避けられない戦いの予告を残して、ハーデスの従神たちは アテナの聖闘士たちの前から姿を消した。
その出来事は、アテナの聖闘士の戦いは永遠に終わることがないのではないかという予感を生むものでもあった。
だが、氷河は それで絶望するようなこともなかったのである。
アテナの聖闘士として戦い続けることは、いつのまにか彼の中で、自分が生きている証、自分が生きて存在する価値を示すものになっていたから。
アテナの聖闘士として戦い続けることは、自分の命をも迷いなく預けることのできる仲間たちと共に在ること――瞬と同じ夢と希望を見詰めて生きていられること。
もしアテナの聖闘士として戦うことをしなくていいと言われていたら、氷河はむしろ そう言われることの方に戸惑い混乱し落胆していたかもしれなかった。

だが、瞬もそうかと問われると、自信をもって『そうだ』と答えることはできない。
もちろん瞬は戦い続けるだろう。
だが、それが瞬にとって幸福なことなのかどうか。
たとえ相手が邪悪に染まった敵であっても、できる限り 傷付け倒すことを避けようとする瞬が、大きな戦いの到来を予告され、あまつさえ、瞬自身の存在が その戦いの行方を左右すると宣告されてしまったのである。
瞬の不安と恐れ――それは察するに余りあるものがあった。

「大丈夫か」
金銀の神の姿と気配が城戸邸から――地上世界から――消えた その日、その夜、氷河は瞬の部屋に赴き、瞬に尋ねたのである。
尋ねる前から、瞬の“答え”はともかく、“結論”はわかっていた。
だが、今、今日のうちに確かめておかないと、瞬の“答え”を知る機会は永遠に失われてしまうかもしれない。
そう考えて、氷河は瞬に尋ねたのだった。
瞬は戦い続けたいのか、それとも――。

瞬の“答え”はともかく、“結論”は わかりきっており、変えることはできない。
だが、氷河の心のどこかには、瞬の“答え”を知ることを恐れる気持ちがあったのかもしれない。
だから瞬への問い掛けが ひどく漠然としたものになってしまったのかもしれない。
氷河に何を問われたのかが わからなかったらしい瞬は、
「何が?」
と、氷河に反問してきた。
一瞬ためらってから、氷河が その質問の意味するところを告げる。

「おまえは俺たちとは違う。平和のため、正義のためと開き直って戦っている俺たちとは違って、おまえは敵を傷付け倒すたびに いちいち傷付いて――」
瞬は開き直ることをせず、それを罪だと思い、敵を傷付け倒すたび いちいち・・・・瞬自身も傷付く。
その点で、瞬は、瞬の仲間たちと一線を画する聖闘士だった。
そんな瞬に、これからも戦い続けることができるのか。
いつまで戦い続けるのか、いつまで 瞬の心は壊れずにいられるのか――。
氷河は悲痛な気持ちで訊いたのに、氷河の その言葉を聞くと、瞬は一瞬 大きく瞳を見開き、少し がっかりしたように瞼を伏せ、最後に くすくすと楽しそうに笑い出した。

「何のことかと思ったら……。僕には仲間がいるから大丈夫。氷河、ありがとう」
「ありがとう?」
なぜ謝辞を告げられるのかが わからず問い返した氷河に、瞬は笑って小さく首肯した。
「氷河が あの神様たちに言ってくれた言葉、嬉しかった」
「――俺は 事実を言っただけだ。おまえの強さ清らかさは筋金入り。俺は おまえに何もしてやれん」
瞬の強さと清らかさは、瞬自身が培ったもの。
白鳥座の聖闘士はアンドロメダ座の聖闘士の心を守るために何をしてやることもできない。
それもまた事実。
氷河の少々自虐の色が混じった答えに、瞬は困ったように眉根を寄せ、そうしてから氷河の顔を見上げ、見詰めてきた。

