「ハーデス」
小さくとも十分に役目は果たせるはずの短剣。
その剣を胸に突き立てる直前に 瞬の手を止めたのは、瞬ではなく瞬の中にいる冥府の王を呼ぶアテナの声だった。
彼女の背後には、瞬の仲間たちが控えている。
星矢と紫龍は驚きに目をみはっていたが、氷河は明白に怒っていた。
アテナが、その場に姿のない冥府の王に向かって言葉を投じ続ける。

「ハーデス。ぜひ、あなたの意見を聞きたいわ。ここで瞬が自らの命を絶つことは是か非か。瞬が死ねば、あなたは今度こそ、魂の行き場を失い 完全な消滅を余儀なくされる。私は、他の何かにあなたの魂を移してやることができます。あなたの大事な綺麗な身体は消えてしまったけれど、たとえば――目が眩むほどの輝きを放つ宝石、美しい彫像、枯れない花の中でもいいわね」
『――余を“物”にする気か』
ハーデスの答えは、瞬の声で できてはいなかった。
かといって、エリシオンで彼の肉体が作っていた声とも違う。
それは、その場にいる者たちの脳と心に直接 語りかけてくる思念のようなものだった。

「私はそうしようと思えば、いつでも そうすることができた。冥界では あなたの影響力が大きすぎて無理だったけれど、でも、この地上の光の中でなら いつでも。けれど、私は、そうする価値があると心から認めた時にしか、その力を使わないことにしているの。人間と 人間の生きている地上には存在する価値があり、私が神としての力を用いて守ってやるだけの価値があると認めた時だけ。彼等の命がけの戦いの代償に、私はポセイドンを封印した。彼等の必死の戦いの代償に、あなたの帰るべき肉体と冥界を破壊した。私は無条件に人間を庇護し甘やかすだけの神ではないのよ。守る価値があると私に認めさせるほどのものを、人間は私に示さなければならない。瞬は、それを私に示してくれたと思うわ。地上の平和と そこに生きているすべての人間、そして愛する人のために我が身を犠牲にしようという瞬の決意の代償に、私は あなたを別の何かに封印してやらなければならないだろうと思うの」

「さ……沙織さん……アテナ」
では、アテナは最初から そのつもりで――やむにやまれず そうしたのではなく、最初から瞬を――人間を――試すつもりで、アンドロメダ座の聖闘士の身体の中にハーデスの魂を封印したというのか。
瞬は、言うべき言葉を見付けることができなかった。

『あなたは いつも計算高くて嫌な女神だった。愛するか憎むか、守るか滅ぼすか――そんなことは、その対象が美しいか美しくないかで判断すればいい』
「私は、その判断をするための時間を あなたに提供したつもりよ。あなたが滅ぼそうとした人間の目で、あなたが滅ぼそうとした この世界を見る機会を、私はあなたに与えた――。計算高い私にしては、破格の大サービスよ」
『そう。つぶさに見せてもらった。矛盾を抱え、迷い、惑い、あげく、詰まらぬ男のために 愚かにも余を葬り去ろうとする瞬の心の中を』
「ええ。大切な人のために 我が身を滅ぼすことも厭わない、健気で厳しい人間の心を」
ああ言えば こう言う。
それが事実なだけに忌々しいと感じているハーデスの苛立ちが、アテナの聖闘士たちの中に伝わってくる。
アテナの聖闘士たちは、アテナに やり込められているハーデスに、内心で同情――むしろ同調?――していた。

『たかが人間一人――いや、二人の人間の幸福のために、余に犠牲になれというのか』
「瞬には それだけの価値があると思うのだけれど。なにしろ、あなたの魂の器に選ばれた人間ですもの。清らかで美しい、特上の人間。瞬の心の中の居心地は悪くないでしょう。でも、ハーデス。お引越しの時間よ。あなたに そこに居座られ続けると、瞬が生きていられないの。あなたも、あまり長く瞬の中にいると、瞬に感化され変化を余儀なくされるわよ。瞬のように、詰まらぬ男に恋心を覚えるようになってしまったら、あなた、どうするつもり」
『余は、そこまで愚かではない!』
アテナの笑えない冗談に、ハーデスは本気で反駁している。
どう見ても、今 優位に立っているのは、瞬の身体を人質に取られているも同然のアテナの方だった。

