翌日、氷河は退院してきた。
さすがは聖闘士というべきか、少しばかりの点滴と増血剤と一晩の休養で、体調は完全に旧に復したらしい。
しっかりした足取りで 仲間たちの許に帰ってきた氷河に、瞬は とりあえず安堵の胸を撫で下ろしたのである。
「氷河、昨日はごめんなさい」
昨夜 怪我人を責めたことを瞬が謝罪すると、氷河は一瞬 瞬の謝罪の意味がわからないような顔になった。
僅かに首をかしげてから、
「いや。確かに俺は 敵の力を見極めきれずに無茶をした」
と答えてくる。

瞬が責めたのは、氷河が一人で敵に立ち向かっていったことではなく、むしろ その後の 生きる気力皆無にも見えた彼の言動だったのだが、その事実に言及するのは危ういことに思えて、瞬は氷河の誤解を解くことを あえてやめたのである。
代わりに、
「氷河は……何か つらいことがあったの? だから、あんな投げ遣りなことをしたの?」
と尋ねる。
「別に……俺は今まで通りだと思うが」
氷河の返答は、瞬の気が抜けるくらい あっさりしたもので、氷河はもしかしなくても 本当に自分の変化に気付いていないのかもしれないと、瞬は思ったのである。
氷河の無気力を責めるよりは、氷河の無謀を責めることの方が 比較的 楽にできることでもあったので、瞬は先に その件を片付けることにした。

「氷河が敵の力を見極められていなかったとは思わないけど――氷河は、あの時、僕を沙織さんと残すべきじゃなかったの。氷河は 僕と二人で戦うべきだった。でなければ、逃げ切ることを考えるべきだった。あと数分で車は城戸邸に着いていた。その間、沙織さんの身を守ることは、あえて戦いを始めなくても可能だったし、城戸邸に辿り着けさえすれば、星矢や紫龍もいたんだから」
「逃げる? 敵に背を見せるのか」
殊勝を装っていた氷河が、瞬の言葉に不本意そうな答えを返してくる。
瞬は即座に、
「そうだよ」
と頷いた。
氷河がますます不本意そうな顔になる。
「俺には聖闘士のプライドというものがある」
「そんなもの! プライドなんかより、氷河の命の方がずっとずっと大事だよ! 傷付けられたプライドなんて、生きてさえいれば いくらでも修復がきくんだから!」
「それは そうかもしれんが……」

そうかもしれない・・・・・・・・ではなく、そうなのだ・・・・・
わかろうとしない氷河に、瞬は焦れた。
氷河が、そんな瞬に、焦れるどころでは済まないことを言い募ってくる。
「しかし、あの場合は、おまえと沙織さんを逃がして、一人で敵に向かっていった方が恰好よくないか?」
「氷河……」
命に関わる重大なことを話しているのに――瞬は そのつもりだったのに――氷河は完全に ふざけている。
なぜ氷河は、自分の命がどれほど重いものなのかを わかってくれないのか。
瞬は“腹が立つ”を通り越して、泣きたくなってしまったのである。
“泣きたくなった”だけのつもりだったのに――氷河の軽口を聞かされた時には既に 瞬の瞳からは ぽろぽろと涙が零れ始めてしまっていた。

「氷河、もうあんな無茶しないで。投げ遣りなことしないで。氷河は一人じゃないの。氷河には 氷河と一緒に戦う仲間がいて、氷河に もしものことがあれば悲しむ仲間がいるの。何があっても死ぬなと言っているんじゃないの。何があっても生きるための努力をして欲しいと言っているの」
以前の氷河は こんなふうではなかった。
少なくとも、十二宮の戦いの後は。
にもかかわらず 氷河がこんなふうになってしまったのには、当然 彼を変えるに至った何らかの出来事――原因――があったはずである。
それが仲間にも語りたくないようなことなら、それは仕方がない。
氷河に その訳を語ってもらえないことは悲しかったし、語らないために冗談に紛らそうとする氷河を見ているのは つらかったが、仲間であっても、氷河が語りたくないことを無理に聞き出すことはできないだろう。
ただ瞬は、それでも氷河に 彼の命を大事にしてほしかったのである。
でなければ、マーマやカミュやアイザック――大切な人たちの死に耐えてきた氷河の これまでの時間が無駄になってしまうではないか。

「瞬……」
瞬の涙に出会って、氷河は少なからず――否、ひどく驚き、慌てたようだった。
もしかしたら氷河は 本当に、自分の命に それほどの価値があるとは思っていなかったのかもしれない――忘れていたのかもしれない。
彼は、だが、今は思い出してくれたようだった。
それは、仲間に涙を流させる程度には重く大切なものなのだということに。
それまで、どこかに軽い気持ちを漂わせているようだった氷河が初めて、完全な真顔になる。

「瞬、泣かないでくれ。俺が悪かった。俺は、おまえを泣かせたくて、あんなことをしたわけじゃないんだ。……そうだな。俺は もう少し生きることに貪欲になった方がいいのかもしれない――いや、絶対にその方がいい。そうする」
「ほんと? 約束してくれる?」
「ああ」
「ほんとだよ?」
「ああ。おまえを泣かせたくはないしな」

一度 涙を拭ってから、瞬は氷河の瞳を見詰めた。
その青い瞳に軽々しい色のないことを確認して――氷河の約束が その場逃れの嘘ではないことを確認して――小さく頷く。
「庇ってもらったのに、ごめんなさい。ありがとう」
仲間が命を落としたわけでもないのに 大袈裟に涙を流している自分が急に気恥ずかしくなり、瞬は 無理に――少々ぎこちなく、その唇で微笑の形を作った。






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