「僕を見てくれている人がいる。信じてくれている人がいる。僕の気持ちをわかってくれている人がいる。それって、とても幸せなことで、とっても嬉しいことで、それが僕の力の源なの。だから大丈夫」
「……」
瞬らしい答え。
それが嘘ではないことが――少なくとも瞬は そうだと信じていることが――氷河を切ない気分にさせた。
瞬は現状を受け入れ、そこに希望を見い出そうとし、決して それ以上のことを望もうとはしない。
それは おそらく、人が不幸にならないための最も賢明な生き方である。
だが 氷河には、そういう生き方ででしか これまでの人生を生きてこれなかった瞬が 悲しい人間に――強くて悲しい人間に思えてならなかった。

その思いを表情に出してしまったのか――。
瞬は、ふいに、
「氷河は、清らかってどういうことだと思ってるの?」
と、氷河に尋ねてきた。
「俺は――俺自身は到底清らかな人間ではないから、その正しい答えはわからない。だが、おまえを見ていると、それは 信じる気持ちを忘れないということなのではないかと思う。今度こそ 平和の時が訪れる、今度こそ 戦いは終わる、今度こそ 人も神も戦いの悲惨と無益を悟り考え直す――。その期待を幾度 裏切られても、おまえは人を信じる気持ちを失わない」
「それって、僕が懲りることを知らない馬鹿だってことじゃないの?」
「おまえは馬鹿だろう」

決して侮る意図はなく、むしろ瞬への敬意を込めて、氷河は瞬にそう答えた。
瞬も腹を立てた様子は見せず、逆に楽しそうな笑い声を洩らしてみせた。
「ご立派な神様たちに 『清らか』って言われても信じる気持ちにはならないけど、氷河に『馬鹿』って言われると、素直に認められるね。本当に僕は馬鹿だ。馬鹿な期待をして……」
「馬鹿な期待?」
「そう。馬鹿な期待。氷河は、僕が徹底した現実肯定主義者で、欲も向上心もない人間だって思ってる?」
「あ、いや……決して そんなことは――」

『そういう人間だと思っているのか、思っていないのか』と二者択一を迫られたのであれば、氷河は『思っている』を選んでいただろう――その答えを選ぶしかなかっただろう。
だが、それは どうやら瞬が望む答えではないらしかった。
それまで、多少 色合いに変化を見せはしても 常に微笑と呼べるものを その瞳に浮かべていた瞬が、今は眉をしかめて、白鳥座の聖闘士を軽く睨んでいる――ように見える。
氷河が答えに窮する様を露呈すると、瞬は その場で一つ、長い嘆息を洩らした。

「あのね、氷河。あんなことがあった日、夜も更けてから氷河が僕の部屋に来てくれたんだよ。肉欲で僕が汚れるかどうか試してみよう――くらいのことを言ってくれるかと、僕、期待したのに……。なのに 氷河ってば、どうして こんな――これまでに語り尽くされてきたような話題を今更 俎上に上げて、そんな難しい顔して、僕のこと 心配してたりするの」
「……」
いったい瞬は何を言っているのか――と、このタイミングで考え始めたりするところを見ると、白鳥座の聖闘士も アンドロメダ座の聖闘士同様、立派な馬鹿なのだろう――と思う。
あろうことか、氷河は、戦いの予告に接した瞬の気持ちを案じるあまり、個人的ではあるが極めて重要な その問題を忘れていたのだ。
白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に 特別な(あまり感心できない)好意を抱いている事実をタナトスに看破され、その現場を瞬に見られてしまったという大問題を。

馬鹿はどっちだと、氷河は自分自身に問うた。
それはおまえだと、氷河の馬鹿ではない部分が 氷河に即答してくる。
この場を どう切り抜けるべきなのか。
そもそも瞬は、瞬に恋している男のことを どう思っているのか。
氷河は己れの脳細胞を光速の100万倍も速く活動させて、何とか 一つの突破口を見い出した。
自分の不手際に死ぬほど慌てていることを瞬に悟られぬよう、でき得る限り落ち着いた声で、
「おまえは汚れない」
と、短く答える。
大慌てに慌てていることを隠そうとする氷河の努力は、結局 無駄――というより無意味――だったらしい。
瞬は、再び その瞳に微笑を浮かべて、
「氷河とならね」
と答えてきた――答えてくれた。