「あなたの聖戦は、いつも矛盾しているのよ。醜悪な人間たちを粛清すると言いながら、いつも その時代ごとに、あなたは美しく清らかな魂を持つ人間を見付け出し、自分の依り代にしてきた。この地上にいるのは醜い人間ばかりでないことを、あなたはわざわざ自分で証明してきたの。あなたは、地上世界に美しく清らかな人間がいることを知っているのに、その世界を滅ぼそうとする。あなたは、本当はこれまで一度も本気で この世界を滅ぼそうと考えたことがなかったのではなくて? 本当に滅ぼすのは、自分の依り代になれる人間が見付からなかった時でいい。そう考えていた」
アテナの推察は正鵠を射ていたらしい――少なくとも完全な見当違いではなかったらしい。
長い沈黙のあと、ハーデスは開き直ったかのような響きの声で、アテナの提案を受け入れることを了承した。

「では……そうだな。花がいい。枯れない小さな花」
「あなたらしくない選択だこと。私は、冥府の王の仮の住まいとして 大粒のダイヤを用意するくらいのことはしてあげてよ?」
「余の好みではなく、瞬の好みを優先させた。瞬に顧みられなくなる事態は避けたい。瞬が余を忘れてしまうことも、瞬に無視されることも、余の本意ではない。余は常に 余の存在を瞬に意識していてほしい。忘れ去られることは、死より不愉快だ」
「え……?」
戦いの女神と冥府の王の 丁々発止のやりとりに 呆然としていた瞬が、思いがけないハーデスの言葉に驚き、目をみはる。
一度は 地上を汚す醜悪なものとして滅ぼし去ろうとしていた人間の一人に『忘れられたくない』とは、人類の粛清を企てていた冥府の王の言葉とも思えない。
だが、アテナはハーデスの変化――変化だろう――を、至極当然のものと思っているらしい。
彼女はハーデスの願いに驚き戸惑った様子も見せず、むしろ楽しそうに微笑んでいた。

「そして、瞬が それをこれからずっと肌身離さず身につけていることが条件だ。その条件が満たされている限りにおいて、余は その“物”の中に留まっていてやろう」
「ならば、あなたの魂を閉じ込めた花をブレスレットかペンダントにでもしてあげましょう。でも、肌身離さずという条件は撤回した方がいいと思うわ。あなた、これから瞬と氷河がナカヨクしているのを毎日見せつけられることになってもいいの。あなたは きっと、毎日 嫉妬で悶え苦しむことになるわよ」
「……」
自分が提示した条件が、自分に不利益しか もたらさないものだということを認めたらしい。
ハーデスは速やかに条件の内容を変えてきた。
「日に一度、瞬が余に触れることが条件だ」
「わかりました。賢明な判断だわ」
ハーデスの素早い対応に アテナが頷き、瞬の方に向き直る。

「では、瞬。そのようにするわ。花……あなたが好みそうな小さな花――きっと、春の野に咲く小さな――ハコベや薄紅色のカタバミの花がいいわね」
そう言って、アテナが瞬の前に右の手を差し出す。
女神の手の平には、小さな花と緑の茎や葉をかたどった華奢なブレスレットが一つ載っていた。
アテナは一瞬で、彼女の仕事を終えてしまったらしい。
あまりにも短い時間で――たった一度 瞬きをするほどの時間も費やさず、そのわざを成し遂げてしまった沙織を見て、瞬は、本当に彼女は その仕事を為したのだろうかと疑ってしまったのである。
もしかしたらアテナは、アンドロメダ座の聖闘士に命を絶たせないために、ハーデスと組んで茶番を演じてみせただけなのではないかと。
いずれにしてもアテナは 少なくともアンドロメダ座の聖闘士が生きている間はハーデスの復活はないと確信しているようだった。
ならば、そうなのだろう。
瞬は自分の強さを信じることはできなくても、彼の女神を信じることはできた。
そんな瞬を、アテナが数秒 無言で見詰める。
「ギリシャの神々は、結局 綺麗なものに弱いのよ。特にハーデスは。あまり彼を恨まないであげて」
同胞である神を弁護してから、彼女は、その目許に浮かべていた微笑を 初めて消し去った。

「私が甘いだけの神でなくて、がっかりした? 私は、人間の心を試しもするし、量りもする。ハーデスが言っていた通り、計算高い女神よ。愛する価値を認められないものを愛せるほど優しい女神でもなければ、寛大な女神でもない」
そう問うてくるアテナに、瞬は首を横に振った。
アテナが甘いばかりの神でないことは、瞬には 素直に受け入れられること、むしろ喜ばしいことのできることだったのだ。

