Dズニーランド近くの海から城戸邸まで、聖闘士の足で走って30分強。 バスやタクシーを使うことはできなかったので少々の無茶をすることになったが、氷河と瞬は なんとか幼い自分たちを、なぜか懐かしく感じられる城戸邸の門前にまで運ぶことができた。 子供たちが城戸邸に帰ることに素直に同意したのは、それぞれに送られた修行地から生還し、大人になっても“仲良し”でいられる自分たちの未来を確信できたからだったろう。 そこより先に入っていってはいけないような気がして、大人たちは城戸邸の門前で、子供たちと別れることにした。 「君たちは、離れても また会えるから。それぞれの運命に耐えて、乗り越えれば、君たちはいつも一緒にいられるんだ。一緒にいたいって願って、そのために努力すればきっと、いつまででも一緒にいられるよ」 「ほんと?」 「きっとだな?」 瞬の言葉に念を押してくる二人の子供たちは、だが、決して瞬の言葉を疑っているわけではない。 彼等は、自分たちの生還と再会を、今では固く信じているようだった。 「自分の力を信じて、自分の好きな人の強さを信じて、望みを叶えるために努力すればね」 「俺たちは もう一度会う。頑張る」 そう答える幼い氷河の瞳は、今は明るく力強く輝いていた。 嬉しい未来の約束を もたらしてくれた二人の大人の前に、小さな氷河が件のハーデスのコインを差し出してくる。 「俺はもう3つお願いしたから、これは おまえ等にやる」 「助かる。これで、俺たちは元の世界に戻れる」 魔法のコインを手放すというのに、子供たちが嬉しそうな様子をしているのは、自分たちの幸福な未来が見えているから。 二人は自分の目に焼きつけるように、大人になった自分たちの姿を見詰め、やがて手をつないで 城戸邸の門の奥に消えていった。 小さな二人の後ろ姿を 微笑ましい気持ちで見送りながら、瞬は ふと思い出すことになったのである。 この魔法の旅が始まった時から ずっと胸に引っかかっていた一つの疑念を。 「でも、これが僕たちが過去に経験したことなのなら、なぜ僕たちはこのことを全然 憶えてないんだろう? こんなに不思議で嬉しいこと、忘れるはずがないのに。夢の中での出来事だとでも思っちゃったのかな」 そうなのである。 たとえ何があっても、たとえ他の何を忘れることがあっても、たとえ夢の中での出来事だったと思うようになっても、これは決して忘れないこと、忘れられない出来事のはずだった。 自分たちは聖闘士になるための修行に耐え抜き 生き延びることができるという確信は、いわば 自分の未来を保証するもの。 どんな試練にも心を安んじて挑む力になり得る出来事だというのに。 そう考えて 首をかしげる瞬に、氷河が低い声で囁くように言う。 「いや、違う。あの子たちは、この家出を夢の中での出来事だと思ったわけじゃない。俺たちが この家出のことを憶えていないのは、多分、このハーデスのコインが本物の魔法のコインで、俺が今 このコインの力で あの子たちの記憶を消すからだ」 「えっ」 氷河の言葉に驚いた瞬が その理由を彼に尋ねる前に、氷河は冥府の王の横顔が刻まれた銀色のコインに、 「あの二人から、俺たちに関わる すべての記憶を消せ」 と命じ終えてしまっていた。 「ど……どうして?」 守ってくれる親もなく、守ってくれていた兄からも引き離され、頼れるものは自分の力だけという状態で、あの幼い子供たちは これから試練の地に向かう。 そんな二人にとって、“生還と再会が約束された未来”はどれほどの力になることか。 寄る辺のない子供たちから その希望を奪うことの益が、瞬にはわからなかった。 咎めるように、心無いことをする冷たい大人を見上げた瞬の肩を、氷河が その頭ごと自分の胸に抱き寄せる。 「希望と安心は違うものだ。自分が生き延びられることを知っていたら、あの子たちは油断するかもしれない。努力を怠るかもしれない。それは、あの子たちが自分の時間を本当に生きることにはならない。それは、あの子たちのためにはならないだろう」 「そっか……そうだね……」 氷河の胸は温かく、決して冷たくはなかった。 