長いことずっと夢見てきたことなのに――そうだったからこそ、なおさら――氷河は、あまりに出来すぎた この展開に戸惑わずにはいられなかったのである。
さっさと瞬を抱きしめてしまえと、氷河の両腕が氷河に命じてくるのに、氷河は すぐには動くことができなかった。
いつまでも次の行動を起こさない氷河を、瞬が不安そうな目をして見詰めてくる。
瞬に いらぬ誤解をさせないために、氷河は自分の右の手をのばし、瞬の頬に そっと触れた。

「氷河……?」
「あ、いや……俺は、あの傲慢な神たちに感謝すべきなのかと思ってな。奴等は 俺の気持ちをおまえに知らせてくれた」
「感謝なんかしたら、きっとあの二人は怒るでしょう」
「怒らせておけばいい」
あの二柱の神を激昂させることになっても、この感謝の気持ちを消し去ることはできない。
ハーデスの従神たちに感謝しながら、氷河はついに 求めてやまなかった人を、その腕と胸で抱きしめた。

もしかしたら 一生 この胸に抱くことはできないのかもしれないと思っていた人。
その人が、今、自分の腕と胸の中にいる。
氷河の驚嘆にも似た喜びは 尋常のものではなかった。
瞬の優しい温もりは、瞬を抱きしめている男を逆に抱きしめ包んでいるようで、これから二人が何をしても瞬が汚れることはないだろうという氷河の確信を 更に強いものにした。
氷河のその確信が、だが、瞬には嬉しいものだったのかどうか――。

「あの二人の神様たち、どこまで本当のことを言ってたんだろう……。僕が汚れることができたら、もしかしたら戦いが起こらない――っていうこともあるのかな……」
戦わなければならない戦いは戦い抜く。
もちろん、逃げることはしない。
だが、戦いを避けることができるのなら、それが最善の道であるに決まっている。
それが、瞬の考えで、瞬の望みでもあるようだった。

白鳥座の聖闘士の胸の中で小さく そう呟いた瞬の髪に唇を押しつけ、氷河は再度 更に強く力を込めて瞬の身体を抱きしめたのである。
瞬の この細い肩に、運命はいったいどれだけの重荷を載せようとしているのか。
それが目に見えるものだったなら、瞬の運命の重荷など 即座にフリージングコフィンの中に閉じ込めて異次元にでも飛ばしてやるのに、氷河にできることは、『その運命に立ち向かえ』と冷酷に瞬に言うことだけなのだ。

「しかし、今度の聖戦が冥界での最後の戦いになるという予言が事実なら、その戦いを避けることは、ハーデスを倒す千載一遇のチャンスを自ら 潰すことなのかもしれない」
「……」
いずれにしても戦うしかないのだ、アテナの聖闘士は――瞬は。
瞬にその覚悟があることが、氷河は悲しかった。
「戦いが、いつも、自分以外の“敵”とじゃなく、自分の弱さとの戦いだったらいいのに。そうすれば、僕は誰かを傷付けずに済む」
「そうだな」

あまりにも ささやかな瞬の願い。
自分の弱さとの戦い――そんな小さな戦いにさえ逃げを打つことの多い人間たちを守るために、そんな人間たちを信じて、アテナの聖闘士としての瞬は戦い続ける。
瞬のために、すべての人間が強いものになってほしいと、氷河は叶わぬ夢を夢見た。
それを 叶わぬ夢と思うか思わないかが、清らかな人間と そうでない人間を分ける分岐点なのだと思いながら。
それを叶わぬ夢と思う すべての人間の弱さを許し、受け入れ、だが 決して その弱さを許さない瞬の心。
この心を汚すことは、どれほど強大な力を持つ神にもできないことであるに違いない。

だからアテナの聖闘士は、どんな名を冠する神にも負けることはないだろう――と、氷河は信じていた。
瞬のように すべての人間を信じることはできないが、すべての人間を信じる瞬をなら、どこまでも いつまでも信じることができる。
おそらく、それが 白鳥座の聖闘士の清らかさだった。






Fin.






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