「なに、こんなとこで ぼへ〜っとしてんだよ。何かあったのか、瞬」
冬の前の剪定が済み 今は主幹だけが残っている薔薇の木の前で 自失したように立っている瞬の姿を発見した星矢と紫龍が、仲間の様子を訝って声を掛けてきたのは、それから30分ほどが過ぎてから。
瞬は既に“よくないこと”を考え尽くしたあとだった。
「星矢……紫龍……」
いつも通りに明るく屈託のない目で仲間の顔を覗き込んでくる星矢の様子が、今はむしろ悲しい。
瞬の瞳には涙が にじんできた。

「ぼ……僕、沙織さんに、言いたいことを言わずに うじうじしているのはよくないって言われたから、ゆ……勇気を出して、氷河に好きだって言ってみたの……」
「おっ。そりゃ、おまえにしては頑張ったじゃん。偉いぞ。氷河、喜んだだろ。踊りでも踊り始めたか」
瞬に好きだと告白された氷河の反応に、“喜ぶ”以外の選択肢があるはずがない。
それ以外のパターンを考えることができなかったので、星矢は軽い気持ちで 瞬にそう尋ねた。
そして、尋ねてしまってから、星矢は気付いたのである。
氷河の狂喜乱舞レビューのあとにしては、その周辺に 熱気や興奮の残り火が全く存在していないという事実に。
それ以前に、瞬の告白を喜んだ氷河が、瞬ひとりを この場に残して どこかに行ってしまった――としか思えない現状が、不自然を極めている。
星矢は、よくない予感に囚われて、僅かに顔を歪ませた。

「もしかして、あれか? 氷河の喜びの舞のせいで、百年の恋も冷めたってやつ?」
「氷河のマザコン振りにも動じない瞬が、今更そんなことで氷河に幻滅することもないだろう」
「でも、だったら――」
ならば なぜ、氷河の姿がこの場になく、瞬は大量の塩を振りかけられた青菜のように しおれきっているのか。
今更 瞬が氷河に幻滅することはないという紫龍の意見は 実に尤もなものだと思いはしたが、星矢の中に生まれた よくない予感は膨張を続けるばかりだった。
瞬が、そんな星矢の前で、苦しげに眉根を寄せ、そうしてから その顔を俯かせる。

「氷河は……僕の言ったこと無視して――聞かなかった振りして、どこかに行っちゃったの……」
「氷河が? まさか」
「嬉しくて、ケーキの買い出しにでも行ったんじゃないのか? おまえに好きだと言ってもらえたら、奴のことだ。喜びのあまり、ケーキ屋のケーキを全部 買い占めるくらいのことはしかねない。その買い物に時間がかかっているということも――」
氷河なら、それくらいのことは平気かつ本気でしてのけるだろう。
そう考えての、それは紫龍の慰めの言葉だった。
紫龍の前で、瞬が力なく首を横に振る。
そして、瞬は、小刻みに その肩を震わせ始めた。

「僕……僕は、そんなつもりはなかったんだけど、心のどこかで うぬぼれてたの。氷河が あんなに僕に優しいのは、氷河が僕を好きでいてくれるからだって。でも、そうじゃなかったんだ。ど……どうしよう……僕……。氷河は 迷惑だったんだ。どうしよう……!」
それ以上 一人で立っていることができなくなったのか、瞬が 星矢の胸にしがみついて はらはらと涙を零し始める。
瞬の涙に――というより、瞬に涙を流させた氷河の行動に――星矢は合点がいかず、慌てふためいた。
「そ……そんなはずないだろ!」
「うむ。日頃の氷河の態度を見てたら、誰の目にも、奴がおまえにいかれてるのは一目瞭然。おまえが うぬぼれていたということは考えられない」
「で……でも、だったら、どうして氷河は あんなに怒ってるみたいな顔をして、どこかに行っちゃったの」
「怒ってるみたいな顔?」

それが事実なのなら、怒りたいのは星矢の方だった。
戦いの場で どうしても譲れないことは決して譲らないが、それ以外の場面では 常に人の意見を立て 万事控えめ、気弱と言っていいほどの瞬が、勇気を奮い起こして告げた一言を無視したばかりか、腹を立てるとは。
大事な親友の決死の勇気を ないがしろにされて黙っていられる星矢ではなかった。
氷河の振舞いに かっとなった星矢は、瞬を紫龍に任せ、その足で氷河の許に乗り込んでいったのである。
――が。


