龍峰と彼の仲間たちが野宿をしていたのは、花も咲かない荒地で裸出している花崗岩の傍らだった。 人の住む町は遠い。 龍峰の頭上には満天の星があった。 だが、ここから、この時期に、龍峰の星座の姿は見えない。 今 龍峰の上に広がる空と星たちの中で最も目立つ星は、白鳥座のα星デネブだった。 今 自分に見えている星より はるかに近いところにキグナス氷河はいるというのに――。 星空を仰ぎながら 龍峰がそう思い、自分の中に生まれた望みを消し去ろうとした時、一つの人影が彼の視界を横切った。 人がいるはずのない夜の荒野に ふいに現れた不思議な人影は、金色の髪を持っていた。 キグナス氷河だ――と、龍峰は思ったのである。 根拠はなく、だが、確信を持って。 空に月はない。 あるのは 降るような星ばかり。 仲間たちが囲んでいる火からも離れている。 灯りと言えるものは何もないのに、光と言えるものは何もないというのに、彼の髪が 恐ろしく明るい金色を呈していることが、龍峰には はっきりわかった。 にもかかわらず、その姿が実体なのか幻なのかはわからない。 彼は どこかに向かおうとしているようだった。 龍峰から5メートルと離れていないところを歩いて(?)いるというのに、彼は そこに自分以外の人間がいることに気が付いていない――ように、龍峰には思われた。 「キグナス氷河……氷河さんでしょう!」 彼が幻影なら、名を呼んでも無意味である。 だが、龍峰の声は彼に届いたようだった。 そこに龍峰がいることに気付いていないようだった男が、その足を止める。 それから彼は、ちらりと龍峰の上に視線を投げ、そこにいる者の姿を認めて 僅かに眉をひそめた。 「龍峰……?」 彼は、龍峰を知っていた。 キグナス氷河に名を呼ばれたことに力を得て、龍峰は彼に向かって大きく頷いたのである。 「はい!」 「ふん」 キグナス氷河は、だが、この出会いを喜ぶ素振りを見せなかった。 詰まらなそうな顔をして、 「俺を呼んだのはおまえか」 と、独り言のように呟く。 龍峰は彼にとって、もしかしたら期待外れの存在だったのかもしれない。 彼は龍峰の上から視線を逸らし、そのまま どこかに立ち去ろうとした。 龍峰は慌てて、彼を その場に引きとめようとしたのである。 時間も手間もとらせない。 一言、知りたいことに答えてくれるだけでいいのだと訴えて。 「待って! 待ってください! あなたは僕の両親が誰なのか知ってるんでしょう!」 遠ざかりかけていた金色の影は、再び 僅かに明確になった。 どうやら キグナス氷河は、龍峰の迷いに付き合う気になってくれたらしい。 彼は不機嫌そうな顔をして、不機嫌そうな声を、龍峰の許に降らせてきた。 「おまえは紫龍と春麗の子だろう」 「でも、だったら なぜ、僕は瞬さんにそっくりなの!」 「瞬にそっくり?」 それでなくても不機嫌そうな顔をしていたキグナス氷河が、龍峰の訴えを聞いて、その顔に明確に立腹の色を浮かべる。 吐き出すように、彼は、 「馬鹿を言うな。瞬はもっと美しい」 と断言した。 「……!」 伝説の聖闘士の一人のために、龍峰が最初に思い浮かべた言葉は“大人気ない”だった。 無論、声に出して言うことはしなかったが。 龍峰とて、瞬を美しいと認めることには やぶさかではなかったが、分別のある大人が子供に そんなことをはっきり言うものだろうか。 『おまえは瞬に似ている』と 伝説の聖闘士たちは、強いことは もちろん、皆 尊敬できる人格者ばかりなのだろうと思っていただけに、龍峰は、子供のように正直な白鳥座の聖闘士に少々呆れることになった。 だが、白鳥座の聖闘士が子供でも大人でも、彼は自分の知りたい謎の答えを持っている人物なのだと 自身に言い聞かせ、龍峰は何とか気を取り直したのである。 キグナス氷河に合わせて自分までが子供のように正直になってしまったら、知りたいことを知ることもできなくなってしまう。 いずれにしても、子供に社交辞令や婉曲的な言い回しは不要だろう。 そう考えて、龍峰は、単刀直入に 自分の知りたいことを彼にぶつけていったのである。 