幼い二人から ただ一つの確かな 多分、氷河の判断は正しいのだ。 希望は、外から与えられるものではなく、自分の力で自分の中に生むもの。 あの二人には、そのための力を与えてくれる仲間たちもいる。 今の瞬にできることは、幼かった自分の力と強さを信じることだけだった。 「あの子たち、ほんとに生きて帰ってくるよね? 僕たちと違う未来があるなんてことはないよね?」 「何とも言えんな。すべては、あの子たちの努力次第だろう。だが、あれほど互いを思い遣れるような子たちが、運命に負けるはずがない」 「うん……」 それも“確定し約束された未来”ではなく、“実現するかどうか わからない希望”である。 だが、おそらく それでいいのだ。 あの子たちは必ず幸福になれる。 その希望が叶うことを祈り信じていれば、それだけで。 その時間を通り過ぎてきた大人の氷河と瞬には、他には できることも すべきこともない。 「俺たちを元の時間の元の世界に戻せ」 瞬の肩を抱いたまま、氷河が魔法のコインに命じる。 次の瞬間、二人は元の部屋にいた。 そして、氷河の手から魔法のコインは消えていた。 空になった手を氷河に指し示されて、瞬は口許だけで笑みを作ったのである。 「あのコインは、あの時間にしか存在できないものだったのかな……。あと一つ、願いを叶えてもらえたのに」 幼い あの二人の 形ばかりの笑みを作った瞬に、氷河が ちらりと一瞥をくれ、彼自身も薄い笑みを作った。 「願いを3つしか聞いてもらえないというのは、あの生意気なガキの思い込みだろう。ハーデスは大雑把で、意外に気前のいい神だった。あれは無限に望みを叶えてくれるコインだったかもしれないぞ」 「そうだったかもしれないね」 「おまえ、少しも残念そうじゃないな?」 「100パーセント叶うっていう保証のない夢や希望を自分の手で叶えるから、生きていることは楽しいんだよ、きっと。僕たちは、僕たちの願いを僕たちの力で叶えればいい」 「ああ。あの子たちも、きっとそうする。おまえが心配してやる必要はない」 「え……」 傍目には優しさに見えない氷河の優しさは、幼い頃から変わっていないらしい。 その優しさに気付くことのできる大人になってよかったと、瞬は心を安んじたのである。 そして、 あの幼い氷河のためにも、自分たちは“仲良し”でいようと思う。 「ごめんね、氷河。我儘言って」 「いや……俺の方が意地を張りすぎた」 仲直りは簡単。 仲直りをしてしまうと、氷河と瞬には 喧嘩することができていた自分たちが不思議な何かだったように思えて仕様がなかった。 アテナの聖闘士たちの慰安旅行は、結局、氷河と瞬が共同で制作提案したDズニーランド・ツアープランが採用された。 それが いかに俗物日本人らしいプランであるかを力説し、アテナの聖闘士たちはそれで沙織に勘弁してもらったのである。 幼い頃、どうせ連れていってもらえるはずがないと最初から諦めて、『行ってみたい』と言うことさえできなかった憧れの夢の国――“遊園地”。 幼い氷河が幼い瞬の手を握り、そこに向かうバスに乗ったのは、つらい現実、つらい運命の前で尻込みする瞬を、少しでも夢の国の近くに連れていってやりたいと思ったからだったのかもしれない。 夢の国に入るのにも お金は必要で、幼い氷河は幼い瞬に 夢の世界を見せてやることはできなかったのだろうが。 俗物日本人ツアーの当日、氷河と瞬はDズニーランドではなく、あの海岸に向かった。 たった一日 幼い二人の“家”だった物置小屋は 既にそこにはなく、砂浜ぎりぎりのところまで宅地が迫り、砂浜からでも 人家の屋根の連なりが確認できる。 付近の光景は すっかり変わってしまっていた。 変わらぬものは、冷たい冬の海。 海から陸に向かって吹く風の厳しさ。 二人なら、その風に正面から立ち向かっていけると、迷いもなく信じることのできる二つの心。 ただ それだけ。 だが、その心だけは、どれほどの時間が流れても変わらないだろう。 懐かしい冬の浜辺で、二人は そう願い、そして、信じていた。 Fin.
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