ハーデスが幻影の身体をもって地上にやってきたのは、ちょうどその時だった。 実体は もちろん、エリシオンにある神殿の中で静かに眠りに就いている。 たかが6歳の子供との対面のために実体を用いるつもりはなかった。 地上は、今日も騒がしかった。 ただし、それは、大量殺戮兵器や武器を搭載した乗り物が響かせる音のせいではなく、その武器によって傷付き呻く人間たちの悲鳴のせいでもない。 そうではなく――そうではないのだが、一種異様な音が、ハーデスの意識が向かった場所には響き渡っていた。 「騒がしい。何だ、何があったというのだ」 その騒がしい音は、ハーデスの足元から響いてきている。 異様な音を発しているものの上に、ハーデスは幻想の身体の眉をひそめ、視線を落とした。 冥府の王は、髪も瞳も身にまとっているものも漆黒。 冥府の王が視線を落とした先にいたものは、そんな漆黒の神同様、一部の肌以外は髪も手足も着衣も黒い一人の子供だった。 よく見ると、その子供がまとう黒は、冥府の王の美しく完璧な黒とは異なり、まだらに泥がこびりついているだけのものだったが。 どこからともなく突然現れた漆黒の神に、まだらに黒い子供は ひどく驚いたようで、すぐに騒がしい音を作るのをやめた。 そして、泥の中に座り込んだまま、意識がどこかに飛んでいってしまったような目をして 冥府の王を見上げてくる。 その子供は、2、3度 瞬きをしてから、 「あ……あなたはどなたですか」 と、ハーデスに尋ねてきた。 「余は冥界の王ハーデス。そなたは何だ。人間の子供のように見えるが」 まだらに黒い人間の子供のようなものは、自分が冥府の王に何を問われたのか わからなかったようだった。 人間の子供だということはわかっているらしい人に、その上で『何だ』と問われ、何と答えればいいのかが思いつかなかったらしい まだらに黒く汚れた子供は、ハーデスの顔を見上げたまま、懸命に答えを考えて――むしろ迷っていた――おそらく。 迷いに迷って、結局 その子供は、 「僕、瞬です」 という答えを返してきた。 今度“瞬”を見詰めて 沈黙を作ることになったのは、冥府の王の方だった。 ハーデスは、妙な“音”を聞いたと思ったのである。 すなわち、美しく誇り高い冥府の王の依り代となる人間が有しているはずの名と同じ音を。 だが、そんなことがあるはずがない。 「瞬? 今、瞬と言ったか、そなた」 まだらに汚れた子供が、冥府の王の問いかけに、壊れかけた人形のように こくりと頷く。 だが、そんなことがあるはずがない。 そんなことがあるはずがないのだ。 「何かの間違いであろう。本当の名を言え、本当の名は何という」 「僕、瞬だよ。……瞬です」 二度の こうなっては、ハーデスも、この あり得ない事態を事実と認めるしかなくなってしまったのである。 冥府の王の依り代になるべく運命づけられた“瞬”の許に意識を飛ばしたハーデスが、最初に出会った一人の子供。 その子供が自分の名を“瞬”だと言い張っているのだ。 それは疑いようのない事実だった。 つまり、地上で最も清らかな魂を持つ人間が――美しく誇り高い冥府の王の依り代が――この泥まみれの子供だということは。 「こ……この泥だらけの汚い子供が余の魂の器だと? 顔も服も髪も手も――ああ、爪の中まで泥で汚れているではないか。余は、このように汚い子供の存在自体を許さぬ。許せるものか……!」 「え」 「ええい、さっさと余の前から消えろ! 余の目に、そのような汚い姿を見せるでない。見苦しい」 「あ……の……」 まだらに汚れた この子供の魂が清らかなことは、ハーデスにはわかっていた――嫌になるほど 感じ取れていた。 だが、むしろ、だからこそ――それがわかるからこそ、ハーデスは、汚れた姿を持つ その子供の存在が許せなかったのである。 美しく高貴な冥府の王の依り代にふさわしい清らかな魂の持ち主の姿が これほどまでに醜いことが。 「消えろ! 今すぐに! そなたのように醜いものが 余の前にいてはならぬ! そのような醜い姿を余に見せるなど、何という不遜、何という不敬、何という おぞましさだ!」 まだらに汚れた その子供に、冥府の王の憤りが理解できたとは思えなかった。 それ以前に、その子供には、今 自分の前に立つ者が どういう存在であるのかを察することもできずにいるのだろう。 だが、自分が 「ふぇ……」 声とは言い難い音を 喉の奥から洩らし、まだらに黒い子供は その瞳から涙を零し始めた。 この見苦しい子供は、また あの騒がしく異様な大声を響かせ始めようとしている。 そう察し、更にハーデスが不快の念を募らせようとした時、 「瞬。どうしたんだ。何を泣いている」 土が盛られてできた二つの小山の間から、一人の金髪の子供が瞬の方に駆け寄ってきた。 そして、もう一人の子供の登場で、瞬は ほんの数秒 泣き始める時を遅らせた。 その数秒を逃すことなく、ハーデスは即座に自分の意識を彼の実体が置かれているエリシオンへと運んだのである。 騒がしく異様な子供の泣き声にも、見るに耐えないほど醜い姿を持つ子供にも、ハーデスは それ以上 ただの1秒たりとも接していたくなかった。 「ハーデス様、問題の子供はいかがでした」 冥府の王の帰還に気付いた金銀の神にそう尋ねられることさえ、ハーデスは不快でならなかったのである。 なぜ そんな無神経な質問を発することができるのかと、二柱の神を叱責したい気持ちが ハーデスの中には生じた。 あの子供のために そんな手間をとることさえ馬鹿らしく、ハーデスは 金銀の神に対して怒りを露わにすることはしなかったが。 「余は再び長い眠りに就くことにする。やる気をなくした」 「は?」 地上で何があったのか説明する気にもなれない。 そんなことをして、また不愉快な気分を反芻する気にはなれない。 訝しげな顔をする金銀の神を無視して、ハーデスは その宣言通り、速やかに再びの眠りに就いた。 |