「それで? 古事記の異本の写しの写しとかいう資料はあったの? 国会図書館にもないものだって聞いたけど」
「あるにはあったが、資料というより、厄介な遺物扱いされている。古事記自体に偽書の疑いがあって、更にその異本の写しなんだから、本物も偽物もないと思うんだが、図書館側も 出どころの不確かなものを大々的に世間に喧伝するわけにはいかないんだろう。貸出し不可、コピー不可、写真撮影不可。展示されているものを手で写すしかないようだな。しかし、それがまた、ギリシャ語を縦書きにしたような へたくそな字なんだ」
「そうなの……? じゃあ、数日 通うしかないかな。ギリシャの神話ならともかく日本の神話だなんて、沙織さんは どうしてそんなものに興味を持ったのか――」
「まあ、日本の神話とギリシャの神話には やけに似たところがあるからな」

二人は、図書館の廊下を 古典籍資料室の方に向かって歩いていた。
古事記の異本の写し――それが瞬の目的物らしい。
瞬のような子が そんなものにどんな用があるのかは知らないが、何はともあれ、痴漢やストーカーと思われる危険を冒して瞬のあとを追った甲斐があったというもの。
『じゃあ、数日 通うしかないかな』
瞬のその言葉は、俺には僥倖といっていい情報だった。
つまり、俺は、この図書館で待っていれば 明日以降も瞬に会えるんだ!
そう、俺が快哉を叫んだ時だった。
氷河が後ろを振り返り、二人のあとをつけていた俺の上に 一瞬 ちらりと視線を投げてきたのは。
俺は慌てて、すぐ横にあった開架閲覧室に続くドアの向こうに逃げ込んだ。

ガイジンの歳はわかりにくいが、氷河は俺より年下だと思う。
大人への礼儀をわきまえた、どう見てもミドルティーンの瞬が、気の置けない友だちのように接しているんだから、へたをすると まだ10代ということも あり得ないことじゃない。
なのに、あの迫力は何なんだ。
俺は、逃げ込んだ開架閲覧室の閲覧者用デスクに腰をおろし、氷河の睥睨のせいで異様に速く大きく波打っている心臓の鼓動を静めるべく努めた。
いくらでも時間の融通が利く 今の自分の気楽な身分を喜びながら。
明日以降、この図書館の古書籍資料室を張っていれば、俺は確実に瞬に会うことができる。
毎日 あの美しい瞳の持ち主を見ていられるんだ。
やけに攻撃的で敵愾心に満ち満ちた氷河の態度は気になったが、それさえ気に掛けなければ 俺の人生は薔薇色だと、俺は思った。






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