たまには氷河抜きで瞬に会いたい。 その願いが叶ったのは、俺の図書館通いが8日目に突入した日のこと。 その日、古書籍資料室から出てきた瞬の隣りに、あの金髪男の姿はなかった。 「瞬! 今日は一人なのか? 氷河は風邪でもひいたのか」 傲慢を絵に描いたような あの男が風邪をひくなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないことのように思えたが、熱を出して ぶっ倒れているのでもない限り、あの男が瞬の側に貼りついていない理由を思いつけない。 俺が氷河不在の訳を瞬に尋ねると、その答えは瞬の口からではなく、瞬の背後から返ってきた。 閲覧室の外とはいえ、静寂を旨とする図書館にはふさわしくない大きく明るい声でできた答えが。 「氷河が風邪なんて、一般人の発想ってのも すげーよな。こちらさんが、氷河の神経を逆撫でしてる恐いもの知らずのにーちゃんか? 結構いい面構えしてるじゃん。デザイナーとか言ってたから、もっと軟弱そうな男かと思ってたのに」 それは氷河不在の事情説明にはなっていなかったかもしれない。 だが、氷河が風邪をひくなんて 天地がひっくり返ってもあり得ない――という、俺の考えの正しさは その大きな声によって裏打ちされた。 やはり そうだろう。 「星矢。初対面の人間に ずけずけと言いたいことを言いすぎだ。少しは遠慮しろ」 「なんだよ。一応 褒めてるんだからいいじゃん、これくらい。氷河が貼りついてる瞬に臆することなく近付ける一般人なんて、滅多にいねーぞ」 「“氷河に対抗できる一般人”のどこが褒め言葉なんだ。比べるだけ失礼というものだろう」 場所柄をわきまえない大声の子供と、呆れるほどの長髪を蓄えた男。 氷河の姿がないと喜んだのも束の間、瞬のお供は二人に増えていた。 星矢と呼ばれた声の大きい子供の方が、彼の登板の事情を“一般人”に語り始める。 「氷河が ウチの家主の命令で、急遽シベリアに行くことになってさ。俺と紫龍が 瞬のボディガードを頼まれたんだ。瞬にそんなもの必要なわけないのに」 「シベリア?」 急遽そんなところに行かされるなんて、いったい氷河はどんな生活をしているんだ。 ぽかんとしている俺に、星矢と呼ばれた子供が 初対面の大人に馴れ馴れしく言い募ってくる。 「にーちゃんさあ、これ以上、氷河の機嫌を悪くするようなことはしないでくれないかな。とばっちりはこっちにくるんだ。にーちゃんのおかげで、ここんとこずっと 氷河はブリザード振りまき続けなんだぞ。夏場ならラッキーってとこだけど、何が嬉しくて 冬場に、家ん中で凍えなきゃならねーんだよ」 「星矢。ブリザードだなんて、ナカムラさんが驚いてるでしょ。そんな お喋りは不躾だよ」 氷河に そうするように優しい口調で、瞬が星矢をたしなめる。 だが、俺が驚いているのはブリザードじゃなくシベリアの方で――ブリザードが比喩なことは 俺にも わかるが、シベリアは現実だ。 それはともかく――瞬が こんなふうに遠慮なく注意するところを見ると、この二人も瞬の“友人で家族みたいなもの”なんだろうか。 確かに初対面の人間への礼儀は欠いているが、この星矢という子供は、氷河のように人を突き放すような印象がなくて話しやすそうだった。 彼なら、自分のことを語りたがらない瞬と 無愛想を極めている氷河からは聞き出しにくい情報を俺に提供してくれるのではないか。 そう期待して、俺は、早速 情報収集活動に取り組み始めたんだ。 瞬が資料のコピーをするためにコピー室に行った隙をついて。 