意識して――むしろ、キグナス氷河に対抗して――冷静な声で。 「僕は 瞬さんと誰かの間に生まれた子供じゃないんですか」 もしかしたら キグナス氷河は、龍峰に そう問われて初めて、その顔から表情や感情と言えるものを消し去った。 彼は、気分に従って動くことをやめた――ようだった。 しばらく無言で龍峰を見詰め、やがて短く、 「違う」 と答えてくる。 しかし、龍峰が欲しい答えは、もしかすると嘘かもしれない そんな短い答えではなく、自分が瞬に似ていることの納得できる説明だった。 それが どうしても――龍峰には、それがどうしても必要だったのだ。 「本当のことを教えてください! 自分が何者なのかがわからないと、僕は不安で僕の戦いを戦い続けられない……!」 龍峰の必死の訴えを、キグナス氷河は鼻で笑った。 「ふん。とんだ甘ったれだ。光牙といい、おまえといい、今の聖闘士は皆 こんな甘ったればかりなのか」 (どっちが !? ) 伝説の聖闘士に対して、龍峰は ほとんど反射的に胸中で反駁した。 胸中で反駁してから、自分はなぜ そう思うのだろうかと、龍峰は自身を訝ったのである。 そうしてから、まもなく龍峰は思い出したのである。 『紫龍』と呼ぶ瞬の声と『氷河』と呼ぶ瞬の声の違い。 氷河を呼ぶ時、瞬の声はいつも、手に負えない駄々っ子をあやす母親のそれに酷似していたことを。 『氷河、そんな、子供みたいに拗ねてないで、こっちに来て。氷河ってば、龍峰より子供みたいだよ。ねえ、龍峰』 その時の氷河の姿は思い出せないのに、瞬の声だけは憶えている。 幼く小さな子供だった自分が、瞬の腕に抱かれていたことだけは憶えている。 キグナス氷河が仲間の許を訪ねたのか、父が自分を連れて仲間の許を訪問したのかは わからないが、やはり自分は ごく幼い頃に彼に会ったことがあるのだと、龍峰は確信した。 だが、彼の姿も声も龍峰の記憶には かけらも残っていなかった。 子供の視野は狭い。 その理由はわからなかったが、おそらく彼は仲間の息子に距離を置いていたのだ。 自分は この人に嫌われていたのだろうか――? たとえ立派な人格者でなかったとしても、伝説の聖闘士の一人。 父とは 命をかけた戦いを共にした仲間。 そういう人に自分は嫌われていたのかもしれないと考えなければならないことは、龍峰の気持ちをひどく落胆させた。 そんな龍峰に、キグナス氷河が、まったく優しくない言葉を畳みかけてくる。 「戦えないなら戦わなければいい。だが、聖闘士が戦わずにどうやって生きるんだ」 「僕は――」 龍峰が言葉を途切らせたのは、彼の詰問への答えを持っていないからではなかった。 もちろん その答えは持っていなかったが、そうではなく――龍峰は、瞬が自分に向ける切なげな表情を思い出したのだ。 その身に魔傷を受けたために戦えない瞬――戦えない聖闘士である瞬のことを。 瞬は、自分が戦えないことを、それは彼のせいではないというのに、まるで自分が許されない罪を犯しているかのように苦しんでいた。 そして、伝説の聖闘士たちは誰もが皆 同じような状況にあると、悲しげに言っていた。 だから――この人もそうなのかもしれないと、龍峰は思ったのである。 『聖闘士が戦わずにどうやって生きるんだ』 その言葉を、キグナス氷河は、現在の龍座の聖闘士に対してだけでなく自分自身に向けても言っているのではないかと。 『おまえは戦えるのに』 『俺たちは戦えないのに』 龍峰は、言葉にはならない彼の呻き声が聞こえたような気がした。 瞬の嘆きと同じ悲鳴が聞こえたような気がした。 龍峰は、だから、キグナス氷河を――伝説の聖闘士を――これ以上苦しめないために、自身の言葉を途切らせたのである。 「ふん」 そんな龍峰の心を読んだのか――龍峰に投げつける彼の声からは 少しだけ鋭さが消えた。 そうして、彼は、 「外見の印象だけなら、確かに似ていないこともないな」 と言って、初めて その事実を認めてくれたのだった。 それから短い沈黙を作った彼は、その沈黙の後、龍峰にとっては あまりに思いがけないことを言い出した。 |