最初に、瞬の『ヒョウガ』という名詞の使い方がおかしいことに気付いたのは紫龍だった。
つらいトレーニングより、はるばる異国からやってきた新しい仲間を日本の生活に馴染ませることの方が はるかに有意義で楽しい義務と感じ、毎日 熱心にその仕事に励んでいる瞬。
その瞬を 紫龍がつかまえたのは、氷河が城戸邸に来て1週間が過ぎた頃。
瞬は『ヒョウガ』の意味を 正しく認識しているのか、誤解しているのか。
もし誤解しているのなら、その誤りを是正しなければならない。
そう考えて、紫龍は瞬に尋ねたのである。
「瞬、おまえ、何か誤解してないか」
と。

「え?」
「その――『氷河』のことを」
「ヒョウガのこと?」
「あんなに『僕の氷河』『僕の氷河』と連呼していたら、皆が――氷河も誤解するだろう。おまえが氷河のことを好きでいるのだと」
「どうして誤解なの? 僕は僕のヒョウガが好きだよ。大好き。自分のヒョウガが嫌いな人なんていないでしょ。大好きなのに決まってる」
「いや、だから、『氷河』というのはだな――」
やはり、瞬は誤解している。
そう確信した まさに その瞬間、紫龍は、どうやら瞬を捜していたらしい氷河が部屋の入口に立っていることに気付いたのである。
無愛想な仏頂面は いつも通りだが、その青い瞳が いつもの10倍も明るく輝いている。
氷河は、今の瞬の言葉――『僕はヒョウガが大好きだよ』を聞いていたようだった。

その頃には、紫龍にも 氷河のおおよその人となりがわかってきていたのである。
彼が無愛想で ぶっきらぼうなのは 感情表現が下手だからで、決して感受性が乏しいからでも、ましてや感情がないからでもない。
むしろ、氷河は感情の起伏が激しく、同時に、物・事・人への好悪もはっきりしている。
何かを(あるいは誰かを)好きになったら、その物(もしくは人)を好きであることに、それこそ全身全霊で打ち込む。
逆に、好きでないものは徹底的に無視する――それを無視していると意識することすらしないほど完全に無視する。
そんな氷河が、今 いちばん好きなもの――全身全霊で好きなもの――が“瞬”なのだ。

その瞬に『大好き』と言われて、氷河は今 歓喜の極みにいるのだろう。
氷河の瞳は、夜空の星を百万個集めたよりも明るく嬉しそうに輝いている。
今ここで――氷河のいるところで――瞬の誤解を正すことは、紫龍にはできなかった。


「瞬、遊ぼう」
氷河の声に抑揚はなく、表情も 一見したところは無感動、無愛想。
しかし、瞳だけは隠しきれない喜びに きらきらと輝いている。
これは相当の高等技術だと、紫龍は感心したのである。
感情を露わにしないことを崇高な美徳とする国があるという話を聞いたことはあったが、それはロシアのことだったろうかと。

「うん。なにして遊ぶ?」
「木登り」
瞬に問われた氷河が、愛想のかけらもない声で答える。
日本に来る以前、氷河が暮らしていた場所には 子供が登ることのできるような、比較的低いところから横枝が伸びる木が少なかったらしく、氷河は日本に来て初めて経験した その遊戯を かなり好んでいるようだった。
が、それは瞬の好むところではなかったらしい。
「僕、木登り、苦手なんだ」
瞬にそう言われると、氷河はすぐに自分の希望を引っ込めた。
「じゃあ、瞬の好きなのでいい」
「そう? 僕、あやとり好きなの」
「なんだ、それは」
「え? あやとり知らないの? ロシアにはなかったの? なら、僕が教えてあげる!」
「うん」

いつも仲間たちに一段低く見られがちだった泣き虫の自分が、人にものを教える立場に立てることが――その上、それは人助けでもあるのだ――瞬は嬉しくてならないのだろう。
愛用の あやとり紐を取り戻すと、瞬は早速 その匠の技を氷河に披露し始めた。
氷河はというと、どう考えても彼の好みには合わない その遊戯に悪戦苦闘している。
しかし、その瞳は相変わらず明るく、瞬を見詰めるほどに、氷河の瞳は その輝きを増していた。
瞬と一緒にいられるなら、あやとりが おはじきでも ままごとでも、氷河は瞳を輝かせて瞬のお相手を務めたに違いなかった。

城戸邸に集められた子供たちの中で だんとつの劣等生、落ちこぼれの瞬とばかり遊んでいる氷河は、だが、城戸邸の三巨頭に勝ることはあっても劣ることはない体力・運動能力の持ち主だった。
子供の世界は、明確な実力主義。
瞬と仲がよくても、そのことで氷河を見くだす者はおらず、むしろ“強いのに瞬と仲がいい”という共通項で、彼は三巨頭と同じくくりに組み込まれるようになっていた。
城戸邸に集められた子供たちの中では、『瞬と仲良くすれば強くなれるんじゃないか?』という珍説が まことしやかに囁かれるようにまでなっていたのである。

瞬当人は、自分がヒットポイントアップの重要アイテムなのではないかと疑われていることなど知りもせず、一緒に あやとりに興じてくれる氷河との親密度を、日を追うごとに増していた。
そして、瞬は、瞬の仲間たちが氷河を『ヒョウガ』と呼ぶことの意味を誤解したままだった。
瞬は、皆が氷河を『ヒョウガ』と呼ぶことで、彼を日本という国に、城戸邸での暮らしに馴染ませようとしているのだと思い込んでいたのである。






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