「瞬は、あの男――氷河の彼女なのか」 何より それが俺の知りたいこと。 星矢の答えは、瞬のそれとは少しばかりニュアンスが違っていた。 「そんなもんかな。今はまだ彼女未満だけど。でも、いずれそうなるだろうと、俺は思ってる」 と、星矢は答えてきたんだ。 瞬の答えとはニュアンスが違っていたが、もちろん瞬は嘘をついていたわけではないだろう。 ともあれ、瞬は氷河の彼女未満。氷河が瞬に特別な好意を持っていて、だが その好意を氷河は瞬に伝えていない――という俺の推察は当たっていたようだった。 「星矢は小さな声じゃ喋れない困ったちゃんだから、外で待ってて」 瞬にそう言われた星矢と もう一人――紫龍という名の長髪男――は、図書館の前の庭に出ていた。 彼等のあとを追って外に出ていた俺の頭の上には、晩秋の午後の青空。 俺の今の気持ちを そのまま映したような晴れた空が広がっていた。 「現状ではまだ、家族みたいな仲間ってとこかな。でも、氷河は 瞬には特別な執着っていうか こだわりがあるし、あいつは こういうことに関しては絶対に諦めることをしないから」 だから俺には手を引けと、星矢は そう言いたいらしい。 だが、瞬がまだ氷河の彼女未満だというのなら、俺が氷河に遠慮する必要はないだろう。 俺は氷河より何年も遅れて瞬に出会ったが、俺が氷河を出し抜いて、奴を 遅れてきた男にすることは 今からでもできる。 いや、今ならできる――今はまだできる――んだ。 そう考えて、俺が胸中で歓喜の声をあげた時だった。 それまで黙って 俺と星矢のやりとりを聞いているばかりだった長髪の紫龍が、 「星矢。いくら何でも、そういう嘘はいただけない」 と、苦い顔で星矢をたしなめてきたのは。 嘘? 嘘とはどういうことだ。 知り合ってまだ30分も経っていなかったが、星矢が嘘をつけるような人間でないことは 俺にはわかっていた。 というか、星矢は そんな面倒なことができる人間には見えなかった。 だが――瞬が氷河の彼女未満だという星矢の言が嘘なら、何が本当なんだ。 「嘘? 俺がいつ嘘なんかついたよ」 俺の焦慮に気付いた様子もなく、星矢が紫龍に問い返す。 その顔つきから察するに、少なくとも星矢は意識して嘘をついたのではないようだった。 「たった今、大嘘をついただろう。瞬が氷河の彼女――彼女未満だと」 「未満だろ。それのどこが嘘だよ」 自分の発言を反芻し、確認し、やはり そこに嘘はないと、星矢は判断したらしい。 瞬は氷河の彼女未満だと、再度きっぱり言い切ってから、星矢は一瞬 俺の顔に視線を走らせた。 「未満でも彼女だって言えば、こっちのにーちゃんも瞬を諦めてくれるんじゃないかと期待してはいたけどさ」 確かに、そういう期待を抱くことは“嘘”とは言わないな。 残念ながら、その期待に沿うことは、俺にはできそうにないが。 「俺はそんなことでは諦めない。奪い取る」 「氷河から? にーちゃん、ほんとに恐いもの知らずだな」 基本的に、星矢は氷河の味方なんだろう。 だが、彼の言葉や表情に悪気めいたものは全くなく、だから俺は星矢の忌憚のなさに好意を抱いた。 そんな星矢の正直な発言に、紫龍が、それでなくても歪んでいた顔を更に歪める。 「俺は、瞬が氷河の彼女だとか彼女未満だとか、そんな嘘を言うより、本当のことを言ってしまった方が、彼のためにも、氷河のためにも、俺たちの身の安全を守るためにも いいのではないかと言っているんだ」 「本当のこと? だから、彼女未満のどこが……あーっ !! 