コンプライアンスに反することをしていないから、堂々と氷河に辞職を要求できない。 だから財団は、氷河を コンプライアンス統括部内部監査3課に異動させ、真綿で首を絞めるような手段に訴えてきた。 そういう財団の真意を知らされてしまっては、氷河も楽しい気持ちでいることはできなかった。 財団の希望に沿うべきか、それとも抵抗すべきなのか――。 氷河が自席で、暗い面持ちで、どうしたものかと考え始めた時だった。 3課のオフィスのドアが開き、 「瞬、暇かー」 という、瞬のそれより更に明るい声が、狭い室内に響いてきたのは。 「新しい人が来たの。暇なわけないでしょう」 ついさっき『暇だ』と言っていたのに、まるで真逆のことを瞬が口にする。 声の主は、これまた どこの高校生なのかと疑いたくなるような――こちらは男子高校生だが――風体の若い男だった。 そのあとから 少し遅れて、社会人にあるまじき長さの髪を持つ男が3課のオフィスに入ってくる。 「知ってるって。だから見物に来たんだ。どうだ? 見込みはありそうか?」 「見込みがないから、ここに送られたんだ」 新しい登場人物の軽さ明るさが気に障り、氷河は皮肉な声音で、自虐的に、のんきな男子高校生に答えたのである。 氷河の その声と答えを聞いても、男子高校生は 不快になった様子も物怖じした様子も見せなかった。 むしろ軽快な声で、自己紹介をしてくる。 「あ、俺、星矢。こっちの長髪は紫龍。二人とも、3課のOBだ。つまり、おまえの先輩。よろしくな。で、おまえは何やらかして、ここ送りになったんだ?」 「……」 瞬はもしかしたら、内部監査3課に所属していながら、自分の所属課の別名を知らないのかもしれない。 だから屈託のない明るい表情で、“新しい人”を3課に迎え入れたのかもしれない。 そう、氷河は思いかけていた。 が、星矢と名乗った男子高校生もどきは、この課の別名を知っているようだった。 ならば、彼は、瞬からは得られない新しい情報を多く語ってくれるかもしれない。 氷河は そう期待し、その期待はすぐに叶えられた。 氷河が説明を求めるより先に、星矢は べらべらと勝手に 新入り相手の お喋りを始めてくれたのだ。 「ここに送られてくるのは、社会人なら長髪をどうにかしろっていう上司命令を無視して前部署をおん出された奴や、敬語が使えなくて お偉いさんの機嫌を損ねた、企業不適合者ばっかなんだ。定員2名だから、新入りが来るたび、一人 外に出されるんだよな。かく言う俺が、おまえが来るっていうんで、3課から資料室担当に異動になったんだけどさ。3課はいいとこだぞ。3課の課員だって後ろ指さされて笑われることさえ我慢できれば」 「後ろ指……」 やはり ここは、所属するだけで後ろ指を指されるような部署らしい。 星矢の説明(?)を聞いて、氷河は思わず溜め息を洩らしてしまったのである。 うまく一般人の中に紛れ込んでいるつもりだったのに、やはり自分は社会の はみだし者なのだ――と。 「あ、外野が鬱陶しかったら、30階直通エレベーターがあるから、それを使えば他の社員と顔を合わせることもないぜ。総帥室や お偉いさんたちが昼食会 兼ねた会議する会議室もあるフロアだから、ランチも社食から出前してもらえるんだ。まあ、そうしたいなら、コンビニから菓子パン買ってきて齧っててもいいけどさ。瞬、お茶」 星矢と紫龍が形ばかりの上司席と その脇にあったスツールに腰をおろす。 それはいつものことのようで――瞬は、星矢の登場時から 彼に お茶を求められることもわかっていたらしい。 瞬は、星矢に お茶を求められた時には既に席を立って 電気ポットのスイッチを入れ、形も大きさも異なる4つのティーカップとソーサーを資料用キャビネの中から取り出していた。 「おまえ――君も何かやらかしたのか」 上司の断髪命令を無視した不適合者は紫龍、敬語が使えなくて お偉いさんの機嫌を損ねた不適合者は星矢のことなのだろう。 では いったい瞬は何をしでかして、人材の墓場の住人になったのか。 瞬は、その髪の長さは決して短くはなかったが 紫龍のそれほど非常識な長さではなかったし、先程から敬語もちゃんと使いこなせていた。 その容姿はあまりに特異だったが、人当たりは やわらかく、気も利き、フットワークも軽快。 少なくとも瞬は 人間関係で問題を起こすタイプには見えなかった。 円滑な人間関係を築くことのできる人間は、所属する集団の中に必ず それなりの居場所を確保できるものである。 瞬が3課にいる訳が、氷河には見当もつかなかった。 氷河が瞬に投げかけた問いに、星矢が答えを返してくる。 「瞬は、この顔だから、オフィスにいるだけで迷惑だって言われたんだよな。瞬がいると、周囲の男共の気が散って仕事にならないって」 「……そんな馬鹿げた理由で?」 思わず訊き返してしまう。 他にどんな理由がありえるのだと言いたげな顔で、星矢は氷河に頷き返してきた。 「そ。そんな馬鹿げた理由で。