「いいえ。ありがとうございます。無条件に一方的に守られているばかりでは、アテナの愛情を失った時、人間は為す術がなくなる。見捨てられ、滅びるしかなくなる。守るだけではなく、裁くだけでもなく――あなたがなぜ 人間には存在する価値があると思っていてくれるのか、あなたが なぜ 不完全な人間を理解し愛してくれているのか、それが わかっていれば、僕たちも心から あなたを信じ、あなたを守るために戦うことができます」
瞬の答えを聞くと、アテナは再び その目許に微笑を刻むことを始めた。
微笑しながら、瞬が その手にしていたものを そっと取り上げる。
「こんなに賢明で聡明なあなたに こんな愚かなことをさせるなんて、恋というものは本当に侮り難い力を持つものだわ」
「沙織さん……」

「まあ、人間は、そういうところが可愛いのだけど……。人間に近付きすぎたと、私を非難する神もいるけれど――可愛いものは可愛いのだから、仕方がないわね。その件に関してだけは、ハーデスこそが私の いちばんの理解者なのだと思うわ。愛する人間が 一人だけなのか、すべてなのかという違いはあるにしても。ハーデスと私は、いわば同じ穴の貉。だから、私には どうしても彼を完全に消し去ることができなかったのかもしれない……」
自嘲するように、だが嬉しそうに そう言い、アテナが 瞬の背を押して、瞬を瞬の仲間たちの前に立たせる。
瞬を見下ろす氷河の目は まだ怒りを含んでいて、瞬は、氷河に 自身の独断専行を責められることを覚悟した。


実際、氷河は、勝手に一人で その命を捨てようとした瞬を責めるつもりでいたのである。
もっとも、彼の叱責は、
「氷河。今夜から安心して好きなだけ したいことをしていいわよ」
というアテナの 下世話なからかいに出鼻を挫かれ、更に、
「ごめんなさい、氷河」
と 瞬に謝罪の先手を打たれることで、その発動の機会を奪われてしまったのだが。
氷河の叱責を阻んだのは、それだけではなかった。
夜明け前にアテナの小宇宙で叩き起こされた仲間である星矢と紫龍までが、
「まあ、氷河に『瞬を殺せ』なんて、所詮 無理な命令だったんだよ」
「案外、沙織さんは、そんなことは承知の上で、おまえらをくっつけるために こんな茶番を仕組んだのかもしれないぞ。なにしろ、氷河の煮え切らなさは、外野の俺たちが苛立つほどだった」
と、白鳥座の聖闘士を見くびった言葉を吐いて、氷河の面目を完全に潰してくれたのである。

仲間たちの言い草に腹が立たないわけではなかったが、案外 紫龍の推察は的を射たものなのではないかと、氷河は思った。
これまで、何があっても――命を捨てても・・・・・・――生きること、戦い続けることを諦めるなと、彼女の聖闘士たちをけしかけ続けてきたアテナが、『その時には瞬の命を奪え』などという命令を、彼女の聖闘士に下すはずがないのだ。
そして、彼女なら、彼女の可愛い・・・聖闘士のために、ハーデスの存在を利用するくらいのことは 平気でしかねなかった。
ならば、彼女の期待に応えなければならない。
そう氷河は思った。

「せっかく邪魔な障害が取り除かれたんだ。夜まで待つつもりはない」
「え……」
「まあ!」
「氷河、あのなー」
「氷河、おまえは恥というものを知らないのか」
氷河の宣言に、彼の仲間たちとアテナが それぞれの反応を示す。
いちばん楽しそうな声をあげたのは、氷河の予想通り 戦いの女神アテナだった。

生きていることは楽しい。
だから、人は何があってもまず生きることを考えなければならない。
やはりアテナは そういう考えの持ち主で、おそらく これまで ただの一瞬も その考えを放棄したことはなかったのだ。
人を生かすための“死”以外、死を是認しない。
“死”で解決できることなど、実は人の世には一つもないのだと彼女は信じている。おそらく。

瞬同様、自分を信じ切ることはできないが、氷河は アテナと瞬をなら信じることができた。
そのアテナが『生きることは楽しい』と言っているのだ。
氷河は、彼女を信じることにしたのである。
氷河と同じことを、それこそ たった今 自分の命を絶つことで災いの元を消し去ろうとしていた瞬も考えたらしい。
指先で そっと氷河の手の甲に触れてきた瞬の手を、氷河は握りしめた。
生きることは楽しい。
好きな人が側にいてくれるなら、なおさら楽しいに違いない。
だから、二人は 生きることを、今日から 改めて始めることにしたのである。
どれほど多くの試練や障害があっても楽しいに違いない、“生きること”を。






Fin.






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