」 突然星矢が、いわく言い難い雄叫びを 初冬の青空いっぱいに響かせる。 そうしてから星矢は、目を幾度も しばたたかせ、まるで 空き巣狙いか何かのような仕草で 辺りを見回した。 どうやら、瞬がまだ図書館から出てきていなことを確かめるために。 瞬がまだ館内にいることを確認し、一度 肩から力を抜いて――星矢は改めて、俺の前で 嘘ではない言葉をまくしたて始めた。 「い……今の、瞬に告げ口すんなよ! 瞬が氷河の彼女だってのは間違い。瞬は氷河の彼女でも彼女未満でもない。瞬はああ見えても、れっきとした男だ男」 「……」 声の音量を下げる術を知らない この子供は、急に いったい何を言い出したんだ? 言うに事欠いて、花の風情を持った あの瞬が男だなんて。 「何の冗談だ、それは」 「そう思うだろ? 俺も時々 忘れちまってて、それでつい彼女とか――ほんと、瞬には言うなよ。俺が瞬を女扱いしたなんてことが 知れたら、俺、瞬に絶交宣言 食らっちまう」 貴様のような嘘つきが瞬に絶交宣言を食らおうが食らうまいが、俺の知ったことか。 面倒な小細工などできそうにない誠直な人間だと思ったから、俺は星矢に好意を抱いたのに、こんな馬鹿げた嘘をつける奴だったとは。 ごく短い時間だったとはいえ、星矢に好意を抱いていたからこそ、俺は星矢の嘘に腹が立った。 「君たちは 俺を瞬から遠ざけようとして、そんな嘘をついているのか。それなら無駄なことだぞ」 「遠ざかってほしいのは、瞬からじゃなく、氷河からだって言ったろ。嘘だと思うなら、直接 瞬に訊いてみろよ」 言葉は挑発のそれなのに、星矢の声には同情の響きが含まれていた。 だから、俺は――星矢に同情されていることに気付いて初めて、星矢の嘘は嘘ではないのかもしれないと思ったんだ。 ちょうど その時、図書館の正面玄関から、瞬が俺たちのいる方に駆けてきた。 「星矢、紫龍、待たせてごめんね。データをPDF化できるコピー機が なかなか空かなくて。あ、ナカムラさん、お帰りじゃなかったんですか」 星矢の嘘は嘘じゃないかもしれない。 俺のその考えは、だが 瞬を目の前にして、再び 揺らぎ始めた。 繊細な面立ち、澄んだ瞳、優しい表情。 この瞬が、女の子でないことは認められないでもないが、この瞬を男だと認めることは あまりにも難しい。 直接 瞬に確かめることなど、俺にはできそうになかった。 そんな俺を見兼ねたのか、俺の代わりに 星矢がその作業に取り掛かってくれた。 どんな少女より可憐で清楚な瞬の細い肩を、その武骨な手で 星矢が強く掴む。 「瞬。おまえを男と見込んで頼みがある」 「頼み? 何?」 「ここで、逆立ちしてみせてくれ」 「さ……逆立ち? どうして?」 「そりゃあ おまえの華麗な逆立ちが見たいからだよ」 「もう、そんな冗談」 「おまえ、男のくせに逆立ちもできないのかよ」 「男でも、そんな恥ずかしいことはできないって言ってるの」 「男同士の友情なんて、こんなものか」 「男同士の友情を確かめたいのなら、もう少し恥ずかしくないことで確かめてよ」 星矢が何度『男』と言ったか、そして 瞬が何度 自分は男ではないと否定しなかったか。 俺は数える気も起こらなかった。 「じゃあ、隣りの公園に出てたクレープ屋で、チョコバナナのクレープ奢ってくれ」 「クレープが食べたいのなら、最初から そう言ってくれればいいのに、どうして そんなにまわりくどいことするの」 わざと顔をしかめる様も可愛い瞬。 無限のイメージの源泉に思えた瞬。 何度 星矢に男扱いされても、瞬は、自分が男だということを否定しなかった。 |