「氷河っ、貴様、よくも瞬を泣かせてくれたなっ! 自慢のそのツラ、ぶっ潰してやるから覚悟しろっ!」
怒髪天を突いて 氷河の部屋に怒鳴り込んでいった星矢が、そこで見たものは、(氷河が自慢に思っているのかどうかは 実は星矢も知らなかったのだが)その顔ばかりか髪まで振り乱して、苦悶懊悩している某白鳥座の聖闘士の姿だった。
「俺は瞬のためになら、いくらでも変わる努力をするのに、なぜ瞬は俺に本当のことを言ってくれないんだ! 瞬はもう、俺を改善不可能の欠陥人間と見放しているのか! 瞬に見捨てられるなんて、俺はそれほど駄目な男か! 星矢、何とか言えっ!」
「へっ……」

怒鳴り込んでいった先の男に 逆に襟首を掴まれ怒鳴りつけられた星矢は、なぜ自分が そんな目に合うのか 皆目 訳がわからず、目を白黒させてしまったのである。
氷河の取り乱しようと怒声を聞いているうちに、氷河が瞬の告白を無視したのではなく、氷河は そもそも瞬の告白を それと認識していなかったのだという事実に気付く。
おかげで星矢は、どっと疲れてしまったのだった。
「駄目駄目駄目に決まってるだろ! 千年に一度 巡り会えるかどうかの幸運に出会ったっていうのに、おまえって奴は――」
自分の上に未曾有の幸運が降ってきたというのに、己れの欠点追及に専心するあまり、瞬の告白に気付き損ねる男が駄目でなくて何だというのか。
それでなくても怒りに燃えて 氷河の許にやってきた星矢は、二千年に一人 出るか出ないかの駄目男――むしろ、空前絶後の駄目男――が自分の仲間だという事実に愕然とし、その場で ほぼ真っ白に燃え尽きてしまった。
――のだが。


たとえ(ほぼ)真っ白に燃え尽きたとしても、それでも希望を失わず諦めないのが アテナの聖闘士である。
星矢は もちろん諦めなかった。
瞬のために、彼は ここで諦めてしまうわけにはいかなかったのである。
とはいえ、瞬に代わって氷河に恋を告白することもできず、氷河に代わって自分が自己改善に励んでも無意味なことを知っている星矢にできることは せいぜい、この 滅茶苦茶な事態を引き起こす元凶となった女神の許に乗り込んでいくことくらいのものだったが。

「沙織さん、どーすんだよ! 沙織さんが、自己改善しろだの、言いたいことを言っちまえだのって、氷河と瞬を無責任に けしかけたせいで こんなことになっちまったんだぞ! ほんと、何とかしてくれよ! すっかり しおれちまった瞬に もう一度 勇気をだして告白しろとも言えないし、氷河は氷河で、瞬の前でかっこいい男でいたいとか何とか無理なことばっかり夢見て、自己改善後でないと自分には瞬に告白する権利もないなんて、らしくもなく謙虚なこと言ってるし――。それもこれも みんな、沙織さんが無責任な夢分析なんかしてくれたせいだ。氷河の馬鹿はともかく、瞬を泣かせて、沙織さんは良心に痛みを感じないのかっ」
一気に“言いたいこと”をまくし立ててから、星矢は両の肩で大きく息をしながら、畏れ多くも聖域の支配者にして全聖闘士の統率者、知恵と戦いの女神アテナを睨みつけた。
自身の無責任を反省しているのか いないのか、星矢の大音声に、沙織が悠長に(?)顔をしかめる。

「そんなに大きな声を出さなくても、ちゃんと聞こえているわ。わかりました。何とかします。そうね。今夜中に」
「今夜中?」
沙織に『何とかしてくれ』と言ったのは 星矢自身である。
にもかかわらず、星矢は、『今夜中に何とかする』という沙織の返答を喜ぶことができなかった。
安堵することも、納得することもできなかった。
星矢の中では、むしろ逆に不安の念が いや増しに増してきたのである。
「今夜中……って、そんな簡単にどうにかできるものなのか?」
「私を誰だと思っているの。私はオリュンポス12神の中の1柱、知恵と戦いの女神。腐っても神なのよ。私は、人間にはできない解決方法を知っているし、それを実行に移す力も持っているわ」
「それはそうだろうけどさあ……」

まさに それ・・を期待して、星矢はアテナへの直談判に及んだのである。
沙織の余裕綽々 自信満々の態度に、星矢は それこそ大船に乗った気分になっていいはずだった。
だというのに――自分に『もう大丈夫。アテナが何とかしてくれる』と言い聞かせるほどに大きくなっていく 嫌な予感。
とはいえ、腐っても神のアテナが、ここまで自信満々でいるというのに、彼女への不信感を あからさまにすることは(星矢でも)気がひける。
自分の中の 不安と嫌な予感はどうあっても消し去り難かったが、星矢は、ここはひとまず引き下がることにしたのである。
事態が好転の兆しを見せなかったなら、明日 改めてアテナを怒鳴りつければいいだけなのだと、無理に自分を納得させて。






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