で、おまえは? おまえのしでかした馬鹿げたことってのは何だよ?」 「……」 自分が 藪を突ついて蛇を出してしまったことに、星矢に再問されて、氷河は自覚したのである。 が、本当のことは言えない。 自分の“馬鹿げた”失態を 殊更隠したいわけではなかったのだが、氷河はそれを前部署の上司に口止めされていた。 氷河の“失態”によって生じた損失は 既に事故による損失として計上済み。 部内事情を外部に漏洩することは 機密保持規定違反に当たる――と。 規定に反しないために虚言を弄するのはどうかと思ったが、こればかりは仕方がない。 いかにも口が軽そうな星矢に、氷河は事実を知らせるわけにはいかなかった。 「暑いのが嫌で、パプアニューギニア出張を拒んだんだ」 「へえ、職務放棄で左遷か。すげー 真っ当な理由じゃん。でも、早いとこ3課卒業して資料室に来いよな」 「資料室はここよりましなのか。資料室こそ、どの企業でも いちばんの閑職というイメージがあるが」 それこそ“馬鹿げた”嘘を素直に信じてくれたらしい星矢に、とりあえず感謝する。 そして、これ以上自分の事情を探られないために、氷河は話題を変えた。 星矢への質問に、今度は瞬が、お茶をいれながら答えてくる。 「社会でも、企業でも、必要だから そのポストがあるの。閑職なんてないよ。資料室のお仕事だって、真面目に資料を管理しようとしたら、ものすごい激務だと思うけど」 「なんだよ。毎日 暇もてあましてる俺が すげー怠け者みたいじゃん」 「暇なのがいやなら、星矢、より効率的な資料の管理システムでも考案してみたら」 「でも、どうせすぐに俺たちは……いや、そういう 几帳面さが求められる ちまちました仕事って、俺のしたいことじゃないんだよ」 星矢は、いかにも彼らしい言い訳を口にした。 お茶の葉の蒸れ具合いを気にしながら、瞬が そんな星矢の前で僅かに眉をしかめてみせる。 「人間はね、自分が何をしたいのかを まず考えてしまうから、望んだ仕事に携われないとか、望んだ立ち位置に立てないとか、いろんな不満を生じさせてしまうの。人間は、自分のしたいことじゃなく、自分の人生と命に どんな使命が課せられているのかを考えた方がいいんだよ」 「人生と命の――使命?」 瞬に問い返したのは、星矢ではなく氷河の方だった。 瞬が、浅く頷く。 「そう。自分の欲望や願望じゃなく、天が僕たちに与えた使命。天が自分に与えた使命は何なのかっていうことを考えて、それを実行するの」 「天が俺なんかに何かを期待しているとは思えんな」 “何か”を期待して、天が自分にあの妙な力を与えたのだとしたら、それは氷河には迷惑な話だった。 あの力さえなかったら、そもそも氷河は こんなところに――人材の墓場などに――送られることもなかったのだ。 「そんなことないよ。課せられた使命を果たすための能力と時間を、天は僕たちに与えてくれてるはずだよ」 「……」 瞬は自分の人生に対して 素晴らしく前向きで、かつ肯定的である。 その あまりの前向き かつ 肯定的な考えを聞いて、もしかしたら瞬は危ない宗教にでもはまっていて、それで不適合者の烙印を押されたのではないかと、氷河は疑うことになったのである。 「どんなことでもいいんだよ。たとえば僕は――」 「おまえは?」 「この部署に来た人が必ずおいしいお茶を飲めるようにすることが、ここでの僕に課せられた使命だと思ってるんだ。――お口に合えばいいんだけど」 にっこり微笑して、瞬が お茶のカップを氷河のデスクに置く。 カップとソーサーは見るからに町の雑貨屋で購った ありふれたものだったが、お茶の香りはいい。 紅茶で世界を変えようという宗旨の宗教があるのでもない限り、瞬の不適合理由は怪しい宗教ではなさそうだと安堵して、氷河は そのお茶を一口だけ飲んでみたのである。 「うまい」 口中に広がる香りと 程よい苦み。 そして、ごく僅かな甘み。 それを天に課せられた使命と言うだけあって、瞬のいれたお茶は素晴らしく美味だった――というより、味が快い。 「高い葉を使っているのか?」 尋ねてから、不粋なことを訊いてしまったと軽く後悔する。 幸い、瞬は、氷河の不粋に気を悪くした様子は見せず、逆に嬉しそうな笑顔になった。 「100グラム800円の安物だけど、氷河はちょっと緊張して苛立ってるみたいだったから、ちょっと濃い目にいれただけ」 「瞬のお茶は、相手の体調や精神状態を見ていれるから、安物でもうまいんだ。葉は、いつも、すぐそこの駅ビルに入っている紅茶葉専門店でいちばん安いダージリン」 どうやら資料室在籍の二人は、3課にマイカップを置いているらしい。 そう言いながら、瞬が手にしているトレイから 紫龍がジノリのカップを取り、星矢が 派手な馬の絵が描かれたカップを取る。 「安物なのは事実だけど、安物安物言わないで」 瞬は紫龍の言に 少し拗ねたように唇を引き結んだが、紫龍の「うまいぞ」の一言で、すぐにまた笑顔になった。 |