決して諦めない。
いつか必ず公爵も幸福な笑顔を浮かべてくれるようになる。
その時まで公爵を見守り続けるのだ――。
そう決意して公爵の許に戻った瞬を出迎えたのは、いつも通りに無表情ではあるのだが、それだけではない何かを含んだ公爵の青い瞳だった。
悲しみなのか、苛立ちなのか、失望なのか――ともかく 何か感情めいたものを、公爵は その瞳にたたえていた。

「おまえは、俺以外の人間の前だと笑うんだな」
「公爵様……?」
どうやら公爵は、どこからか、瞬と瞬の幼馴染みのやりとりを見ていたらしい。
静かで 出しゃばらない公爵の侍者の笑顔を 彼が見たのは、おそらく今日が初めて。
初めて見た瞬の笑顔が 彼の心に何をもたらしたのか。
それが何なのか、瞬にはわからなかったが、公爵がその事態を喜んでいないことだけは確かな事実のようだった。

「俺には笑顔など見せてくれないのに。まるで 凍りつく前の彼女のように明るく温かい笑顔だった」
抑揚を無理に消しているような声で そう言い、公爵が瞬の頬に手を当ててくる。
触れられた頬が熱い。
自分の頬が熱いのか、公爵の手が熱いのか。
ただ一つ 確実に言えることは、二人が生きているということ。
二人の身体を熱い血が巡り、二人の中には愛と情熱が確かに存在するということだけだった。

もし公爵が 彼の侍者の笑顔を期待しているのなら、もし それが公爵の望みなのなら、瞬はすぐにでも彼の望みを叶えてやりたかった。
実際、瞬は、そうしようとしたのである。
だが、星矢の前では簡単に思い出すことのできた笑い方を、瞬は、公爵の前では思い出すことができなかった。

「僕だって、笑いたい……」
瞬とて、笑いたかったのである。
だが、公爵が笑っていないのに。
公爵が笑っていないなら、瞬は彼の前で笑うことはできなかった。
公爵の前で瞬にできるのはせいぜい、公爵に見られずに済むよう涙をこらえることだけ。
懸命に涙を耐えている瞬を じっと見詰めていた公爵は、ふいに苦しそうに、思いがけない言葉を口にした。

「彼女を諦めたら、俺は笑えるようになるんだろうか。そうしたら おまえは、俺に笑顔を見せてくれるようになるんだろうか。――俺に彼女を諦めることができたなら……」
その仮定文を、公爵はなんとつらそうに語ることか。
公爵が その言葉をただの仮定文として軽口で言っているのではないことに、瞬は愕然とした。
否、瞬は、ほんの一瞬とはいえ、『そうなったらいい』と考えてしまった自分に驚き戦慄したのである。
そして、しかし、瞬は、公爵に真実を伝えなければならなかった。
その真実が、自分自身を悲しくさせることであっても。

「もし そんなことになったら、公爵様は きっと、今より もっと笑えなくなります。あの方を諦めた自分自身を後悔して」
それが事実。
動かし難く、変えようのない現実。
公爵は、彼女を諦めることで幸福になることはできない。
彼女を諦めることで、笑顔を作ることができるようにはならない。
彼女が甦り、その胸に彼女を抱きしめることでしか、公爵は本当の幸福を手に入れることはできないのだ。

そして、瞬自身も――公爵が幸福になれる時の到来を信じ、願い、彼を見守っているだけでは何にもならない――公爵のために何事かを為したことにはならない。
彼女にかけられた呪いを解き、彼女を甦らせ、そうすることによって、氷の城に縛りつけられている公爵を自由にする。
そうすることでしか、公爵は幸福になれない。
そうすることでしか、瞬は公爵を幸福にできないのだ。

「そうか……。そうだな。冥府の王が彼女を解放してくれない限り、俺は――」
公爵も、それはわかっているらしい。
視線を脇に逸らし、低く そう呟いてから、彼は再び瞬の瞳を見詰めてきた。
そして、
「泣かないでくれ」
と告げてくる。
自分が泣いていることに、彼のその言葉によって、瞬は初めて気付いたのである。
そして、悟った。
今 自分の頬を濡らしている涙が、何を決意して流された涙であるのかを。






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