「氷河は恐くないの」
自分で自分を追いつめているような氷河を見ているのが恐くなって、瞬が恐る恐る 彼に尋ねていったのは、彼が城戸邸にやってきて ひと月ほどが経った ある日のことだった。
夏の盛り。
信じられないほど濃く くっきりとした影を落としていた楡の木が、その影の輪郭をぼんやりしたものに変えていく夕暮れが始まりかけた頃。
昼間 あれほど うるさく泣きわめいていたセミたちは どこへ行ったのか、城戸邸の庭は不可思議な静寂に覆われていた。

「おまえ、誰だ」
「あ……僕は……」
この城戸邸には、100人近い子供たちが集められているのだから、氷河に名を知ってもらえていなくても、それは仕方のないことである。
泣くことでしか目立てない同輩の名を 氷河が知らないのは、むしろ当然にして自然。
瞬は、氷河に名を問われたことには、特に感情を動かされることはなかった――落胆も失望もしなかった。
「瞬」
ただ、
「瞬……? ああ、いつも一輝の陰に隠れてる奴だな」
と氷河に言われ、少し複雑な気分になっただけで。

氷河は、非力で目立たない子供の姿だけは 気に留めていてくれたらしい。
強く目立つ兄のおまけとして。
これは喜ぶべきことなのか、嘆くべきことなのか。
それは瞬自身にもわからなかった。
自分の感情の振り子がどちらに傾いているのかが わからず戸惑っている瞬に、
「恐い? 何を恐がることがあるんだ」
と、氷河が尋ねてくる。
瞬は 自分の感情の把握を早々に諦めた。
把握したところで、それを表に出すことはできないのだ。
自分の感情には、できるだけ気付かずにいた方がいい。

「みんなに嫌われて、孤立すること」
「嫌われるのが恐いのは、相手が自分の好きな人だった時だけのことだろう。どうでもいい奴に嫌われたって、ちっとも恐くない」
「氷河は好きな人はいないの」
「いない」
「一人も?」
「一人も」
そんな悲しいことを、きっぱりと 一瞬のためらいもなく言わないでほしいと、瞬は思ったのである。
少しは迷って、過去に出会った人たちの面影を 記憶の中に探しに行ってほしいと。
こんなふうに即答されてしまったら、『それは嘘だ』と疑うことすらできないではないか。

「なぜ泣くんだ」
氷河に問われて初めて、瞬は 自分の頬に涙の雫がこぼれ落ちていることに気付いた。
「わからない」
瞬が正直に答えると、氷河は それでなくても不機嫌そうだった顔を 更に大きく歪めた。
そして、忌々しげに瞬を睨みつける。
「おまえは俺と逆だな。誰にでも いい顔をして」
それは どう聞いても非難しているようにしか聞こえない声音だった。
氷河は、名を知ろうともせずにいた子供の言動だけは、認知し、記憶に留めていたものらしい。
おそらく、“不愉快なもの”として。
だが、瞬は、なぜ氷河が自分の振舞いを不愉快と感じているのか、それがわからなかったのである。
自分の弱さや非力を不快に思われるならともかく、人と争いを起こさないための言動は、少なくとも“悪いこと”ではないはずだった。

「誰とでも仲良くした方がいいでしょう」
「仲良くするのは、好きな人とだけでいい。一人だけでいい。それで十分だろう。誰とでも仲良く? 馬鹿か、おまえ。よく そんな面倒なことをしようなんて考えるな」
「僕、特に嫌いな人がいないから」
瞬は『みんなが好き』とは言えなかった。
そして、氷河は、そう言う瞬の気持ちを見透かしていた。
「嫌いな奴がいない? 嘘をつけ。おまえ、あの辰巳も好きなのか」
「……」

この屋敷に100人近い子供を集めるだけの力を持つ男の前では 嫌らしい愛想笑いを浮かべ、その機嫌を伺いながら、身長が彼の半分にも満たない子供たちに対しては 平気で感情に任せて怒鳴り散らし、体罰を加える男の名を持ち出され、瞬は答えに窮した。
「嫌いな奴にも いい顔する嘘つきなんだよ、おまえは」
そんな瞬を見おろし、勝ち誇ったように氷河が言う。
瞬は、そんな氷河の前で顔を伏せ、唇を噛みしめた。
「仕方ないでしょう。あの人に突っかかっていったら、あの人は僕だけじゃなく、みんなをいじめるもの」
特に、兄や星矢や氷河――自分の意思や感情を隠せない“正直な”者たちに、辰巳は八つ当たりをすることが多かった。
瞬は、兄のためにも、辰巳の前では“いい顔”をしていなければならなかったのである。

それが悪いことなのかと、瞬はつい日頃の用心を忘れ、自分の感情に正直になって 氷河に言い返してしまいそうになった。
瞬は、だが、幸か不幸か、氷河に反駁の言葉を投げつけることはきなかったのである。
氷河は、そんな瞬の気持ちすら見透かしていた。
「じゃあ、おまえは みんなのために あのタコにもいい顔してるのか? 嘘をつくな。おまえは一輝のためだけに いい子の振りをしてるんだよ」
「え……?」
「ところが、一輝は俺と同じで、嫌いな奴には愛想笑いができないときてる。おまえの嘘は全く意味がない」
「あ……」

なぜ氷河は そんなひどいことを言うのだろう。
そんなひどいこと――非力な弟は兄のために何もできていないという、残酷な事実を。
瞬の瞳から、さきほどまでの涙とは別の涙が ぽろぽろと幾粒も零れ落ちる。
そして、それは、瞬自身にも止めようがなかった。
なぜ悲しいのかは わからなかった。
誰が悲しいのか、何が悲しいのかも――氷河の冷酷が悲しいのか、兄の正直が悲しいのか、自分の非力が悲しいのかも わからない。

嘘をつくのは悪いこと。
それは瞬も知っていた。
正直なおじいさんは大判小判を手に入れることができるが、そうでないおじいさんはガラクタしか手に入れられない。
正直に鉄の斧を落としたと告げたきこりは金の斧と銀の斧も手に入れることができるが、嘘をついいたきこりは自分の鉄の斧すら失ってしまう。
そんなことは、瞬も知っていた。
自分は いつか嘘の報いを受けるのだろうと、その覚悟もしていた。

氷河は、そんな仲間の嘘を見透かし、真実を正直に言っているだけ。
氷河は正しいことをしているだけ。
悪いのは、そんな氷河の言葉に傷付き悲しむ自分の方なのだろう。
そう思う。
それは わかっている。
だが、悲しい。
瞬はただ、どうしようもなく悲しかった。


二人は そんな別れ方をしたのである。
氷河に気付かれぬように視線で その姿を追ったり、ふいに ひどく強い氷河の視線に気付いて驚いたり、時折 互いに長いこと見詰め合ったりすることはあったが、その時以降 ほとんど会話らしい会話を交わすことなく、二人は別れの日を迎えた。






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