞬に不快の気持ちを忘れさせてしまった。 そこには、『 Σ’αγαπώ Αντίο 』――ギリシャ語で、『君を愛している。さようなら』と刻まれていたのだ。 「意味、わかんねー。2代前のケフェウス座の聖闘士って、女だったのか?」 瞬が手にしている指輪を脇から覗き込んで、星矢が見当違いな推論を持ち出す。 瞬は、首を横に振ることもできなかった。 「……沙織さんが言ってたでしょう。先々代のケフェウス座の白銀聖闘士は端正な面立ちの美男子だったって」 「じゃ、なんで女物の指輪なんかが ここにあるんだよ」 「……」 なぜ無頓着に、星矢はそんなことを訊くことができるのか。 瞬は、今ばかりは星矢の無邪気が腹立たしかった。 「誰かに贈るために作ったけど、渡すことができなかったか、もしかしたら――」 「もしかしたら?」 「一度贈ったものを返してもらったか」 「なんで?」 「……」 『Σ’αγαπώ』と『Αντίο』は、刻まれた文字の深さが違っていた。 この二つの文字は、違う道具を使って刻まれたのだ。 おそらく、二つ目の言葉は、最初の言葉が刻まれてから幾許かの時間が経ってから、違う道具で刻まれた。 十中八九、王の右手の下に埋められる直前に。 たとえば 一組の恋人同士が不仲になって、一度贈った指輪が 贈り主に突き返されたのだとは考えにくかった。 少なくとも、この指輪を恋人に贈った男性は、この指輪を王の右手の下に埋める その時にも、指輪を贈った相手の女性を愛していただろう。 愛が冷めていたなら、今はもう愛していない人のために作った指輪を、これほど念を入れて隠したりはしない。 『さようなら』という文字を刻む手間さえ惜しむはずだった。 「多分……戦いとは無関係な一般人の恋人がいて、その人に指輪を贈った。でも、彼はアテナの聖闘士だったんだよ。戦いに赴くことになったら――」 「……死ぬかもしれない」 指輪に刻まれた文字の意味が、星矢にも やっとわかったらしい。 彼は、90年前に現実のものとなった仮定文を低く呟き、そのまま黙り込んでしまった。 君よ知るや南の国 レモンの花が咲き オレンジが実る、美しく懐かしい我が故郷 あなたと共に帰りたいのに、それは叶わぬこと 懐かしい南の国を、私は ただ遠くで思い懐かしみ憧れるだけ 「恋人を悲しませないために、身を引いたか、突き放したか――」 目の奥が熱を持ち、喉の奥が痛い。 瞬の声は、涙に濡れる直前の渇いた痛みのせいで かすれていた。 彼は、おそらく恋人を突き放したのだろう。 本当は愛していたのに。 そして、彼は、アテナの聖闘士として戦場に向かい、アテナの聖闘士として戦い、死んでいったのだ。 瞬の瞳から最初の涙の雫が 零れ落ちる前に、氷河が その身体を抱きしめる。 瞬の涙は かろうじて仲間たちの目に触れずに済んだ。 氷河は言うに及ばず、星矢にも紫龍にも、見えないはずのものは 見えてしまっていただろうが。 恋心を封印した小さな箱。 隠さなければならなかった――だが、残したかった愛の証。 それは、アイオロスのメッセージのように 高邁なものではなく、むしろアテナの聖闘士にあるまじき未練だったのかもしれない。 だからこそ彼は、永遠に誰にも見付けてもらえないかもしれない方法で、その小箱を この場所に隠したのだ。 誰にも見付けられないことを期待して。 それでも、彼は 誰かに知ってほしかったのだ。 彼女に悲しんでほしくないから 冷たく突き放した恋人を、彼が心から愛していたことを。 たとえ誰にも 知ってもらえなくても、せめて残したかった。 自分が恋人を愛していた証を。 「こういう奇跡かよ。ったく、奇跡の野郎、腹が立つくらい人選が的確だな」 氷河の胸に顔を埋め、声を押し殺して泣いている瞬の肩を見詰め、星矢が忌々しげにぼやく。 誰にも知ってもらえなくても残したかった愛の証、恋が存在した証。 瞬は決して忘れないだろう――瞬ならば、決して忘れない。 これまで幾度となくアテナとアテナの聖闘士たちを助けてくれた“奇跡”の力を、星矢は生まれて初めて憎らしく思った。 |