瞬王子の身柄という保証の効き目は瞠目すべきものでした。
ティラシア王国の氷河国王が既に船と人員の貸し出しの準備に入っているという紫龍の言葉は嘘ではなかったらしく、瞬王子をティラシア王国の王宮に送り届けるための船がカリステー王国の港を出ると、その船が元の港に戻る前に、ティラシア王国の船が約束通り50艘、カリステー王国の外海に面した側の港に横づけされることになったのです。
その対応の迅速なこと。
カリステー王国とティラシア王国が双方共 小さな島国で、両国間の移動にさしたる時間がかからないということを考慮しても、それをやり遂げてみせたティラシア国王の手腕は見事というほか ありませんでした。
なにしろアテナイからの降伏勧告の回答期限の2日も前に、カリステー・ティラシア同盟軍の防衛態勢は整ってしまったのですから。
これでカリステー王国の独立と自由は守られる――少なくとも、カリステー王国がアテナイの植民地に成り下がることはないと、カリステー王国の誰もが思いました。
一輝国王も、もちろん そう思いました。

けれど、なんということでしょう。
1000年の対立期間を経て、史上初めて実現したカリステー・ティラシア同盟軍は、どんな活躍をすることもなく壊滅してしまったのです。
とはいえ、それはカリステー・ティラシア同盟軍がアテナイの大船団に為す術もなく敗れ去ったということではありません。
為す術もなく敗れ去ったというのなら、それはアテナイ軍も同じでした。
カリステー・ティラシア同盟軍とアテナイの大船団に 僅かな抵抗も許さなかった強敵。
それは自然の驚異。
あり得ない規模の大暴風雨――アテナイからの降伏勧告の回答期限の まさにその日、大陸に囲まれた内海であるがゆえに常は穏やかなエーゲ海に突如 沸き起こった巨大な嵐でした。

カリステー・ティラシア同盟軍とアテナイ軍の戦いを阻止した嵐は、はるか遠くインド洋で生まれ、アラビア半島を横断して、地中海にまで勢いを失わずにやってきた稀有な嵐だったようです。
嵐は、まるで世界の帝王の行進のように ゆっくりと、空を黒く染めながら、東方から進んできました。
その不吉な黒い空に気付き仰天したアテナイ軍は、暗雲がエーゲ海に到達する前に、飛ぶ鳥のように西へ――アテナイの港目指して逃げていってしまったのです。
それが極東の島国で起こった出来事だったなら、その島国の民は『神風が吹いた』と言って、神が起こしてくれた奇跡に感謝していたことでしょう。
なにしろ、戦わずして侵略軍を撃退することができたのですから。

けれど、カリステー王国の民はともかく国王は、その勝利を喜ぶことはできませんでした。
嵐は、カリステー王国の港を直撃、港にいた船の大半を壊して どこかに消えてしまったのです。
嵐の進む速さが極めて遅いものだったため、人間が避難する時間はたっぷりあって、死傷者は一人も出ませんでしたが、国の財産の核を成す船は そのほとんどが使い物にならない状態になりました。
それはティラシア王国からやってきた50艘の船も同じこと。
つまり、カリステー王国は、ティラシア王国から借りた船を返還できなくなってしまったのです。
一輝国王は自国の勝利を――不戦勝でしたが――喜ぶどころではありませんでした。

借りたものは返さなければなりません。
一輝国王は すぐさまティラシア王国に使者を送り、ティラシア王国の漕ぎ手は即刻 全員帰国させ、大破・半壊した船は新たに建造して返還すると、ティラシア国王に言上させました。
だから、弟を兄の許に返してくれと。
ティラシア国王の返答は、
「抵当を返した途端、しらばっくれられてはたまらない。瞬王子の帰国は、貸したものの返還が すべて済んでからだろう」
というものでした。

毛嫌いしているティラシア国王の言葉とはいえ、それが不当なものではないことは、一輝国王にも わかりました。
氷河国王の言うことは尤も至極。
カリステー王国とティラシア王国の貸借契約は 信用貸しではなく抵当貸しだったのですから、氷河国王は、ものを貸した側の人間として当然の権利を主張しているだけなのです。
ですが、物品の貸借契約の抵当に 人間の血肉を要求してくるような国王の統治する国で 瞬王子がどんな目に合っているかを考えると、一輝国王は いても立ってもいられない気持ちになりました――ならずにいられませんでした。

相手は、心優しい瞬王子を 心を持った一人の人間ではなく、血と肉でできたモノとしか見ていない、人に非ざる人。
そんな異常な発想の持ち主の側にいたら、瞬王子は それこそシチューにされて食べられてしまうかもしれません。
トラキアの王テレウスの妻プロクネは、夫が妹を犯した事実を知ると、復讐のために彼との間に生まれた我が子を殺し、その肉を夫に食べさせることで復讐を果たしました。
タンタロスは、神の力を試すために我が子ペロプスをシチューにして神々に振舞いました。
リュカオーンの息子マイナロスもまた、ある少年の肉で作った料理を 人間に化けたゼウスに食べさせようとして、大神の怒りを買ったと言われています。
常識で測ることのできない残虐を備えた人間は どこにでもいるのです。
50艘の船を修理・建造して すべて返還できるようになるまでには、少なく見積もっても半年はかかるでしょう。
そんなに長い間 瞬王子を残虐な氷河国王の側に置くなんて、考えただけで一輝国王は頭がおかしくなってしまいそうでした。

最愛の弟の身を案じる一輝国王は、そうして、自分の頭を守るためにも、非常手段に訴えることにしたのです。
瞬王子の幼馴染みで、若年ながらカリステー王国の王宮の警備隊長を務めている星矢を 王の私室に呼びつけて、一輝国王は彼に瞬王子奪還を命じました。
「この際、手段は問わない。夜陰に紛れて さらってくるくらいのことはしてもいい。とにかく瞬を取り戻してこい」
一応 主君ということになっている一輝国王の命令を聞いた星矢は、彼にしては珍しい思案顔になりました。
一輝国王の命令は、国と国、王と王の約束を一方的に破棄すること。
二つの国の間に深い禍根を残すことになりかねない暴挙でしたから。

「瞬を心配する おまえの気持ちはわかるけどさあ、んなことしたら、今度は ウチとティラシアの戦争になるかもしれないぞ」
「借りた船は必ず返す。相手が ただの馬鹿王だったら、瞬も うまくあしらって我が身を守ることができるだろうが、ティラシアの王は馬鹿ではなく狂人だ。あんな残酷な条件をつけてくるティラシアの王は、瞬に何をするかわからん。瞬が食人鬼に食われてしまってからでは、取り返しがつかない」
「考えすぎだって。ティラシアの国王がほんとに食人鬼だったとしても、瞬なんて 細っこくて食いでがないだろ」
一輝国王を落ち着かせようとして星矢が告げた言葉は、完全に逆効果。
その言葉を聞くなり、一輝国王は、その頬から血の気を失い真っ青になり、次に真っ赤になって いきり立ち、瞬王子の即時奪還を 星矢に厳命したのでした。






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