俺の人生に立ちふさがった巨大な障害。
それは、まさに巨大な障害だった。
瞬を助手席に乗せた俺が 自身も車に乗り込もうとした時、それは 地鳴りと雷鳴が同時に発生したような 声と振動を伴って、俺たちの方に突進してきた。
そして、
「がおおおおぉぉぉーっ !! 」
と長い咆哮を響かせて俺の車の正面に立つと、そこから梃子でも動かない様相を示してきたんだ。

それは、自分のペットハウスであるところの体育館の壁をぶち壊して庭に飛び出てきたゴールディの雄姿(?)だった。
「ゴールディちゃん……!」
驚きのあまり、車から出ることも思いつかずにいるらしい瞬が、ゴールディの名を呼んで その瞳を見開いている。
ゴールディは、だが、今は瞬を見ていなかった。
ゴールディが見ているのは――睨みつけているのは―― 瞬ではなく、瞬をどこかに連れ去ろうとしている この俺一人。
ゴールディの喉は、俺に向かって 低く不気味な威嚇の音を生み続けていた。

冬の夕方、6時半。
城戸邸の庭には 既に夜のとばりが下りている。
闇の中で、夜行性のゴールディの目は爛々と金色の炎のように光っていた。
その目を見て、俺はやっと ゴールディの病名がわかったんだ。
ゴールディを襲った原因不明の病。
それは、“仮病”という名の病だ。
ゴールディは、瞬を自分の側に置きたくて、瞬の意識を自分だけに向けておきたくて、偽りの病という鎧を その身にまとった。
そういうことだったんだ。
仮病でないなら、恋の病だ。
ゴールディは瞬に恋をしていて、俺に瞬を奪われまいとしている。
俺が近付くとゴールディが元気になったのは(元気になったように見えたのは)、ゴールディが動物の直感で 俺が瞬に好意を抱いていることに気付き、俺を牽制し、追い払おうとしていたから。
俺という恋敵への敵愾心が、ゴールディを元気にしていたんだ。

わかってみれば、至極明快。そして、理路整然。
俺がゴールディの立場だったら、おそらく俺もゴールディと大差ないことをしていたに違いなかった。
ゴールディの気持ちは わからないでもない。
むしろ、わかりすぎるほど わかる。
だが――だが、だからといって、ゴールディに瞬を譲ることなどできるだろうか。
それは、できない相談だった。

俺は瞬が好きだ。
瞬は俺を変えてくれた。
瞬は、俺を、ヒトを信じることのできる人間に生まれ変わらせてくれた。
俺は瞬なしでは生きていけないと思うし、瞬のためになら、巨大な化け物と戦うことも厭わない。
問題は、俺の恋敵である その化け物を、瞬が心から愛しているということで――。

「ゴールディちゃん……?」
なんとか気を取り直すことができたらしい瞬が、車を出て、ゴールディの側に歩み寄っていく。
ゴールディが元気になって ここまで来たのか、それとも飼い主の姿が見えないことへの心細さからパニックを起こして ここまでやってきたのかの判断が、瞬にはできなかったんだろう。
瞬の戸惑いを見てとったゴールディは――ゴールディは、腹が立つほど頭のいい化け物だ。
この クソ猫は、自分が今どう振舞うことが最も自分を利するかを即座に判断し、対応を決定し、決定したことを極めて迅速に行動に移した。
夜の闇の中で金色に燃えていた怒りと嫉妬の炎を 電球色の穏やかさに変え、大地を力強く踏みしめていた四肢から力を抜いて、ゴールディが へなへなと その場に へたり込む。
そうして、
「きゅぅぅ〜ん」
と弱々しげな声を洩らした馬鹿猫は、最後に、とどめとばかりに、瞬の前で めそめそと(?)泣き出しやがった。

『動物は嘘をつかない』なんてのは、『動物好きに悪い人はいない』と同じくらいの大嘘だ。
動物は、自分が生きていくために必要なものを手に入れるためになら、何でもする。
純真というのなら、嘘をつく能力を持つヒトであるにもかかわらず嘘をつかない瞬の方が、ゴールディなんかより はるかに純真だった。
ゴールディの迫真の演技に――もちろん、ゴールディは、自分が生きていくために必要なものを手に入れるため、本気で その演技をしているんだ――ゴールディの100億倍純真な瞬は ころっと騙された。
瞬が、ゴールディの巨大な頭を抱きしめて――ゴールディが大きすぎるので、瞬は巨木にしがみついているセミにしか見えなかったが――涙ながらに嘘つき猫に謝り始める。
「ゴールディちゃん、ゴールディちゃん、ごめんなさい……! いくら氷河先生に誘ってもらえて嬉しかったからって、病気のゴールディちゃんを置いて、一人でお出掛けしようなんて、僕ったら、なんてひどいことを……。ゴールディちゃん、ごめんなさい……!」

腹の中では『してやったり』と快哉を叫んでいるのだろうゴールディが、きゅうきゅうと 更に一層 心細げな声を洩らす。
俺は、目の前で繰り広げられる演技派ゴールディと小さな瞬の茶番劇に、為す術もなく呆然としていることしかできなかった。
そんな俺を見たゴールディが、瞬に気付かれぬよう牙を剥いて、にやりと笑ってみせる。

俺は、今 この時ほど、自分がヒトであることを強く自覚したことはない。
そして、ヒトを信じず、無意味にニヒリストを気取って人生に投げ遣りだった かつての自分を、本当に愚かだったと思った。
どれほど不遇の中にあっても、どんな差別を受けても、ヒトはヒトに過ぎず、ヒトとして ヒトの中で生きていくしかないんだ。
そんな考えるまでもないことに、瞬に会う以前の俺は、なぜ気付かずにいたんだろう。
今となっては、それが不思議でならなかった。

俺はヒトだ。
紛う方なきヒト。
瞬と同じヒト。
そして、瞬は、俺にとって、俺が生きていくために どうしても必要な人、誰にも渡すことのできない人だ。
自分が生きていくために必要なものを手に入れるために、なりふり構わず何でもするのはゴールディだけでなく、俺とて同じ。

だから、俺は決意したんだ。
今日のこの日、今この時から、瞬を愛するゴールディとの命をかけた戦いに挑むこと。
そして、瞬と同じヒトとして、俺が必ず その戦いに勝利することを。

すべては、瞬の愛を手に入れるため。
ヒトのプライドにかけて――俺は、小ずるい演技派の化け猫などに負けるわけにはいかなかった。






Fin.






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